晩夏の蝉
紫乃森統子
一.当たり前の日々
成田才次郎は、はぁっと息を吐き出した。
冷え込んだ朝の外気は張り詰め、吐息はふわりと白い靄となる。
靄はやがて、景色に溶けるように消えていった。
慶応三年、晩秋。
山野の紅葉が褪せて空に鈍色が濃くなると、朝晩の冷えが途端に厳しくなる。
この年もまた、朝稽古の辛い季節がやってきた。
道着を括り付けた木刀を、才次郎はひょいと肩に担ぎ直した。
遊佐孫九郎の居合道場へは、十歳の頃から通い始め、早四年になる。
同い年の堀良輔と辻で待ち合わせて一緒に道場へ向かうのが毎朝の日課になっていたが、大抵は才次郎のほうが早くに辻に着いて、良輔の来るのを待つ。
すると少々遅れて、ばつの悪そうな顔で笑いながら良輔が駆けてくるのだ。
二人とも同じ頃合いに遊佐の門下に入ったのだが、良輔が才次郎よりも早く辻に出ていた試しはこれまでに一度もない。
「才次郎! ごめん、遅くなった」
この朝も、良輔はやはり普段通りに遅れて駆けて来た。
「出掛けに袴の前後を履き違えてるのに気が付いてさぁ。慌てて着付け直した」
いやぁ参ったよ、と苦笑する良輔に、反省の色はあまりなさそうだ。
「昨日はたしか、単衣を裏返しに着たんだったよな?」
「へへ」
「呆れたやつだなぁ。まあ良輔が遅れて来るのなんて、いつものことだけどな」
「そう言わんでくれよ。ほら、早くしないと先生にどやされるぞ」
どの口が言うのか、良輔は才次郎を急かして先に歩き出す。
「それが嫌なら、遅れないように来いよ」
遅刻ぎりぎりで道場へ駆け込んで、才次郎まで一緒に怒られたことも一度や二度ではない。
それが才次郎の父・
外記右衛門も躾の厳しさでは他家に劣らなかったが、それでもまだ遊佐のほうが厳しかった。
叱責だけに留まらず、時には他の弟子たちの前で文字通り打ちのめされることもしばしばある。
遊佐は齢七十も近い高齢だが現役の師範で、その腕も威厳も衰えを知らない。
遊佐を怒らせれば、これに勝る怖いものはなかった。
「朝一番で父上からも叱られたんだ、小言ばっかりでもう耳にタコが出来てるよ!」
良輔は何故か誇らしげに笑う。
何の自慢にもならない、寧ろ汚点ですらあろうに、良輔は悄げることもなく朗らかに笑い飛ばしてしまう。
その様子を、全く反省していないと言って憤る大人もいるが、良輔のそういう明るさはどこか憎めないものでもあった。
「おまえなぁ、どうせタコ作るなら、耳じゃなくて手に作れよ」
「お、なるほど。うまいこと言うなぁ、才次郎」
「小言で作るタコより、稽古で作るタコのほうが自慢になるぞ」
「ははは、全くだ!」
今朝の寒さを吹き飛ばすように笑声を上げ、良輔は大股で先を急ぐ。
「よーし、それなら今日は手にタコ作って、遊佐先生に感心されようか!」
急に早くなった良輔の歩調に遅れ、才次郎は慌ててその後を追った。
「あっ、ずるいぞ良輔! 置いてくなよ!」
「へへっ、遅れた分取り戻さないとな!」
一緒に怒られる羽目になると分かっていても、それでも才次郎が良輔を待たずに先に行くことはない。
叱られ損になるとは知りつつも、良輔と共に怒られることを選んでしまう。
仮に良輔を待たずに先に行ったとしても、彼はきっと才次郎を責めない。一人お叱りを受けた後にも平素と変わらず暢気な声で「参った、参った」と舌を出すだろうと想像がつく。
だからこそ、何となく置き去りには出来なかった。
叱られた後にも、今朝のように互いに軽口を叩き合っていたい。
才次郎は、どこかのんびりとして奔放なこの友人に、心底から好感を持っていたのだった。
***
二本松藩、丹羽家の士屋敷は、城屋敷を中腹に抱える山城の麓に広がっていた。
古くは戦国の世に畠山氏の居城でもあった白旗ヶ峰の山頂には石垣が積まれ、天守台が設けられたその場所を本城と呼んだ。
麓には白い城壁が巡らされ、遠く安達太良の山から水を引いた堀で更に囲まれてもいる。
この上自然の要害に恵まれ、城山の南側には小高い丘陵地が連なり、郭内へ入るには必ず急勾配の坂を越えなければならなかった。
城の正門は箕輪門と称され、ちょうど道向かいに家中の子弟が通う藩校敬学館が建つ。良輔と才次郎は歳も同じで、学館に併設の手習所に通い出した頃からの仲だ。
才次郎の家は城に近いところにあったが、良輔の家は違う。
良輔の暮らす家は郭内と外を隔てる坂の向こう側にあった。
良輔の家から谷口門までは坂を登ってから下らねばならず、毎朝の剣稽古に、学館への行き帰りに、幾度も往復する。その道は山を切り下げた峠道になっており、晩秋の早朝や夕方には左右に迫る山の木々が日の出を遅らせ、日の入を早める。
日中でさえも薄暗い切通しである。
郭内の、それも城の間近に住む才次郎が少々羨ましく思えることもあった。
