イカロスは太陽に近づけない

鏑木レイジ

第1話冥府からの招待状

   1

 「葵、行っちゃダメよ!」

 目覚ましがけたたましく鳴っている。

 幸子は目覚ましを片手で乱暴に消した。そして、目尻の雫を拭った。体中から、嫌な汗が噴き出ていたので、ベッドから出ると、覚束ない足取りで、浴室へと向かった。

 熱いシャワーを浴びながら、妹の葵のことを思った。

 葵がいなくなってからというもの、幸子の人生は大きく変わった。

 もし、ただ失踪しただけだったら、忘れることはできなくても、これほどまでに人生を左右されることはなかっただろう。

 葵は中学二年の夏に、幸子の前から姿を消した。葵の部屋だった。

 月光に照らされたピンクのカーテンが、大きく開かれた窓から流れ込んでくる蒸し暑い夜風に揺れ、風鈴の揺れる音と、熱に浮かされたような葵の浅い呼吸音が聞こえていた。

 葵は泣いていた。泣きながら、

「お姉ちゃん、ごめんね。私、行かなくちゃ。神様が呼んでいるの。私の体の奥から、不思議な、温かい力のようなものが込み上げてくるの」

「ダメよ! 葵」

「ううん、いいの。私、幸せよ。お姉ちゃんやお父さん。お母さんと別れるのは辛いけど、これからのことを考えると喜びで一杯よ」

 葵は泣いていた。

 幸子は葵を引き止めたかったが、引き止めたところでなんになるというのだろう。

「行かないで! そう、そうよ。バベルの塔へ行きましょう。あそこへ行けば葵は天使になれるのよ。その方が良いわ」

「その必要はないわ。あの塔は、偽善の塔よ」

「どうしてそんなことが解るの?」

「私はね、お姉ちゃん。天使以上の存在になれるの」

「やめてよ! 葵」

「ごめんね」

 葵の小さな身体が棚引くカーテンに隠れた。カーテンが引くと、そこにはもう葵はいなかった。

 この時の情景は毎夜、悪夢となり、幸子を苦しめ続けた。

 葵に超能力が目覚めたのだ。

 そして、葵は天使になることを拒んだ。

 それは必然的に、悪魔になったという可能性を疑うのが当然だった。

 超能力は、バベルの塔の処置がなければ、脳を破壊する。普通は力の予兆を感じて、一か月がリミットだ。

 もう三年が経っていた。

 今、幸子は新聞記者となって、主に悪魔が起こす事件に関わっている。

 いつか葵を見つけられると信じて。

    2

 暁町にはバベルの塔がある。

 聖書に出てくるあの背徳の塔から命名されているのだが、暁町のバベルの塔は、その教理においてだいぶ異なる。

 暁町のバベルの塔は、キリスト教系の新興宗教が建立を継続している。まだ未完なのである。それは聖書に登場するものと一致している。二千三十九年に完成予定だ。

 この塔は、ローマ法王から、上位教会に認定されていて、教主である黒岩勇雄は「未完の教会で上位教会に認定されているのは、この塔とスペインのサグラダファミリアだけだ」と自慢げに語っている。

 塔を建立している新興宗教は『神世界教団』という名称で、今では世界中に三千以上の教会を建立していて、キリスト教系の新興団体では五本の指に入るほどの規模と信頼を獲得している。

 教主の黒岩勇雄は、老境の野心家である。

 若い時分から、その斬新な宗教解釈に基づく、雄弁な説教は、世界中の聴衆を熱狂させてきた。具体的に述べれば、ニーチェ以後の実存哲学をバベルの塔に象徴し、聖書で語られるその背徳を逆手にとって、神の御座における、人間の自立的な力を主張し、人は強く神を信仰すれば、超人になれると端的に語るのだ。それを現代の世相を反映させるように、実に巧みに語る。まるで詐欺師のように。そして、宗教家としてのエネルギーは、齢七十となった今も全く衰えていない。

 比較的、中規模なこの暁町は、埼玉の地方都市でありながら、まるで独立都市のような様相を呈している。

 信仰の自由が約束されているこの日本で、暁町だけは、神世界教団の専制支配が行われていると言っても過言ではない。

 噂によると神世界教団は、政財界にも太いパイプを持ち、果ては反社会組織とも繋がりがあると囁かれている。

 暁町を走る鉄道の切符には十字架が描かれていて、道路や公園などでも揺れる十字架の旗を頻繁に見かける。

 教育でも神世界教団は強い影響力を持っている。暁町にある幼稚園、小中高、大学と、ほとんど教団が運営している。それ故に、教団が実権を握り始めたここ三十年以内に出生した暁町の八割以上の人間が、幼少時に洗礼を受けた神世界教徒である。

 ここ暁町は、バベルの塔に象徴される、世界的な権威と勢力を獲得した新世界キリスト教団の総本山となっていた。

    3

 幸子は、実家の近くにアパートを借りていた。そして、そこから新聞社へと電車を使って通勤していた。約三十分揺られて、その間にウェブニュースをチェックし、新聞にも大雑把に眼を通す。

 眼を通しながら、デジタルオーディオプレーヤーで音楽を聴いていた。この日はベートーヴェンの英雄交響曲だ。十代の頃はポップスをよく聴いた。それは周りに合わせるためもあったが、何よりもクラシックを食傷だったと言える。

 両親は、幸子と葵に音楽の英才教育を施し、将来は音楽家になって欲しかった。ゆえに、とても厳しく躾けられて育った。

 でも幸子は、中学に入ると早々にピアノを辞め、バスケットボール部に入って、それから高校を卒業するまでバスケットボールを続けた。

 もともとピアノなど性に合わなかったのだ。両親に将来の職業を押し付けられるのは、思春期を迎えれば、ほとんどの子供にとって嫌なものである。その反発から、音楽の趣味をポップスに変えたのだ。

 しかし、妹の葵は違った。

 葵は声楽を学んでいた。東京まで通って、著名な先生に習っていた。先生は葵のソプラノを、「極めて自然児的。大人になって高い技術と知性を身につければ、フレーニのようになれる」とまで絶賛していた。

