8




翌朝、あおいが起きてリビングに行くと、絢也じゅんやの姿は既になく、テーブルの上には一枚の書き置きがあった。

“仕事に行ってきます”、とだけ書かれたそれを手に、壁掛け時計を振り返る。

時刻は朝の六時過ぎ、絢也じゅんやは一体いつ家を出て行ったのだろう。


「…芸能人の朝は早いんだな…」


絢也の帰りは何時頃だろうと、葵はリビングのソファーに座り、ぼんやりと思う。


教えてくれたら見送りしたのに。


そう思いはしたが、絢也はそれでもきっと、自分を気遣ってこっそり家を出て行くのだろうと葵は思い、主の居ない殺風景な部屋のソファーに横たわった。昨夜の内に、ある程度家での過ごし方を話し合った。掃除も洗濯も料理も、葵の好きなようにして良いとのこと。絢也の部屋も出入り自由で、書き置きの上には合鍵が置いてある。


「あいつには危機感がないのかな…」


信用されるのは嬉しいが、出会ってまだ二日ばかり。昨日の段階で随分打ち解けてきたとはいえ、向こうは街で追いかけられる程の有名人だ。もし同居相手が何かを盗んだり、好感度が落ちるような話題を世に流されたらどうしよう、とか思わないのだろか。


「…嫌だな、見つけたくないな…」


恋人の形跡を見つけたらどうしよう、なんて考えて落ち込む自分に、葵ははっとして体を起こした。


「ダメだ!今の考えはおかしい!」


それから葵は洗面所へ駆け込んだ。顔を洗って着替えて、軽く何か食べてさっさと家事に取り掛かろう。

ちょっと良い男と暮らすと駄目だ、夢みたいな事を考えてしまう。昨日、あんなに怖がって、そんな自分が嫌で仕方なかったというのに。

例え絢也がそんな苦しさから連れ出してくれても、そもそも向こうは、男だから安心して同居を許しただけのこと。間違っても恋なんてしてはいけない、また辛い思いをするだけだ。


そう自分を納得させてみたが、視界に入る二本の歯ブラシを見て、ふと違和感を覚えた。


「…安心…?」


確かに男なら、同居しても何も疑問に思われない、絢也もそのような事を言っていたが、思い返してみると、絢也の言動は、随分好意的なものばかりだ。手を繋いだりハグをしたり、スキンシップが多めな人はいるが、絢也のそれも同じだろうか。それに、昨夜のこと。頬に触れられた時の指先も、向けられた視線も、触れる体温の全てが、意味を持っているとしか思えない。


絢也の葵に対する行動は、男同士なら何か起きる心配がないという安心ではなく、男同士の間で何か起きても疑われにくい、という意味合いの方がしっくりくる気がする。


「……あれ?」


その考えに行き着くと、自分の気持ちだけでいっぱいいっぱいだった葵の心に、絢也が向けた行為がひとつひとつ蘇っていく。名前を呼ばれ、頬から指先、腰へと触れられた場所が熱を持った気がして、葵は急いで流しの蛇口を捻り、勢いよく水で顔を洗った。


いや、まだ何も言われてないし、元々スキンシップが多いタイプなだけかもしれない。そうそう、からかっただけ、子犬のじゃれあいみたいなものだ。


速まる鼓動を落ち着かせようと、無理矢理にでも理由をつけて、葵は納得しようとする。


それに、恋愛はまだしたくない。人間関係だって上辺だけで良い。相手へ踏み込まず、何となく良い関係、誰に対してもそれでいい。


それを望んでいた筈なのに。


蛇口を捻れば、きゅっと音がする。ポタポタと滴る水の行方に思いを乗せて、排水溝に流してしまおうとしても上手くいかない。キラキラと煌めく夜の街で見上げた背中を、連れ出すその手を、行かないでと引き止めてしまいたくなる。


葵は大きく息を吐いて、顔を上げた。濡れた自分の顔が鏡に映る。その情けない姿に、葵は力なく目を伏せた。


絢也は、まっすぐと葵自身を見てくれる気がして、その目を見ていたら、自分の気持ちが分からなくなってくる。


絢也がどういうつもりか分からないが、絢也と過ごす日々を楽しんでいる自分が居る。昨日のデートだって、久しぶりに何も考えずに楽しく過ごしていた。

新しい場所へ、新たな風景を絢也の手が見せてくれた、連れ出してくれた。


顔を洗い終え、着替えの為に部屋に戻れば、スマホの着信に気づいた。見れば、メッセージアプリの通知で、そこに表示された名前に浮き足立つ自分に気づき、葵は苦い顔をした。