朝稽古のあとには一度帰宅し、それぞれ朝餉をとってから今度は学館へ出向く。
家中の子弟たちは、家格に因らず皆がそこで学問や武芸を一通り学ぶ。その他に思い思いの門下に入り、研鑽を積むのである。
五百石以上の大身家の子は更に特別な講義を受けることが義務付けられているが、普段の子供同士の関わりの中では年の差を除けば誰もが同列であった。
才次郎の成田家は百五十石、良輔の家は七十石と、少なからず差はあるが、その為にどちらかがどちらかに遠慮を示すようなこともない。
大勢が集まる学館への行き帰りは、真向かいに住むこれもまた同い年の丈太郎と一緒になることが多かった。
帰りはそこに才次郎も加わり、三人で学館の門を出る。
「なあ知ってるか? 大樹公が政権を朝廷にお返しになったらしいぞ」
三人の中でも一番に大人びた丈太郎が、やけに神妙な声で話題を振った。
身体付きも声も、大人の男のそれに最も近い。良輔よりもまだ少し上背があり、才次郎などはやっとその肩に届くかどうかというところだ。
見た目だけでなく、話すことも些か大人びていた。
政の話に興味がないわけではないが、良輔にとってはそれよりも晩のおかずのほうが気掛かりである。
「薩長が手を組んで幕府を攻撃するって話だ」
「おれも父上から少し聞かされた。でも、なんでそんな事をする必要があるんだ?」
「よくは分からないが、薩長は完全に徳川家を潰してしまうつもりなんじゃないか」
才次郎も丈太郎の話に乗り、断片的な聞き齧りの話であれこれ議論めいたやり取りをし始めた。
良輔もむろん、同様の話は聞き及んでいる。
良輔の父、堀次郎太夫は、渋川組代官と郡奉行、それに加えて周旋方という三つもの役目を兼任している。
「戦になるかもしれない」
「戦かぁ」
「何だよ、才次郎。怖いのか?」
顔色を曇らせて、やや声を落とした才次郎を揶揄うように丈太郎が訊ねる。
「そういうわけじゃないけど、姉上は嫁に行ったばかりなんだ」
嫁いだ相手が早速に戦に出ることになったらば、哀れなことに思えてしまうと才次郎は声音を落とした。
才次郎は早くに実の母を亡くしていたが、姉のいちがいつも甲斐甲斐しく才次郎の世話を焼いていた。
そのいちも先頃他家に嫁いでしまったらしい。
その後から、今のように時々才次郎の元気がないように思える時があった。
姉が出てしまうと、家の中は一人分の穴がぽっかりと空いて、いつも聞こえていた声がしなくなる。寂しく思っているのだろうと、良輔は察していた。
「いちさんは、たまには顔を見せるのか?」
「嫁に行ったばかりで、そうそう
「そうかもしれないけど、暫く会っていないんだろ?」
そう言った良輔の言外に、寂しいのだろうと慮る意図を汲み取ったのか、才次郎はちらりと軽くこちらを睨め上げる。
同い年にしては、才次郎の背は低いほうで、頭の先はやっと良輔の顎に届くかというところだ。
その目線は自然見上げることになる。
「そう睨むなよ、別に馬鹿にしてるわけじゃないんだ」
「姉上は嫁いでお幸せにお暮らしなんだ。おれが寂しがったら、姉上はきっと心配して平穏に暮らせない」
「……そっか」
他家に嫁いだと言っても、婚家は同じ家中だ。会おうと思えばいつでも会える。
「別に寂しくなんかないぞ。これでやっと気兼ねなく転寝が出来るし。姉上はおれがごろ寝をしてると、すぐ叩き起しにかかるんだから」
「そんなのどうせ、お城に足でも向けていたからだろ」
「そ、そんなことないよ!」
良輔の家でもそうだが、大方の家では子供が城に足を向けて寝転がるのを目にすれば、賺さず叱りつける。
子供同士の喧嘩や粗相も、多少のことなら喧しく言わずに伸びやかに見守る母親たちが殆どだが、やり過ぎれば殿様の役に立てるための身体に傷でも創れば如何するかと窘め、その場で城に向けて土下座させられる。
そんなふうだから、殿様のおわす城に足を向けるなどは言語道断だった。
才次郎の姉、いちもまた、そうした気風で以て弟の才次郎を側で見守っていたのだろう。
「いちさんが家を出たって、お父上の目があるだろ。おれもこの前、ちょっと腹が減ったんで夕餉前に大根の漬け物を摘んだら、こっ酷く叱られたよ」
「良輔のそれは叱られて当然だろ。腹が減るなんてはしたない、武士のすることじゃないぞ」
「ひどいなァ。武士だって腹が減ったら戦は出来ないんだぞ」
二人の話の流れを見守っていた丈太郎が、堪え切れずに噴き出す。どちらの粗相も五十歩百歩だと言って双方を窘めた。
「まあ、殿様の御役に立つのは勿論なんだけどさ。家中のおなごが安心して暮らせるように、おれたちがいるんだろ」
丈太郎が諭すような語調で言い、才次郎も良輔もそれには同意を示したのであった。
【二.へ続く】
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