 葵はアンパンマンではなく、モーツアルトの歌曲を口ずさむ子供だった。クラシック音楽を心の底から愛していた。

 今社会人となって働く幸子は、親の目を逃れたこともあって、再びクラシックを聴くようになった。

 何より、妹からの影響だった。神聖な音楽を聴くと、とても楽しそうに歌を歌う妹のことを、いつも思い出すからだ。

 スマホでニュースを見ていると、突然臨時ニュースが入ってきた。英雄交響曲が、勇ましい第一楽章から、第二楽章の葬送行進曲へと入る頃だった。

「な、なにこれ?」

 記事にはこうあった。

「今日の午前四時ごろ、暁町○×地区の歓楽街で殺人事件が起こった。被害者は、悪魔と断定……」

 そこまで読んで、幸子は目を丸くした。

「被害者が悪魔? 加害者じゃなの? じゃあ、加害者は……」

続きを読む。

「加害者は、飲食店の前で客引きをしていた従業員の話によると、黒い外套を頭から被り、何やら髑髏のお面をつけていて、手には大鎌を所持し……」

「黒い翼を広げて上空を旋回していた悪魔めがけて跳躍し、悪魔の背に乗ると、暴れる悪魔と揉み合いながら墜落して、大鎌でその黒い翼を刈り取り、悲鳴を上げる悪魔を見て不気味に笑った髑髏の面の者は、鮮やかな鎌捌きで悪魔の首を飛ばすと、その場から逃亡して……」

 電車が駅に着くと、幸子はすぐに本社へ電話を掛けた。

    4

 幸子の勤める新聞社、「暁光新聞」は、神世界教団がこの地に根を張る戦前から続く、由緒ある新聞社である。

 戦時中もイデオロギーに染まることなく、客観的な立場で戦況を見つめ、反戦の記事を書き続け、当時の政府から弾圧を受けることもしばしばあった。

 暁光新聞は、「いつでも平等、正しい記事を」

をモットーに、先代の社長から受け継がれてきたペンによる世直しを第一に掲げ、今でも見せかけではないジャーナリズムを貫いている、現代には珍しい新聞社だ。

 幸子が会社に着く頃、社内は、問い合わせの電話がひっきりなしに鳴り、怒号が飛び交い、社員たちが忙しそうに社内を走り回りながら、錯綜する情報の整理に追われ、一種の混乱状態に陥っていた。

「若月! 遅いぞ!」

「すみません!」

 編集長の牛田は興奮気味に捲くし立てた。

「センセーショナルだ! ファンタスティックだ! 町は、いや世界は、今あのダークヒーローのことでもちきりだ。あの髑髏の面、漆黒の外套、不気味な大鎌、何もかもがぶっ飛んでいる」

 幸子は、オフィスにある、全局が同時に映っている大型テレビに目を走らせた。どこの局も髑髏の面の者の悪魔殺害事件で持ちきりだった。

 通行人が撮影した殺害の一部始終が流れていた。

 悪魔の首が宙を舞う場面を見て、幸子は気分が悪くなった。

「今や、我々人類の天敵となった、黒い翼の捕食者『悪魔』を。神の兵隊、白い翼の『天使』ではなく、異形の新しい者が討ち倒した。これは歴史的瞬間だ!」

 興奮して喋る牛田の背中に、社員が大声で話しかけた。

「へ、編集長! 大変です! たった今、速達で、髑髏の者の犯行声明が書かれた手紙が、小包と共に届きました!」

「なんだと! 悪戯ではないのか?」

「はい! 小包の中には血が染みた悪魔の黒い羽根が入っていました。照合した結果、カラスの羽根などではなく、紛れもなく悪魔の血液と羽根でした」

 オフィスにいる社員たちは、手紙を取り囲んで、牛田が封を開けるのを、固唾を飲んで見守った。

 牛田は眼を血走らせて、呼吸を荒げながら、慎重に封を切った。

「拝啓 暁光新聞殿

 私の名はハデス。

 ギリシャ神話に出てくる冥府の王。

 復讐者。

 私は、闇の力を使って、この世から悪魔を一掃し、悪魔のいない平和な世界を築き上げようと考えている。

 形は違えど、同じ志を持った、正義を貫く貴社にだからこそ、この手紙を送った次第だ。

 悪魔をこの世から一掃するためには、魔王『六翼のルシフェル』を何としても討たなければならない。六翼のルシフェルは、まったくの作り話だと信じられているが、奴は実在する。奴は、すべての悪魔を支配下に置いている。

 私の親しかった者は、奴に惨殺された。

 そして、私が掴んだ確かな情報では、奴はこの暁町のどこかに潜伏している。狙いは神世界教団の転覆だ。奴は神を憎悪している。悪魔だから当然のことだ。

 そして、ここからが本題なのだ。

 正義を貫く貴社に仕事の依頼をしたい。

 太陽が輝く暁というこの町で、太陽を沈めんとする悪のカルト教団、『宵の明星』の悪事を明るみにしてもらいたい。

 『宵の明星』はルシフェルを信奉している。

 カルト教団に社会的な制裁を加えるのは、私の仕事ではない。貴方たちの仕事だ。

 私の仕事は、六翼のルシフェルを冥府に送ることだけだ。

 ぜひ、力になってもらいたい。

 貴社の正義を信じる冥府の王ハデスより」

 手紙を見終わった社員たちは、一同に沈黙し、牛田に視線を集中させていた。

牛田は手紙を凝視して、何やらぶつぶつと呟いている。

そして鼻孔から、オフィスのよどんだ空気を大きく吸い込むと、息を吐き出すと同時に、

「石橋! 若月!」

 と二人の名を呼んだ。

「はい!」

 返事は幸子しかしなかった。

「石橋は?」

「石橋さんは今、出払っています」

 と幸子が答える。

「こんな時に何処へ?」

 牛田は苛立たしげに声を荒げた。

「一週間くらい前から、千鳥組の山が佳境を迎えたと言って外へ」

 牛田は「はあ~」と呆れたように溜息を吐いた。

「すぐに連れ戻せ」

「無理です」

「なぜだ?」

「石橋さんは、一度手を出した山からは、それが解決するまで絶対に引きません」

「はあ~」と牛田はお手上げとばかりに溜息をまた吐いた。そして、考え込むように貧乏揺すりをし始めた。

「今回の髑髏の者の山は、俺の長年の記者としての勘が、二十年、いや、三十年に一度あるかないかの、大きなものだと言っている。あの頑固一徹の敏腕ベテラン記者、石橋にぜひ追ってもらいたい。悪魔がこの世界に初めて現われた時、その悪魔の記事を、世界で最初に書いたのがあいつだからだ。髑髏の者、いや、冥府の王ハデスが、これから何をやらかすのか、そして、俺たちも噂でしか知らない地下組織、『宵の明星』とは何なのか。若月!」

