side 空(7)
空がまず思ったのは「なんで?」ということだった。
「アトリ」――どんな漢字を書くのかはわからない――と名乗った男子生徒は、空の隣のクラスに在籍している、特に目立ったところのないごく普通の少年……のように見えた。取り立てて容姿が優れているわけでも、少し話しただけで話術に秀でているわけでもないらしいことがわかる。……つまり、平時の空に似た、平々凡々な高校生に思えたわけだ。
そんなアトリという男子生徒が、空に愛の告白をしてきた。曰く、「ひと目見て好きになったので付き合ってください」。それを聞いて空は思ったのだ。「なんで?」と。
先述の通り、空は別段美少女というわけでもなく、かと言って愛嬌のある性格をしているわけでもない。「ひと目見て好きにな」るのは、ちょっと難しいんじゃないだろうかと空は思った。これで弟たちのように容姿が図抜けていれば、アトリの言葉も少しは信用に値するだろうが……。
「どこを?」
「え?」
「どこを好きになったんですか?」
だから、空は至極単純な質問を投げかける。アトリは空からそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったらしい。あからさまに目を泳がせて、助けを求めるように宙へ視線をやった。しかしここはだれもいない放課後の教室。彼に助け舟を出してくれるような人間はいないのだ。唯一、空を除いては。
だが空は助け舟など出さないし、出す義理もない。アトリのことをなにひとつ知らないのだ。彼が空の隣のクラスの生徒だということだって、つい先ほどアトリ自身が教えてくれた情報にすぎない。
やがてアトリは「生真面目なところが……」と尻切れトンボに言う。空はその言葉に首をかしげたくなった。
空は自分でも生真面目だとは思っている。しかしまあ、あのちゃらんぽらんな弟たちと比べれば、たいていの人間は生真面目だろう。
閑話休題。生真面目であることは美点になることもあるが、欠点にもなり得るという認識を空は持っていた。アトリにとっては生真面目であることは美点になるらしいが、やはり空は首をかしげたくなる。
なにかが引っかかる。なにがどう変なのかまでは言語化できる段階ではなかったものの、アトリの言葉に説得力がないことはたしかだった。他の人間がどう感じるかは置いておくとしても、少なくとも、空の心を今現在説得できていない。
空の反応が鈍いことにアトリはなぜかあせり始める。今にも泣きだしそうだ。必死であれこれと空を好きになった理由を並べ立てるも、それは彼女の心を上滑りしていくばかりだった。
「お試しでいいんで! 付き合ってください!」
「……それって、いつまでですか?」
「え? ……い、一ヶ月とか……?」
しかしアトリの様子があまりに必死であったため、空の心に同情が生まれる。アトリが本気で空のことを好いているのであれば、ここで未練を断ち切ってやるのが慈悲というものだろう。空のほうにはアトリへの気持ちは一切ないのだから。
けれどもどうも、アトリにはなにか事情がありそうだ。空はそう感じたからこそ、同情心を持った。そして言ったのだ、
「一ヶ月ならいいですよ」
と。
仮にアトリが空に本当にひと目惚れしていたとしても、一ヶ月も経てば空が社交性のないつまらない人間だということを嫌というほど知るだろう。もしアトリが空に惚れているわけではないとしても、一ヶ月も経てば飽きるだろうと思った。だから、空はアトリの「お試しで付き合って」という言葉にオーケーを出したのだ。
アトリは、ぽかんとした間抜け顔をしていたかと思うと、ホッと安堵したような表情になって、ただ「ありがとう……」と言った。そこだけを見てもやはりアトリにはなにかしら事情がありそうだ。その事情まではわからない。空はエスパーではないからだ。
いずれにせよ一ヶ月。一ヶ月「だけ」と取るか、一ヶ月「も」と取るかはひとによって違うだろうが、空の場合は前者だった。
「……じゃあ、一緒に帰りますか?」
空はアトリにそう声をかける。アトリは「は、はい」とどもりながら答えると、机の上に置いていたスクールバッグの持ち手を引っ張る。空から見ていてもその動きは性急だった。お陰で、わずかにファスナーが開いていた部分から勢いよくスマートフォンが飛び出してしまう。だが空はなんなくそれをキャッチした。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……」
その後、空はアトリと帰宅の途についたものの、ふたりのあいだには寒々しいほど会話が乏しかった。それを受けて、空はやはりアトリにはこちらに気持ちがないのだろうと察する。となるとこれは――
嘘告――嘘の告白。相手に気持ちもないのに愛の告白をするという、タチの悪いイタズラだ。空と同じような、いかにも平凡そうなアトリがそれをする理由まではわからない。もしかしたら、だれかに命令されて嫌々やったのかもしれない。アトリはいかにも大人しそうで地味な生徒だ。一部の生徒にとっては格好の的だろう。
