11限目 親心に幼馴染心
簡単な身支度を済ませた義人は頭をかきながら、自分の部屋から出てきた。
「あ~めんどくせ」
義人は不機嫌だった。
本来なら今日一日自分の部屋に閉じこもって思う存分勉強するはずだった。
しかし、千沙からの呼び出しの電話により、その予定は泡と帰した。
本当であれば無視したいところだったが、幼馴染の遥香に“千沙とのくすぐりプレイの映像”を見られるのはきつい。
もしそんなことがあれば、義人は迷いなく死を選択するであろう。
自分の名誉を守るために、義人は変態優等生女子の元へ向かうのであった。
義人が玄関で靴紐を結んでいると、後ろから彼の母親である京香が声をかけてきた。
「あれ? よしくん、今日は家にいるって言ってなかった?」
「そのつもりだったんだけどな。さっき急に呼び出しをくらったから、今から行ってくる」
「え~。せっかく久しぶりに張り切ってお昼作ろうと思ってたのに~」
「知らねえよ。一人で食ってろ」
「むっ! なんか今日のよしくん、冷たすぎる……。いつからそんな不良息子になっちゃったの?」
京香は義人に背を向けると、ハンカチを目に当てて「シクシク」と泣く。
正確に言えば、泣くふりをしていた。何ともワザとらしい。
いつもの義人であれば、そのまま家を出ていただろう。
しかし、今回は違う。
自分がいつもより機嫌が悪いこと、それを彼女にぶつけてしまったことを自覚していた。
「はぁ……」
一つため息をつくと、廊下へ振り向いた。
「ほら、その……すまなかった。ちょっと腹の立つことが遭ったからさ」
軽く頭を下げる義人。
しかし、京香は一向に泣き止む気配がない。それどころか義人に背中を見せて、反抗の意思を見せる。
全くどっちが子で親なのかわからない。
「なあ、謝ってるだろ? 機嫌直してくれよ」
「もうお母さんの心はズタボロだよ。許してあげないもん」
「そう言うなって」
「反抗期の息子を正しい方向へ導いてあげるのもお母さんの義務であり、権利です」
「は?」
「なので、今からよしくんにお仕置きをします」
[んだよ。お仕置きって]
「それはね……えい!」
京香はゆっくり振り向くと、義人の腹部へとダイブし、力強く抱きついた。
「何してんだよ」
「さっきも言ったでしょ。これはお仕置き“抱きつきの刑”です。今から一分間はこのままでいてもらいまーす。拒否権はありませーん」
「……一分だけだぞ」
「うん」
しばらくの間、沈黙の空気が流れる。
「やっぱり、あなたはあの人に似てるね」
「あの人って、父さんのことか?」
「そう。弘嗣さんも普段からぶっきらぼうで、あたしが甘えても『恥ずかしいから離れろ』って突き放してたわ。けど、最後には自分が折れて、受け入れてくれた」
「いきなり何だよ。親のイチャイチャを聞かされる子どもの身にもなれよ」
「ごめんね。けど嬉しいの。あたしと弘嗣さんの間に義人と美瑠が生まれて、こんなにも立派に大きくなってくれたことが。それを見ているだけで、弘嗣さんがこの世界に確かに存在したことが証明されるから」
「……そうかよ」
「もうそろそろ時間ね」
京香は義人の体からゆっくり離れる。
そして、義人の服のしわを軽く伸ばしていく。
「いずれ義くんもみーちゃんもあたしのもとから巣立っていくわ。そして、いい人を見つけてその人と新しい家庭を築いていく。それは嬉しいことでもあるし、寂しいことでもある。けど、それまではできるだけお母さんに甘えてきてね」
京香はポンッと両手で義人の胸を叩くと、ニコッと微笑みかけた。
義人はそんな母親の顔から目線を外し、頭をかいた。
「今のところ付き合っている奴もいねぇし、この家から出て行く予定もない。だからその、もう少し甘えてやるから安心しろ」
「それはそれで母親としては心配だわ」
「どっちだよ!」
「親心というのは繊細で、取り扱いが難しいものなのです!」
「なんだよそれ……」
義人は靴箱の上に置いていたカバンを手に取ると、玄関の戸を開ける。
「まあ、あんまり遅くならないようにするから」
「うん。いってらっしゃーい!」
後ろ向きに右手を振ると、義人は家を出て行った。
ーーー
義人が家を出てから三〇分ほど歩くと、隣の町にある千沙の家の前に着いていた。
「またここに来てしまった……」