「はい!」

「お前は石橋と組むようになってまだ一年だが、息の合い方は誰よりもいい。他の記者にももちろんこの山を追わせるが、お前と石橋にも追ってもらいたい。石橋を何とか説得しろ」

「そ、それはちょっと……」

「これは至上命令だ。わかったな」

 牛田は有無を言わせないという勢いで、困り顔の若月の言葉の語尾を打ち消した。

「わ、わかりました」

(無理無理!)と内心では泣き叫びたかった幸子である。

    5

「千鳥組の背後にはやばいのがいる。とてつもなくやばいのが」

 石橋からのメールだった。

 幸子は頭を抱えたくなった。

 千鳥組は、最近この暁町で振興してきた現代的なインテリ暴力団である。「千鳥商事」という名称で、ビジネス街の高層ビル群の一角に小さな事務所を構えている。

 表向きはゲームセンターやクラブ、キャバクラ、風俗店などを経営するマルチ企業という看板を掲げているが、裏の顔は、かなり非合法な商売をやっているという。

 未成年の売春の斡旋や、違法カジノ、果ては覚せい剤の密売。

 巧妙な手口で客を集めているため、警察もなかなか証拠を掴めないでいる。そして今、千鳥組は、暁町でも古株のヤクザである竜山会としばしば揉め事を起こし、裏社会の火種となっている。

 千鳥組を快く思っていない竜山会の会長との接触に成功したのが、つい三か月前。

 この町で三十年近く現場の記者をやっている石橋は、穏健派で知られる竜山会会長、山本竜三郎とは旧知の仲。ゆえにアポイントはすぐに取れて、割烹料理屋で取材をした。

 料理屋の外には、サングラスを掛けた大男の組員が、何やら膨らんだスーツのポケットに片手を入れ、きょろきょろと辺りを窺っていたのには、幸子も動揺を隠せなかった。

 幸子が山本竜三郎に関して印象に残っているのは、その腹まである艶やかで見事な黒髭、ではなく、垂れ下がった優しそうな太眉の奥に光る眼光の鋭さだった。数々の修羅場を潜ってきた任侠の漢の眼だった。七十前後とはとても思えなかった。

 山本竜三郎は葉巻を吹かしながら、身を小さくさせている幸子にこう言った。

「君はキリスト教徒かね?」

 それは意外な問い掛けだった。

「え、は、はい。親が神世界教徒なもので、生まれつき……」

 そう答えると、山本竜三郎は少年のようににっこりと微笑み、露わになった総金歯をカチカチ言わせ、

「では、君と私は兄弟姉妹だ」

 料理が並んだテーブル越しに握手を求めてきた。

 幸子は意表を突かれて、眼を泳がせた。

 横にいた石橋が、幸子のスーツの裾を引っ張ったので、「ああ、そうか」と気がついて、精一杯の誠意を込め微笑むと、握手に応じた。

「兄弟姉妹に協力は惜しまない。どのような質問にでも答えよう」

 それから取材は、極めて円滑に、滞りなく行われた。

 山本竜三郎の取材で分かったことは、竜山会が千鳥組に潜入させている組員の名前と、その組員が、千鳥組が運営するクラブのバーテンをやっているということだ。

「あの、その組員さんの電話番号は?」

 と幸子が素朴な疑問を投げかける。

「わが妹よ、千鳥組はバカではない。携帯電話は千鳥組名義で契約したものを、ゲームセンターの下っ端、キャバクラのボーイ、クラブのバーテンにまで配っている。勿論わかるね? 携帯電話は盗聴され、履歴も隈なく監理されている。奴らは狡猾なんだ」

 その語尾には強い怒りが込められていた。

 バーテンの名前は大島と言った。

「大島も潜入して、やっとある程度の信頼を勝ち取り、取引所であるクラブ『ソドム』のバーテンにまで登りつめた」

「取引所? まさか、売春の、ですか?」

 と石橋が質問する。

「いや」

「ではコルバン13……」

「そう、コルバンだ」

「やはり、噂は本当だったんですね」

「噂は本当だが、物的証拠がない。あのクラブのビップルームで取引が行われていることは確かだ。だが、さっき言ったように、監視が厳重だ」

「方法はないんですか?」

「ある。だが、ちと危険だ」

 山本竜三郎は、火のついた葉巻を、すっと幸子の方へ向けた。

「え? え? あの、私、お煙草はちょっと……」

「それは、すなわち……」

 石橋が渋い顔をする。

「そう、潜入するのだ」

 と竜三郎がサラッと言った。

「え!」

 驚きのあまり、幸子の脇の下から、一斉に汗が噴き出た。

「お嬢ちゃん、君みたいなどこから見ても堅気の可愛い女の子なら、三か月も通えばビップになれるだろう。大島には君に危険が及ばないようによく注意するよう言っておく。やるかやらないかは君次第だが……」

「……」

 石橋は渋い顔で考え込んでいる。

 まさか、上司である石橋が、可愛い部下である私を、そんな危険な任務に引っ張り込むわけがない。潜入捜査なんて007だけの話だ。今時、しかもこの平和な国、日本で……。

「できるか? 若月」

(う、嘘! そう来る?)