空が嘘告を確信したのは、先ほどキャッチしたアトリのスマートフォンのカメラアプリが録画モードになっていたからだ。見て見ぬフリをしてアトリにはなにも言わなかったが、「ああそういうことなのね」と察したわけである。あとで動画を見て空を物笑いにするのだろう。
けれども空はその行為をわざわざ咎め立てるのは面倒くさいと感じた。アトリのことをよく知らないというのも理由のひとつだ。よく知らない人間に笑われても、空は痛くもかゆくもない。「見えないところでやるならどうぞご勝手に」という態度であった。
けれども空が今思い返すに、その判断は少し無謀だった。そう思ったのは、学校では大人しくしていた弟たちが、同級生を相手に暴力沙汰を起こしたあとのことである。
教師に呼び出され保健室へ向かえば、右手に白い包帯を巻かれた海と陸が待っていた。その顔はどこかふてくされていたが、空を見つけると少し明るくなった。
教師から聞かされた話によると、昼休みの時間に同級生五人を殴ったとのことである。五人の同級生は教師の車で病院に連れて行かれたとのことであった。同級生たちは鼻や前歯が折れている重傷だが、海と陸は右手の甲が切れたくらいであると言う。
先述した通り、海と陸はその容姿ゆえに学校では目立つものの、これまで大きな問題を起こしたことはない。それがここにきてほとんど一方的に同級生に暴力を振るい、五人を病院送りにしたというのだから、空にとっては青天の霹靂に等しい。
「空のこと馬鹿にしてたからさ~。頭にきちゃって、つい」
しかも、暴力の理由は空にあるようだ。その場ではなにをどう、空のことを馬鹿にしたのかまではわからなかった。「姉を馬鹿にされたから」という理由のためか、教師は本気で怒っているわけではないらしく、だが立場としては海と陸を戒めねばならないのだろう。かなり長いお説教をしたあと、「処分についてはあとで連絡する」と言って三人を解放した。
「やべ~。退学になったら若に半殺しにされっかなー?」
「停学で収まるだろ。俺ら悪くないし」
だが教師の説教ごときで海と陸が反省するわけもない。空は弟たちの一歩うしろを歩きながら、あの場では聞けなかった疑問を口にする。
「……『私のこと馬鹿にしてた』って?」
「あ、そうそう。空、変なヤツと付き合うなって~」
「マジ見る目ねえのな」
「? なんの話?」
「お前のカレピ♡ だよ」
そこで空はようやくここのところ毎日下校を共にしていたアトリのことを思い出した。弟たちの不祥事に気を取られて、アトリのことは完全に頭からすっぽ抜けていた。
しかし今ここですぐにスマートフォンから連絡を取るわけにもいかない。そんなことをすれば弟たちが機嫌を損ねることは目に見えていた。彼らの理不尽さを、姉である空はよく理解している。
「アトリくん?」
「あ~……そんな名前だったな。胸糞
「
「そいつらがさ~空のこと馬鹿にしてたから、頭きて~」
「そんでちょっと殴ったら大事になったんだよ。……つーかウソコクなんかに引っかかるなよな、空」
鼻や前歯が折れるまで殴るのは「ちょっと殴った」の範疇には収まっていないだろう。空はそう思ったが、指摘するのは藪蛇だと思って黙った。
どうやら、あの日撮られたアトリから空への嘘告動画は、そうやって笑いものにされていたらしい。そのことにおどろきはない。最初から嘘告だと知っていたのだから。
空が少なからず衝撃を受けたのは、その場面を見た海と陸が怒ったことだ。
空は、なんとなく自分は三つ子の中でのけ者にされているような気持ちでいた。かすかな疎外感を覚えて、悶々としていたのに、今はもうそんな気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。
自分で自分のことを単純だと思う。けれど空は、弟たちが姉のために怒ったことを素直にうれしいと感じたのだ。
その喜びは無垢の美しいものではない。薄ら暗いものだった。けれども、空は本当にうれしかったのだ。
「知ってたよ」
「は?」
「ウソコクだって知ってたけど……」
「はー? じゃ、なに? 俺ら殴り損?」
「え~? 空、そういうことはオレらに言っておいてよ!」
「ごめん……」
「……ま、いーけど。空だから~」
「まあ、空だから許すけど……」
「うん……ありがとう。私のために怒ってくれて」
空が素直にそう言えば、海と陸は珍しく虚を突かれたような顔になる。そのあと、ふたりそろってちょっと照れ臭そうに視線をさまよわせたので、「兄弟だなあ」と空は面白くなった。
その後、アトリからは一切連絡がこなくなったどころか、こちらのアカウントをブロックされてしまったが――空には些事であった。
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