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あおい絢也じゅんやの家に来て数日が経ち、葵も絢也との暮らしに大分慣れてきたようだ。



絢也の一日のスケジュールは、その日によってバラバラだ。起床時間から家に帰る時間、休みの日も不定休で、あまり決まりというものが

ないようだ。なので葵は、なるべく一日の始まりと終わりは絢也と顔を合わせるようにした。


絢也は葵に気を遣ってか、見送りや出迎えはいらないと言ってくれているが、葵は絢也の好意で何から何まで世話になっている身、二人が元々名前のある関係性であったなら、もう少し甘えられたかもしれないが、絢也とはつい最近知り合ったばかりだ、家主に顔も見せないで過ごすのは葵の気持ちが治まらないので、絢也がどんなに早く起きようと、どんなに遅い帰宅になろうと、顔を見せようと葵なりのルールを決めた。

もし煙たがられたら控えようと思ったが、絢也は毎回嬉しそうな顔をしてくれるので、葵はその度にほっとしていた。いつかはこの家を出なくてはならないが、それまでの間、すれ違いの多い絢也との生活の密かな楽しみとなっていた。



葵の決めた個人的なルールはもう一つある。


世話になっている身としては、家のどこを掃除したとか、生活費は幾ら使ったとか、一日の終わりに色々と報告をしたい事はあるが、絢也は疲れていたり、仕事の準備があったりと、家には寝る為に帰ってくるだけのような日も少なくない。なので、一日の報告をノートに書き留めておくことにした。


絢也は必要ないと言うが、葵にとっては大事なことだ、読まれなくてもいいので毎日の記入は欠かさなかった。

葵は、家事をやる条件で住まわせて貰っている。お金は貰ってないが、何かあれば出してくれるし、生活費も預かってる。


出会って間もないというのに、絢也は葵を信用してくれているようだった。けれど、信用なんていつ失うか分からない、葵が望まなくても、そういう事は起こってしまう。

葵は自分の立ち位置を思い知らされるようで、つい暗い気持ちに落ち込んだが、葵にとってそれはいつだって忘れてはいけない事だった。それは絢也に対しても変わらない。


でも、と、葵は洗濯機を回しながら、小さく溜め息を吐いた。


誰かに近づきすぎてはいけない、そう思うのに、最近は自分の気持ちも上手くコントロール出来ないでいる。

どうにか走り出しそうな気持ちを抑え、絢也の前では普通を装っているが、「葵さんが一番いい、他には要らない」という絢也の言葉が頭を巡り、葵を困らせる。


「結局、あれはどういう意味だったんだろう…」


洗濯機の中、洗濯物が回る様子を眺めながら、葵はぼんやりと呟く。


あの言葉の真意は、まだ聞けていない。聞ける筈がない、その答えを聞くのが怖いし、万が一、絢也が自分と同じ気持ちを抱いていたら、その気持ちをきっと受け入れてしまう。


葵は頭を振って立ち上がると、気合いを入れて腕まくりをした。


「さて!掃除に取りかかるか!」


洗濯機を回している間に、出来ることをしよう。葵はそう張り切って、今は頭の中から絢也の事を追い出した。



絢也の答えに期待する自分と、期待を裏切ってほしいと望む自分がいる。

恋なんてしたくないと思っていたのに、辛い思いをするだけと分かっているのに。

絢也にだって頼ってはいけない、ここをいずれ出て行かなくてはいけないんだから。


だから、夢が終わるその時まで、それは分からないままで良いような気もしている。葵は、そんな風に思っていた。







午後三時を過ぎて、葵はノートに買い物をしてきたレシートを貼り付け、今日やった事を書き出した。絢也は今日、帰りが遅くなるから晩御飯は要らないそうなので、夜は残り物を消化しようと考えている。なので、後は一日の終わりに、お風呂とトイレを掃除するだけだ。



葵は、相変わらず段ボール箱の置かれたリビングを見渡す。

もし手をつけて良いなら片付けるのだが、さすがに家主の居ない間に、家主の持ち物を勝手に片付けるのはどうかとも思う。もしかしたら、またすぐに引っ越すつもりかもしれないし。


「…七菜ななちゃんか…」


頭に過るのは、数日前に絢也との熱愛報道が出ていたアイドルだ。


あの子、可愛いもんな、いつかあの子と暮らすのかな。と、考え、葵ははっとして頭を振った。


自分には関係のない事だと、最近ろくな事を考えないなと自分を叱り、葵はノートを片付けると、ベランダの戸を開けた。

今日は良い天気だ、雨は降らないだろう。網戸を閉めて、心地好い風に軽く伸びをする。


そして、自分の部屋から、自分の段ボール箱を持ち出した。ウサギのキャロットが乗ったままなので、ハンカチを敷いたまま、テーブルの上にキャロットを座らせ一撫でする。触り心地はふわふわだ。