「奴らの覚せい剤の密売を暴けば大スクープだぞ。報道賞だってもらえる。給料も今の倍、いや、三倍には跳ね上がる」

(嫌よ! そんな危ないクラブなんて行ったこともないし)

「いいか、若月。今この町は十代を中心に、二十代前半の若者までも、深刻な覚せい剤汚染に悩まされている。特にコルバン13はやばいんだ。出所が解らない。医療現場でも全く使われていない、新種の薬なんだ。軽い気持ちで手を出した可哀想な若者たちが、過剰摂取で次から次へと死んでいっている。年間二百人以上だ。お前は、青少年たちを救いたくないのか? ええい! 薄情もの。俺がお前みたいな若い女だったらな、迷いなく潜入するのに! それに、これは俺の勘だが、背後には何か、とてつもなくやばい組織が絡んでいるんじゃないかと思っている。俺の勘は経験上八割は当たる。何? 外れた二割を知りたいってか?」

「はいはい! 酒に酔った時の勘でしょ!」

(パワハラよ! これはパワハラよ!)

「若者を救うためだ。頼む! 協力してくれ、若月」

 石橋は畳に頭を擦りつけ、土下座までした。

「わかりましたよ! やればいいんでしょ」

 尊敬する石橋の土下座するところなど見たくなかったので、勢い、つい言ってしまった。

「言ったな。さすが若月だ。お前だったら将来俺のようになれるぞ」

「別になりたくありませんから。私は。二十八で結婚して、三十で子供を持って、小さな家庭を築くのが夢ですから。こんな過酷な仕事をするのもそれまでですから!」

 半ばやけになっていた。幸子にここ三年間彼氏はいなかった。

    6

 クラブ「ソドム」は、歓楽街の大通りから、一つ裏に入った、小さな雑居ビルの地下にあった。

 地方の娯楽施設だったが、設備は整っていて、女性が安心して楽しめるよう、セキュリティーもしっかりしていた。

 にこやかな受付の女性が、入館するとき、手持ち検査だけでなく、金属探知機までかけるのだった。

 対抗勢力である他の暴力団から鉄砲玉が送られてくる可能性があるので、客がナイフ、拳銃を所持していないか、あるいは、不審者が、盗撮カメラや盗聴器を持ち込まないかを厳重に取り締まるのだ。

 昨今は、どこでも写真や動画を撮ることができるため、館内では数台の監視カメラと、数えきれないほどの隠しカメラが設置されていた。怪しい動作をするものを逐一チェックし、覆面警備員ならぬ、暴力団員がマークする。場合によっては暴力で排除する。

 これらのセキュリティーは本当のところ、客の安全を優先させるということでは全くなく、闇取引を円滑に進めるためだった。

 即ち、潜入捜査官に対しては、警戒を怠っていないということだ。

 潜入捜査官となった幸子は、ペットボトルのお茶で、頻繁に口の渇きを潤しながら、クラブが開くのを待っている他の客たちに混じって、きょろきょろと落着きなく、周りを見回していた。

 クラブで浮かないように、服装は地味すぎず派手すぎず、うまくコーディネートしてきたつもりだ。

 取引はほとんど週末に行われているという。ゆえに、毎週金曜日にだけ、幸子はクラブに通うこととなった。

 幸子は潜入を了承したが、一人では怪しまれると抗議した。だが、山本竜三郎は、「薬を求めに来るものは、一人が多い。薬をやっていることを学校や職場に知られないためだ。一人なら口を閉ざせばいいが、二人以上だと、どこかで口を滑らせる奴がいる。売人も一人の者にしか薬を売らない。それも、何日も観察し、接触し、見定めてからだ。こいつは口を割らないなと確信してからだ」と説明した。

 午後六時を回ると、クラブが開いて、列が動き出した。

 幸子は肩を強張らせて、視線を斜め下で固定しながら、列に従って歩いていった。

 にこやかな受付の女性が、幸子がこの日のために買ったサテンの手提げバックのジッパーを開き、軽く中を見た。そして、幸子のつま先から頭の天辺までを物々しい金属探知機で調べ上げてから、にっこりと微笑んだ。幸子もにっこりと微笑み返した。

 受け付けは無事に通過できた。幸子は、ほっと胸を撫で下ろして、地下へと続く階段を下りていった。

 扉を開けた。耳をつんざく爆音に、幸子は反射的に耳を指で塞いだ。赤や青に点滅する照明が、網膜を不快に刺激し、そこにいるだけで眩暈がした。

 カウンターを探した。大島は客からの注文を受けている所だったので、幸子は適当に空いている席を探し座った。

 大島はさりげなく幸子に視線を送ってきた。切れ長の一重瞼が、精悍な印象を与えた。

「ご注文は?」

「パープルデビルソーダを」

「畏まりました」

 メニューにそんな飲み物は存在しない。これは、大島を通じて、薬の売人と接触したいという合図だった。事前に知らされていたものだった。大島は携帯レシーバーで一言二言喋ると、カクテルを作り始めた。

 緑色の毒々しいカクテルが置かれると、幸子はそれに一口つけ、ポッキーを頬張り始めた。ポッキーを十本食べている間に、何組かの男たちに声を掛けられた。

 いずれも乗りの軽い、頭の悪そうな男達だったので、愛想笑いを浮かべつつ適当にあしらった。

 脈なしと踏んだ色黒の男が、甘い香水の残り香を置いて去ると、それと入れ代わるように、柑橘系の強めの香が幸子の鼻を突いた。不快な匂いではなかった。

 すぐ背後に気配を感じたので、緊張しながら振り返ると、女の子が立っていた。

「こんばんは。お姉さま」

 と少女は場違いなほど健康的な微笑を浮かべていた。その顔は、女の幸子でもドキッとしてしまうほど可愛かった。

「こ、こんばんは」

「えへへ」

 女の子は、ふわっとした黒色のミニスカートに、薄紅色のキャミソールを合わせ、その上から上品な白いブラウスを羽織っていた。

 ポニーテールにした指通りの良さそうな黒髪を揺らしながら、きょろきょろと辺りを窺い、まるでリスのように黒めがちなその瞳をさっと幸子に止めた。

「横、いいですか? お姉さま」

「え、ええ、いいわよ」

「かわいいバックですね」

「あ、ありがとう。お世辞でもうれしいわ」

「お世辞じゃないですよ。お姉さまの気品のある雰囲気に良く似合ってる。私みたいな子供が持つと、バックだけ浮いちゃう感じですわ」

「そんなことないわよ」

「えへへ。お姉さま、今のお姉さまの言い方が、お世辞って言うんですよ」

 少女は絵里香と名乗った。

 絵里香が売人だと知ったのは何回か会ってからだった。大島の話では、薬を求める客は十代から二十代が大多数だから、同年代の若者を使うことで、できるだけ警戒心を減らすのだという。そして、絵里香のような十代の少女に売人をやらせるのが通例になっているのだ。