前日、脅し材料であったくすぐり映像をスマホから消したことで千沙との関係を終わらせ、もう二度と来ることはないだろうと安堵していた。
しかし、よく考えてみればあの千沙が欲しいものをそう簡単に手放すはずがない。出会ってから日が浅いが、なんとなくそういう人物なのだと理解した。
義人は一つため息をつくと、自分のスマホを取り出す。ロック画面には“9:50”と表示されていた。
「確か一〇時に帰ってくるって言ってたな。早く着きすぎた。これじゃ俺が張り切ってるみたいじゃねえか」
家の前の塀に背中を預けると、頭を無造作に頭をかく。仕方ないので、カバンから英単語帳を取り出した。
「おや? もう来てたの?」
単語帳を三ページほどめくったところで義人に誰かが声をかけてきた。
目線を上げると、そこには白いワイシャツにデニムのショートパンツを履いたセミロングの黒髪の少女“島原千沙”が歩いてきた。
「けど、なんだかんだ言って、ボクと会いたかったんだね~」
「勘違いするな。思ったより早く着いただけだからな」
「素直じゃないな~。え? これがツンデレというやつ? なんだか男子がすると気持ち悪いな……」
「勝手なキャラ付けして、勝手に気持ち悪がるな!」
「君はボクのボケに必ず突っ込んでくれるね? 夫婦漫才しているみたいで楽しいよ」
「好きで突っ込んでるわけじゃねぇ。結構疲れるんだよ。つうか、なんでお前は朝っぱらからそんなに元気なんだ……」
千沙が顔を合わせるなり全速力で絡んでくると、頭痛を抑えるように額に手を添える。そんな義人の肩を笑いながら、ポンポンと叩いた。
「まあまあ。そんな冷たいこと言わないでくれよ。ボクは君と会えて、うれしいんだ。これは紛れもなく本当だよ?」
「そ、そうなのか……」
千沙がニコッと笑い、義人に顔を近づける。
彼女の端正な顔立ちを間近にして、思わず義人は顔を赤く染めて目線を反らしてしまった。ある意味で凶器だ。
彼女いない歴=年齢の青少年に対して、それは卑怯だ。
「それにね、今日はボクの親友を連れて来たんだよ」
「親友?」
千沙は「にひひ」といたずらっ子のような笑みを浮かべると、その場で振り返る。
「おーい! もう出てきていいよ!」
すると、一人の女子が電柱の陰から姿を現した。
「な?!」
義人はその姿を目にして、言葉を失った。
明るい茶髪を後ろで束ねた、見るからに活発そうな女子。
そう、義人の幼なじみである皆川遙香である。
陽正高校指定の青いジャージを着て、スポーツバッグとラケットケースを背負った遥香は、なぜだか申し訳なさそうな目で義人を見つめていた。
「お、おはよう、義人……」
「遥香、お前、部活じゃなかったのか?」
「抜けて来ちゃった」
「抜けてきたって、そんなことしていいのか?」
「本当はダメなんだけど……」
遥香の目線は千紗に向けられる。
その視線の意図を理解した千紗が遥香の説明を引き継いだ。
「皆川さんは悪くないよ。だって、ボクが強引に引き抜いてきたんだもん」
「はあ?」
「別に近いうちに試合があるわけでもなかったみたいだから大丈夫でしょ。それに安心して。部長さんにはちゃんと許可をもらっているから。あたしがちょっとばかり上目遣いでお願いしたら、二つ返事でOKを出してくれたよ。けど、あの怖そうな人の鼻下が伸びただらしない顔、傑作だったな~。笑いを堪えるのに必死だったよ」
そう言いながらも千紗は今にでも吹き出しそうになる口を必死に両手で押さえていた。
よく見ると、遥香もクスクスと笑っている。
どれだけ面白い顔だったのか、義人は見逃したことを少しだけ後悔した。
「いや、今はそんなことはどうでもいい! ちょっとこっち来い!」
義人は千紗の左腕を強引に引っ張ると、遥香との距離を空けて彼女に背を向けた。
「急にどうしたんだよ。女の子のか弱い腕を乱暴に掴むのは良くないと思うよ。まあ、脇腹をくすぐられるときは多少乱暴に鷲掴みされる方が好みではあるけど」
「お前の好みなんざ知らんわ!」
義人は遥香に聞こえないよう小さな声で千紗に突っ込む。
しかし、荒ぶる義人の心境を知ってか知らずか、千紗はくすぐられている自分の姿を想像してうっとりしていた。
「お前なんで千紗を連れてきたんだよ。しかもわざわざ部活をサボらせて」
「“サボり”ではないよ。ちゃんと許可を取っているんだから。正確に言えば“休部”? あれ、なんか使い方が違うような……」