「…俺は乙女か…」


相手は絢也からだった。彼からのメッセージは、葵が寝ていた場合への気遣いと、夜の十一時には帰る事、そして、早く会いたいという一言。


その衝撃に、葵は思わず部屋の壁に頭を打ち付けた。


朝から一体何をやっているのだろう、自分は何を試されているのだろう。


ドクドクと煩い心臓を必死になだめつつ、返せない気持ちをスマホごと放り出す。


心と頭の矛盾に、葵は一人頭を抱えるのだった。







絢也に返事をするだけで、三時間かかった。


寝坊助と思われても仕方ない、仕事をしていないのに、既に一日働いたかのような疲労感だ。


何を振り回されているのか、溜め息を吐いて、葵はようやく家事に取りかかった。今日は早く起きたので、それでも時間はまだ午前の内だ。まだこの家の事や近所の地理など、勝手が分からない部分はあるが、絢也の帰りは遅いので、手間取っても十分間に合うだろう。



そうやって絢也の家で過ごしていると、少し気になる事があった。

家の近所で買い物をして帰る時、洗濯物を取り込もうとベランダに出た現在もだが、なんとなく誰かに見られている気がした。

絢也がこの家に引っ越してどれだけ経つのかは分からないが、もしかしたら、ここが三崎絢也の家だとバレているのだろうか。葵は不安を覚え、急いで洗濯物を取り込んだ。


相手は週刊誌の記者だろうか、絢也のスクープを狙っていたなら、男の同居人はどう見られるだろう。仕事の関係者でないのはすぐに分かるだろうし、ひとまず友人に収まるだろうか。

そう見えてくれないと困るが、それがまた少し複雑な気もして、落ち着かない気持ちを抑えようと、葵はテレビをつけた。何でもいいから他の話題を頭に流し込めば、不安も心の複雑さも、その内消えてしまうだろう。

そう思い、葵はソファーに戻って洗濯物を畳んでいると、「さぁ、続いては三崎絢也さんの、これは驚きの報道が入ってきましたねー」なんて司会者が言うので、葵は反射的に胸を震わせ顔を上げた。

そして、続けて流れた情報に、葵は目を瞪った。


「…え」


それは、絢也の熱愛報道だった。

画面には、人気急上昇中のアイドル浅見七菜あさみななと絢也のツーショット写真が映り、背後には見慣れぬマンションのエントランスが見える。同じマンションで暮らしている、という言葉に、葵は、あぁ成る程、と納得した。

普通のマンションに引っ越したのは、熱愛報道を避ける為、もしくはその報道が出た時に否定出来るようにする為かもしれない。荷物が手つかずなのは、いつか彼女と共に暮らす予定だからだろうか。


「…そりゃそうだよな」


抱きしめられたり、デートなど浮わついた言葉に乗せられて舞い上がっていたが、絢也にとって自分は、ただの興味本位の相手だけだったのだろう。もしかしたら、自分が気づかない内に、絢也に対する好意が透けて見えたのかもしれない。だから、あんな風に思わせ振りな態度を取ってからかっていたのだろう。

特殊な出会いに、面白半分に相手をしたくなっただけだ。


そうだ、そうに違いない、当たり前じゃないか。そうでないと、結局困るのは自分だ、だって、まだ恋とかそんなのはしたくないんだから。


そう納得しようとしたのに、暗い波に頭から呑み込まれたような気分は、なかなか立ち直らないでいる。


「…ちょっと、出会い方が特殊だったからなー。うん、そういうドラマチックなのに弱いからなー、俺」


葵は無理に自分を笑って、洗濯物を畳む手を早めた。そうだ、早く次の居場所を見つけなくては、ここにはどのみち長居するつもりはなかったんだしと、葵はどうしても落ち着かない胸の内を誤魔化すのに必死だった。


落ち込む必要はない、この出会いは事故みたいなものだ。いずれ痛みは消えていく。

大丈夫、大丈夫。そう自分を励ます頭の片隅で、ほら夢なんか見るからと嘲笑う自分がいる。



いつの日か優しかった手を振りほどき、逃げ出した夜を思い出す。胸が痛くて、怖くて、葵は目を閉じた。

しっかり蓋をしたはずの記憶が溢れ、溺れそうになる。その中で思い浮かべるのは、パチ、と弾けた胸の中の光。あの人とは違う、大きくて強引な手。


「こんなとこまで踏み込んでくるなよ…」


一度見てしまった夢を忘れる事は、早々出来ない。

零れる涙を止める術もなく、葵はただ、打ち付ける波が凪ぐのを待つしかなかった。




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