    7

 絵里香は、暁町でもトップクラスの進学校である聖蘭女学院に通っていた。

 聖蘭女学院は、きってのお嬢様高校としても知られ、暁町の男子高校生の憧れの的であり、聖蘭のお嬢様と付き合うことは、一種のステータスとなっていた。

 絵里香の初対面の印象と、親しくなってからのそれでは、かなり大きな開きがあった。

 絵里香は幸子のことを、聖蘭風に敬意を込めて、「さちお姉さま」と呼んだ。

 このような場所に来る女の子だから、普通ではないとわかっていたが、学校でよく躾けられているのか、物腰が優雅だし、言葉遣いも上品で、「さちお姉さま、ぜひ相談に乗ってもらいたいことがありますの」などとしおらしく言われ、恋愛相談などされると、心を許されたと思い、可愛い子とつい錯覚してしまう。

 絵里香はうっとりしながら、彼氏との甘いひと時のことを語り、自分の彼氏がどれほどかっこよく頭がいいかを語り、そういう所は等身大の十七歳と何ら変わらないんだと幸子は思った。

 しかし、曲がりなりにも新聞記者である幸子は、絵里香に対する観察を怠らなかった。

 絵里香は手首にいつも包帯を巻いていた。幸子はさりげなく、「手首痛いの?」と聞いてみた。

すると、「痛いんじゃないの。気持ち良いの」という返事が悩ましげな吐息とともに返っていた。そして、さも愛おしげに包帯越しに手首を撫でつけていた。

 ある日のことだった。

「あのね。さちお姉さま、この間一緒に写メ撮ったじゃない」

「うん、そうね」

「それでね。私の彼氏に見せたの」

「うん」

「そしたら亮ってね。酷いの。私がいながら、それも私の目の前で、さちお姉さまのこと綺麗だって言って、今度会わせろっていうの。私、亮のことひっぱたいてやろうかと思ったけど、亮の顔ってとても綺麗だから、また我慢して自分の手首切っちゃった。えへへ」

 明滅する照明の加減で、はっきりとは見えなかったが、絵里香は多分泣いていた。

 その時、幸子は自分の妹のことを思い出した。絵里香は薬を売る売人だけど、決して悪い子には見えなかった。流されやすく不器用なだけなのではないかと、悪い彼氏に貢ぐためにこんな仕事をしているのではないか?

「いいわよ。絵里香ちゃんの彼氏に会ってあげる」

 そう言って、絵里香の表情を注意深く伺った。

 絵里香は目尻を抑えながら「えへへ」と笑うだけだった。

    8

 いつも絵里香と談笑するカウンター右隅の席で、幸子は絵里香からのメールを待っていた。

 絵里香から聞いてきた話だと、絵里香の彼氏「亮」は、身長百八十センチの長身で、スポーツ万能、学業優秀、通りを歩けば、十人の女子がいたなら八人は振り返る超美形。ソフトマッチョで色白、喧嘩がめっぽう強い。

 文学や音楽、芸術全般に強い。

 一見冷たい印象を受けるが、話してみるととても優しい。云々。

 数え上げたらきりがないそうだ。

 幸子は直接、絵里香の恋人「亮」に会ってみて、自分の眼で見定めるつもりだった。そして、絵里香に相応しくない男だと判断したら、絵里香と別れるように、その亮を説得するつもりだった。

 今までの絵里香の話しぶりだと、絵里香は亮をかなり美化していて、危険なほど嵌まり込んでいることが解る。亮の意思を尊重するためだったら、絵里香は主張を我慢して、黙って自分の手首を切るのだ。金か、体目的か、それとも他に理由があるのか、幸子の邪推は亮が現れるまで止むことがなかった。

 コーラで喉を潤していると、メールが届いた。絵里香からだった。約束の時間より二時間ほど遅れていた。幸子は翌日、大学時代の友達と会う約束があったため、十時には家に帰って寝たかったが、時計はもう九時半を指していた。

 絵里香の自傷を止めるまたとない機会だから、明日の約束などどうでもよくなっていた。

 メールの内容を確認すると、亮ともう一人、亮の親友の「真人」という男子がついてくるそうだ。

「真人……」

 その名前を聞いて幸子は考え込んだ。思い当たる節があった。

「まさかね」

 そう心の中で呟いて、「よし!」と気合を入れ、コーラを一気に飲み干した。


 絵里香が一人で現れた。

 亮は、このダンスフロワーであなたと会うのは失礼だから、喫茶室で待っているという。このクラブには、談話を楽しめるように、静かな喫茶室が用意されていた。

 絵里香がうきうきした足取りで、幸子の手を引いて歩いていく。

「びっくりするよ、さちお姉さま」

「なんで?」

「亮は絶世の美男子だから」

 またそれか、と幸子は閉口した。

 幸子の頭に不意に疑問がよぎった。そしてそれを口にすると、

「うん? なんで亮の写メを見せてくれないかって? 亮は写真が大っ嫌いなの。あんな綺麗なのに、写真が嫌いって、変わってるよ、ほんと。まあ、私からしてみれば、他の女の子に写メで亮の顔を見せなくていいからうれしいけど。絶対に好きになっちゃうよ、見せたら。ふふ……」

    9

 幸子は確かに目を奪われた。

 亮はツイードのジャケットにジーンズ、赤いスニーカーというシンプルないでたちだったが、着飾っていないからこそ、その顔の造形の見事さが浮き彫りになっていた。

 軽く幸子に会釈をし、微笑む目元には、幼さと大人っぽさの中間のような不安定な危うさがあり、幸子をハッとさせた。抽象的な表現をすれば、真珠のような純白に、憂い気な灰色の影が、少し差し始めているような感じだった。