「調子が悪いでも用事があるでもないのに部活を休んだら“サボり”だろうが」
「君は細かいところにこだわるんだね。見た目からは“サボり上等”みたいなこと日頃から言ってそうなのに」
「舐めんな。俺はサボるどころか、小中じゃ無遅刻無欠席で皆勤賞を……て、今はそこが重要じゃねえよ。なんで遥香を連れてきたんだ。まさか、遥香もくすぐりプレイに参加させようと言うわけじゃ」
すると、さっきまで義人をからかうに笑っていた千紗の表情が急に真顔へと一変する。
「義人くん。あたしを見くびらないでほしい。自分の性癖に大事な親友を巻き込むようなことはしない。これは“くすぐり愛好家”のひとりとして守らなければならない鉄の掟であり、矜持なんだ。これからのためにも、よく肝に銘じてくれ」
「じゃあ、お前の性癖に巻き込まれた俺は何なんだよ。大切な親友どころか、赤の他人だったじゃねぇか」
「だから、恋人になってもらったんじゃないか。ほら、大切な親友にも打ち明けられない性癖でも恋人なら、いやむしろ恋人だからこそすんなりと言えるというものだろ?」
「順序が逆な気もするが……いかん。また脱線した。とにかく俺が聞きたいのはお前が遥香を連れてきた訳だ。結論だけを言え」
「そんなの答えは一つだよ」
千紗は義人の背中をポンポンと叩いて、口角をニタッと上げる。
「その方が面白そうだからさ。君が皆川さんの前でタジタジになる様を見ることが出来ると想うと今から楽しみだよ」
「て、てめぇ~」
その時、義人は確信した。
千紗はくすぐり関連ではドのつくほどのマゾではあるが、それ以外では狡猾な手で他人を弄ぶことに快感を覚えるサディストであると。
もしこれが岳人のような野郎なら問答無用で殴り飛ばしていたところだ。
しかし、相手は内心度しがたい変態であろうと、外見は紛れもない女子高生である。
その上、この場には遥香がいる。彼女の前で千紗をどうこうできるはずがない。
義人は怒りに震える握り拳を持ち前の忍耐力で開いていった。
「覚えてろよ。この落とし前は必ずとらせるからな」
「あはは。これはあたしとの契約を一方的に破棄しようとした報いだ。でももし何かされるなら、できれば窒息するぐらいの激しいくすぐり責めを要望するよ」
「…………」
なぜだろうか。
あれだけこみ上げていた千沙への怒りが一気に沈静されていく。いろんな意味で何をしようが千沙には一生敵わないんだろうと彼女の言葉で理解した。
「あ、あの~」
突如、義人と千沙の後ろから声をかけられた。
二人が振り向くと、遥香がいつの間にか距離を詰めて立っていた。
「もしかして、あたし邪魔だった、かな?そうなら今すぐ学校に帰るけど……」
「そんなわけないだろ。本当に邪魔だったらわざわざ君を連れ出したりしないさ。ね? 義人くん」
「あ、ああ。そうだな」
「本当に?」
遥香は義人をジトっとした目で睨む。
なぜかわからないが、別に悪いことをしたはずじゃないのに、義人は遥香をまともに見ることが出来ない。
プレッシャーに負けて、思わず謝罪してしまいそうだ。きっとこれが無実の人間が取り調べで虚偽の自供をしてしまう心理なのだろう。
それを見かねたのか、千紗が「まあまあ」と義人と遥香の間に入り込む。
「せっかくボクの家の前にいるんだから中に入ろうよ。こんなところで痴話喧嘩に発展されたら、今後ご近所さんにあたしがどう思われるか……」
「痴話喧嘩って。それって夫婦や恋人同士でするやつでしょ? あたしたちは付き合ってる訳じゃないし、むしろあんたたちが……」
遥香が何かを言おうとした途端、ばつが悪そうに口をつぐんだ。
「でも、そうね。ここで話してご近所の方々に迷惑がかかるなら、千紗の言葉に甘えましょう」
「よかったよ。このまま帰られたら、今度学校で気まずくなるところだったよ。さあさあ、遠慮なく入って」
そういうと、千紗はデニムのハーフパンツのポケットから鍵を取り出して、家の扉を開けると、二人を中に招き入れ、その誘いに従うように遥香が家に足を踏み入れた。
その一瞬、遥香から氷のように冷たく、ナイフのように鋭い目線で睨まれたのを義人は見逃さなかった。
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