そのまま床に座り込むと、段ボール箱の中から取り出したのは、画材道具だ。

大きなスケッチブックを取り出し、黒いペンを持ち、ふむ、と悩む。さて、何を描こうか。


真っ先に思い浮かんだのは、何故かクラゲだ。


「…クラゲ、ちょっと見たかったな」


絢也とデートした日に見た水族館のポスター、クラゲが今にも動き出しそうで、心を奪われた。

ポスターには確か、クラゲの大水槽が出来たと書いてあった。特別、クラゲや水族館が好きというわけではないが、あの写真のモデルになったクラゲには会ってみたい。

水の中をふわりと浮く様が、温かな手に引かれて自由を感じた絢也とのデートを思い起こさせる。

なんだかんだ楽しんでいたな、俺。なんて思い出して頬を緩めた頃、インターホンが鳴った。


「…誰だ?」


そういえば、客が来た時の対応は相談していなかった。どうしようかと迷っていると、玄関の向こうで何やら話し声が聞こえる。なんだなんだと思っていると、今度は鍵が開き、ドアが開くと同時に絢也が飛び込んできた。


「あれ?随分早かったね」


遅くなると言っていたのに。声を掛けたが、絢也は答えるより早く葵を背に隠すよう立ちはだかったので、葵は目を瞬いた。

一体何事だ、そう思っていると、誰かが玄関に入って来た。


年齢は葵達と同じ位だろうか、背筋をしゃんと伸ばしたスーツ姿の女性だ。背が高く、黒い髪を後ろに一つに纏め、眼鏡を掛けている。

一瞬、恋愛報道の相手かと思ったが、確か彼女は小柄で、明るい栗色の髪をしていた筈だ。

キリッとした眼差しに、葵は狼狽える。

彼女が誰か、絢也とどういう関係かは分からないが、何かただならぬ様子を感じる。


「あの、俺、邪魔なようなので外に、」

「駄目です!葵さんはここに居て下さい」


葵の声を遮って絢也が言う。その様子からは、必死さと、それでいて少し怒っているようにも感じられた。葵は困惑しながら相手の女性を見れば、彼女もまた怒っているようだった。バチバチと見えない火花が、二人の間に散って見える。


「そちらが例の方ですか」


彼女の、例の方、という言い方に、葵は居心地の悪さを感じた。

何があったのかは分からないが、きっと自分に関する事で良くない事が起きてるのだろうと葵は思い、狼狽えた。


三崎みさき絢也、ヒモを囲う”。“三崎絢也、同性愛発覚”。いや、同性愛者は自分だけか、そう考えたところで、葵は数々の絢也との接触を思い出し、頭を抱えた。


葵がヒモをやっているなんて言わなきゃ分からないし、同居はルームシェアをしているからで、男同士だから友人ですと名乗る事も出来る。だが、自分達がどうであれ、第三者に別の見方をされてしまえば、それが真実と認知される事も、また容易にある。

いくら男だからと言ったって、絢也にとって、よくない噂が立つことはあるのだ。



「そちらの方が、三崎さんを連れ込んだんですか?三崎さんが浅見あさみさんと会うために家を提供してるんですよね?」

「……え?」



何を言われるんだろう、ある程度の覚悟をしていた葵だっが、思わぬ方角から飛んできた話に、拍子抜けした。


「だから、全然違うって言ってるじゃん!ここは、俺の家!俺が選んでここに引っ越したんです!もう、事務所のイメージとか、何でもかんでも決めつけられるのが窮屈だったんだよ!それに、この人に居てくれって頼んだのは、俺なんです!この人は何も悪くない!」

「そうですか、ではどういったご関係の方ですか?あなた、三崎さんと何故同居を?」


彼女の視線が、絢也から葵に向き、葵は思わず肩を跳ねさせた。何故と問われても、さすがに正直には説明出来ない。言い訳はいくらでも出来ると思っていが、面と向かって問い詰められたら、その迫力も相俟って、葵は言葉を詰まらせてしまう。

どうしようと、葵が返答に困っていれば、絢也が更に葵を庇うように腕を上げてそれを制し、更に絢也は何の躊躇いもなく、するりと言葉を口にした。


「高校時代の先輩ですよ。今、ルームシェアしてるんです」


予め用意していたのか、堂々と言ってのける絢也に、さすが演技派としても注目を集める俳優だなと、胸の内で感嘆する。そういう設定があるなら、先に言っておいてよ、とも思ったが。


「本当ですか?」

「そうだって言ってるでしょ」

「私は、そちらの方に聞いてるんです」


すると、彼女は靴を脱いで部屋に上がってくる。怒っていても、ちゃんと脱いだ靴を揃えるのは忘れない。


そのまま彼女は歩み寄ってくるが、絢也も譲らない。葵を背に庇ったまま歩み寄る彼女に対し、絢也もジリジリと後退る。

そんな中でも、彼女は真意を見極めようと、絢也越しに葵を見上げてくる。葵より背は低いが、彼女から発せられるその気迫は葵は怯み、弱腰になりながらも、「本当です」と、どうにか頷いた。


その様子を暫しじっと見つめていた彼女だが、不意にその視線をリビングに移した。素早く、だが狙いを外さないような視線の行方に、葵は冷や汗が流れるのを感じる。

何も、やましいものは無いよな。

何も無い筈、そう思っても、後ろめたさが居心地の悪さを引き出してくる。


ややあって、納得出来るものがあったのか、彼女は突然一歩身を引くと、潔く頭を下げた。


「失礼な態度を取ってしまい、失礼しました。ご無礼をお許し下さい」

「…え?」


彼女の態度の変化に葵はきょとんとし、絢也は大きく脱力したように息を吐くと、葵の前から体をどけた。彼女は胸元から名刺ケースを取り出すと、それを葵に差し出した。


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