 一度見たら忘れられない印象的な眼だった。一瞬で女を虜にする無垢な色気を感じさせた。

 亮は、「こんばんは」と言うと、時間に遅れたことを謝罪してから、テーブルの上に置かれていた文庫本とポータブルオーディオプレイヤーを急いでバッグに仕舞おうとした。不意に手元が狂って本を床に落とした。幸子は足元に転がった本を拾い上げると、「何の本?」と興味を持ったので聞いてみた。

「ヘルマンヘッセです」

 亮は、はにかむように微笑んで言った。自然と口元に目が行き、綺麗な唇だなと幸子は思った。

「車輪の下?」

「いえ、詩集です」

「へえ、詩とか読むんだ。ヘッセの詩ってどんな感じなの?」

 本を渡しながら何気なく聞くと、亮の顔に怪しい影が差した。

「ヘッセは俺とはかけ離れています。いや、俺の中にヘッセに感動する心は皆無です」

「じゃあ、なんで読むの?」

 当たり前の問い掛けだった。

「強い嫉妬を感じるからです」

「不快じゃないの? 嫉妬を抱くくらいだったら読まなければいいのに」

「いえ、その嫉妬がとても心地良いんです」

 幸子は言っている意味が理解できなかった。

「まあ、本の読み方は人それぞれだからね」

 とお茶を濁した。

 亮は幸子に椅子に座るように促すと、絵里香に目で合図した。絵里香はつまらなさそうに頷き、喫茶室を出ていった。

「絵里香は俺がほかの女の子と話していると、すぐに話に入ってきて、邪魔をするんです。だから、絵里香に注意するのもかわいそうなので、喧嘩もしたくないし、席をはずしてもらいました」

「そうなの。わかったわ、ところでお友達の真人君は?」

「あ、真人は踊りに行くって言って、さっき出ていきました」

「あ、そうなの」

 幸子は喫茶室を見回した。

 酔い潰れた女性を介抱する彼氏らしき男。ビール缶を片手に愚痴をこぼし合っているOLらしき一団。馬鹿騒ぎしている軟派な男三人組。

「初めまして。俺、美山亮って言います。暁第二高校の二年生です」

 亮は照れたように頭を掻きながら自己紹介した。

 幸子は食品関係の仕事をやっていると職業を偽って自己紹介した。

 最初のうちは学校で起きたことなどや好きな食べ物など、とりとめのないことを話した。

 話題が映画や音楽のことになると、亮の目つきは変わった。絵里香の言っていた通り、芸術には深い造詣があるようだ。

「亮君の好きな映画って何?」

「時計じかけのオレンジです」

「ああ、キューブリックの」

「はい」

「あの主人公みたいなろくでなしが好きなんだ。亮君は」

「はい。偽善者よりはよっぽど好きです。じゃあ、幸子さんはどんな映画が好きなんですか?」

「私? 私は……そうね、ジャームッシュが好きだわ」

「トムウェイツの音楽は素晴らしい」

「そう! いいよね」

 それからしばらくの間、昨今のハリウッド映画がどれほどくだらないかを二人で語り合った。意外に気が合うなと幸子は思った。

 音楽の趣味もよく合った。

「バッハの無伴奏チェロ組曲はカザルスで聞きます」

「私は録音状態もどちらかというと重視するほうだから、ヨーヨーマの二番目の録音で聞くわ。仕事が終わった後、寝る前なんかに聞くとリラックスできるの」

「じゃあ、よかったらヨーヨーマとカザルスを聞き比べてみます?家にこだわっている音響システムがあるんですよ。古いレコードでもよく鳴りますよ」

 そうさりげなく誘われて、心が一瞬揺れた。「じゃあ、行こうかしら」と喉元まで出かかったが、何とか堪えた。

「私、明日友達と会う約束があるから、ちょっと」

「彼氏ですか?」

「かもね」

「残念ですね。彼氏だったら」

「そんな言葉、絵里香ちゃんが聞いたら悲しむわよ」

「十代の恋愛なんてそんなものだと思いますけど」

「でも、絵里香ちゃんはね……」

「わかってますよ。リストカットでしょ。こんなこと言いたくないけど、俺がいなかったら絵里香はとっくに自殺してますよ」

 投げやりな言い方に、幸子はカチンときた。

「何を言ってるの? 絵里香ちゃんはあなたが原因で手首を切っているのよ。思い上がらないで」

「思い上がってなんかいません! 絵里香は……」

「……」

「いや、止めましょう」

「続けて」

「ダメです。絵里香の名誉に関わることです」

「いい? 亮君、このままあなたと絵里香ちゃんが付き合っていたら、絵里香ちゃんにとって良くないのよ」

「……」

「何か隠していることがあったら言って。言わないと私が何としてもあなたたちを別れさせるわよ」

 亮は円らな瞳を泳がせてから深い溜息を吐くと、

「わかりました」

 と観念したようにった。

 真実は恐ろしいものだった。

「嘘でしょ?」

「本当です。絵里香の一つ上の兄が一年前悪魔になりました。力の予兆が小さすぎて微熱が出て、ラップ現象がするくらいだったそうです。そして気が付いた時には背中から黒い翼が生えて……」

「神世界教団に駆逐されたの?」

「はい。絵里香の両親と年の離れた九才の妹を惨殺してから」

「そんな」

「絵里香は俺がいないとダメなんです。俺が踏みとどまらせているんです」

「……」

 幸子は黙るしかなかった。

    10

 不意に着信音が鳴った。

「すみません。いいですか」

「ええ」

「ん? 真人か。ああ、もう話は終わったよ。そうか、ああ、待ってる」

 しばらくするとドアを開ける音がした。

 真人が現れた。

 幸子は驚きに目を丸くした。

「ま、真人君!」

「ん? さ、幸ちゃんじゃん!」

 二人は驚きと懐かしさにしばらく見つめ合った。

 話の呑み込めない亮は唖然として二人の様子を見つめてから、「まあ、座れよ、真人」と隣の椅子を引いた。

「三年ぶりくらいよね」

「そうだね。今、何やっているの?」

「あ、えっと、食品関係の会社に勤めてるの。それより、大きくなったわね、真人君。葵が知ったら驚くわよ。あの頃は葵より少し小さかったじゃない」

「へへ、今は百七十八センチあるよ。中二の頃は六十前後だったっけ」

 楽しそうに談笑する二人の様子を見て、亮が真人の脇腹を突いた。

「幸ちゃんは、俺の幼馴染みで中学時代付き合っていた子のお姉さんなんだ」

「葵っていう子か?」

「ああ」

「その子。どこの高校に進んだんだ?」

 何気なく亮が聞くと、真人と幸子は言いずらそうに俯いた。

「もう、いないんだ。いや、俺は葵がどこかできっと元気に生きていると信じている……」

 そこまで言うと真人の呼吸が明らかに乱れ始め、「すまん」と断ってから、ポケットの煙草を取り出すと、震える手で火を点けた。

 幸子は、煙草の煙を吸い込む真人の表情から、常軌を逸した何かを感じ取った。

 亮は何かを悟ったのか、これ以上聞こうとはしなかった。

「どうしたの? 真人君。昔とだいぶ感じが……」

 そこまで言いかけて、幸子はハッとした。

 思い出した。

 特にこの町で、悪魔の起こす事件は頻発しているので、それに、その時は自分の担当ではなかったから……。いや、言い訳はよそう。仕事に忙殺されていたのだ。

 幸子の頬を涙が伝った。

 目の前で煙草を吸う真人の表情は、薬物を吸っているときの薬物中毒者のそれと酷似していた。多分、コルバン13を吸っているのだろう。無理はないのだ。

 真人の弟は悪魔に殺されたのだから。

「葵に会いたいなあ……。実には葵のことをいつも自慢してたっけ……」

 幸子は自然と真人を抱き寄せていた。そして、肩を震わせて咽び泣く真人を強く強く抱きしめた。


 この日、美山亮と会って分かったことは、美山亮という子は、悪魔によって傷ついた人達に寄り添って、懸命に支えているということだ。悲劇によって道を踏み外した絵里香に何も言わず寄り添い、同じく真人にも……。彼を動かしているものは何なのか、どうしてそこまでするのか?

 いや、これ以上の邪推はやめよう。

 幸子は神に祈りたくなった。幼い頃は嫌々行っていた教会に、今は進んで行きたい気持ちだった。

    11

 三か月後の現在、編集長の牛田から指令を受け、ハデスの件を取材するように、石橋を説得しなければならなかった。

 会社を出て、タクシーを捕まえ、石橋がいるという喫茶店へと向かった。

「来たか、若月」

 石橋は煙草を吹かしながらコーヒーを啜っていた。

「石橋さん、煙草やめたんじゃなかったんですか?」

「煙草が吸いたくもなるさ」

 石橋は興奮を抑えるように、貧乏揺すりを繰り返していた。

「私がメールで送った情報、見ました?」

「ああ」

「言いづらいんですけど、今取材している千鳥組の件なんですが、編集長が引けと」

「俺をハデスの方に回すのか?」

「はい」

「手遅れだ。ハハハ!」

「え?」

「あっはっはっは!」

「何がおかしいんですか?」

 幸子はいつもと様子の違う石橋に戸惑いを感じていた。

「あっはっはっは!」

「石橋さん?」

「俺はな! 若月!」

 不意に大声を出して、石橋はテーブルに拳を叩きつけた。店内の視線が一斉に注がれた。

「……」

 幸子は息を呑んだ。

 石橋は奥歯をカチカチ言わせ、震えていた。眼は怯えた兎のように赤く充血していた。

「家族がいるんだ」

「いったい何が?」

 と幸子が尋ねた。

「俺は、たぶん消される」

「!」

「今回は相手がやばすぎたようだ。お前はもうクラブ『ソドム』へは行くな。二度とだ。わかったな!」

「え! 状況を説明してください」

「時間がない。俺はこれから外国へ逃亡する」

「そんな!」

 幸子は石橋の眼の奥を探った。そこには何かへの絶対的な恐怖が宿っていた。

「お前を巻き込みたくはなかった。まさかこんなことになるなんて」

「私もジャーナリストの端くれです、教えてください」

「……」

「石橋さん。あなたともあろう人が、いったい何に怯えているのです? あなたと組んでまだ日は浅いですけど、拳銃をこめかみに突き付けられても全く引かないようなあなたが、一体……。このままお別れなんて、どうかしてます」

「……」

「石橋さん……」

 幸子は涙声で訴えた。

「会ったんだよ。ルシフェルに」

「!」

「いいか、若月。これから言う事をしっかり心に留めておけ。だが、決して記事にはするなよ。わかったな」

「は、はい!」

 石橋は語った。石橋は豊富な人脈と、独自の取材ルートで、千鳥組の悪事の証拠を掴んでいった。

 その新聞記者としての非凡な手腕に裏付けられた行動力は見事なもので、聞いているだけで惚れ惚れとしてきた。

「いいか。ここからが本題だ。ソドムで取引されている『コルバン13』、俺は警察が必死に捜査してもわからなかった謎を掴んだんだ。即ち、薬がどこで造られているかだ。千鳥組の内部で不満を持つ重役にとあるコネを使って近づき、女と酒を使って、さり気なく聞き出した。

 薬は、ハデスが実態を暴けと言った『宵の明星』というカルト教団が製造している。その時点では、この情報に関して、重役の言葉以外、確たる証拠はない。だが、重役は良心を咎めていた。深くだ。なぜだか解るか?」

「い、いえ」

「取引相手のカルト教団はまっとうな集まりではなかったからだ。人間ではなかったからだ。教祖は確実にだ」

「その教祖があの魔王ルシフェルだった、と? まさか!」

「俺は、酔い潰れたその重役のスマホを探り、数か月の履歴をすべて頭に叩き込んだ。教祖の名前は『英輔』と言った。俺は英輔のメールアドレスを記憶し、後から英輔にメールを送り、接触を試みた。反応させるように、「薬の密造を警察に売るぞ」という言葉を添えて。そしたら英輔は乗ってきた。俺の心は躍った。ついにコルバン13を巡る大きな山に決着をつけられると。場所は奴が指定してきた。俺は警戒を怠らなかった。竜山会に援けを求め、血気盛んな若い衆を三人借りて、奴の指定した場所へと行った。山奥だった。そこにある湖に、貸しボート屋の廃墟があった。執事と名乗る黒いタキシードを着た男が一人そこに立っていた。不気味だった。俺たちは執事が促すままボートに乗り込んで、霧深い湖を渡っていった。俺たちは震えが止まらなかった。初夏なのに異常に寒く感じたんだ。今振り返ると、俺たちは何か、とてつもなくやばい未知の恐怖に、生存本能がノーと言っていたのかもしれない。湖を渡り終えると、車が待っていた。そこで、スマホと、若い衆が持っていた拳銃を没収された。若い衆は不服を言ったが、向こうからすれば、当然の処置だったろう。

 そして、目隠しをされた。耳が捉えるのはカーステレオから流れる音楽だった。俺は恐怖を紛らわせようと、「なんていう曲だ?」と執事に質問した。執事は「バッハの無伴奏チェロ組曲」と答えた。「いい曲だな」と俺は震える声で言った。

 車から降ろされ、手を引かれるまま俺たちは建物に入った。そして、エレベーターに乗った。そのエレベーターは下降していった。「何階まで降りるんだ?」と俺は尋ねた。すると、薄ら笑いとともに執事が、「地獄まで」と答えた。恐怖に耐えかねた若い衆の一人が、「冗談はよせ!」と悲鳴を上げた。他の二人も「ふざけるなよ」と暴れだした。不意に鈍い音がした。それから若い衆の三人は静かになった。

 エレベーターが止まって、俺たちは手を引かれ、建物の奥へと進んだ。お香のような匂いがずっとしていた。「いい匂いだな」と俺が言うと、執事は低い声で、「悪魔が慰められるように」と答えた。俺は必死に尿意を我慢していた。

「いいですよ」と優しい声がした。

 目隠しが取られた。

 そこには少年がいた。金色の玉座に座っていた。とても美しい少年だった。十六、七だったと思う。少年が教祖の英輔だった。

「こんばんは」

 と英輔は透き通る声で言った。

「挨拶はいい。どこでコルバン13を製造しているんだ?」

「ここだよ。製造所はさらに地下に行ったところにあって、今ではオートマチックで製造しているんだ。見たい?」

「ああ」

 俺は若い衆を探した。

「連れの三人だったら食事だよ。後ろを見てごらん」

 俺はこんな時に何を考えているんだと思った。振り返ると、若い衆の三人は、黒い翼を生やした化け物に貪られていた。俺は失禁した。すると英輔が、高い声で嘲笑した。

 英輔の後に続いて製造所を見たが、俺の頭にはここから生きて帰ることしかなかった。すると、歯を鳴らす俺に向かって英輔が、「大丈夫。まだ殺さないよ」と言ってウインクした。俺は死を覚悟した。

 一通り見終わると、さっきの玉座の間に帰ってきた。

 執事が英輔に何かを渡した。俺のスマホだった。

 英輔はさも楽しそうに口笛を吹きながら、俺のスマホをいじっている」

 そこまで黙って聞いていた幸子は眼を見開いた。青ざめた唇を動かして、

「じゃあ、ソドムに潜入したことも、私の顔も名前も……」

 石橋がすまないというように、一回強く瞼を閉じてから頷いた。

「石橋さん」と英輔は俺の名を呼んで、無邪気な声音でこう言った。

「家族がいるんだね。可愛い女の子だね、何歳?」

「やめろ! 家族だけは!」

「ふふ」

「た、頼む……」

「俺はね、石橋さん。悪魔だから。覚えておくといいよ。悪魔は人間の頼みなど聞かないものだよ。悪魔が人間の頼みを聞くときは。わかる?」

「?」

「楽しむときだけだよ。石橋さん、あなたはここから出してあげるよ。あなたは書けないね。家族の命と引き換えに、報道の正義は貫けないね。ああ。ひとつだけ加えておこう。悪魔は気が変わり易いんだよ。ふふふ。いつか殺しに行くかも。この町を出た方が良いよ。念のため」

 そう言ってから英輔は変身した。

 六翼の魔王『ルシフェル』の姿に」

    12

 石橋は幸子と別れてからすぐ、その晩、家族と共に、インドネシアに旅立っていった。

「薄情者」とも言えなかった。

 まさか、千鳥組が魔王ルシフェルと絡んでいたなどとは夢にも思わない。石橋は念のため、お前もこの町を出たほうがいいと言った。幸子は本当に自分も悪魔に命を狙われるのだろうかと疑問に思った。どこかで楽観視したかった。しかし、今まで悪魔の事件を扱ってきたからこそ、鼻で笑えないのだ。

 石橋が旅立って行ってから、しばらく日にちが経つと、毎夜、非通知の電話がくるようになった。悪戯電話だと言い聞かせても、まさかルシフェルからでは、と思ってしまう。

 そんな日々が一か月続くと、開き直って電話に出てみた。それはわかりやすい悪戯電話だった。幸子は、ベッドに電話を叩きつけ、頭から布団を被った。

「何なのよ! 一体。どうしてこんなことになったの!」

 気分でも変えようと、布団を退けて、CDプレーヤーに手を伸ばした。モーツアルトのジュピターを掛け、それが終楽章に至った時だった。再び電話が鳴った。幸子は舌打ちしてから電話を取った。どうせ悪戯電話だろうと決めてかかった。

「もしもし」

「幸子さん?」

 声に聞き覚えがあった。

 外では雷が鳴っていた。雷がひときわ大きく響いた。一瞬聞き取れなかった。

「だから……」

 幸子はカーテンを引いて、窓を開けた。風と共に大粒の雨が顔を打った。しかし、そんなことを気にしている余裕はなかった。

 黒い車が停まっていた。

「あ、あれに乗り込めばいいの?」


 車は見慣れぬ山奥へ入っていった。

 隣には黒いタキシードを着た執事らしい男が座っていた。バッハの無伴奏チェロ組曲が流れていた。

「執事さま!」

 と助手席にいる悪魔が叫んだ。

「何事だ?」

 悪魔は雨で煙るバックミラーを凝視している。

「ハデスです!」

「ち! こんな時に。構わん! 殺れ!」

 と執事が怒鳴った。

 幸子は振り返った。

 雨でよく見えないが、銀の髑髏が闇の中で幽かに揺れていた……。

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