第19話 都

 奇妙な娘がいる、という噂が宰相の耳に入った。都にやってきた一人の娘が、王に会いたがっているのだと言う。それは別に何も珍しいことではない。ものを知らない何者かが望みを叶えるために会いたがるのは一番の権力者に決まっている。だが、それが宰相の耳に入るのは珍しかった。

 その娘は、あの神の村から来たのだと言う。湖に棲む神を守る村。この国にとって、神の存在は重要だが、ほとんど問題になることはない。敬われているが、その存在は遠い。天候も落ち着いており災禍もなく、古代には頻繁だったという予言も、国が安定してからはほぼない。問題がないとき、その対象は話題に上がらないものだ。

 神は騒がしいこと、仰々しいことを好まず、古くからの村人たちに静かに守られることを望んでいた。定期的な視察や村からの報告は受けているが、実際の政を行う上で、神のことはほとんど忘れていられる存在だった。

 しかし、重要な存在であることに変わりはない。宰相が知る限り、村から都に直接やってくるものなどいなかった。騙りの可能性はあるが、神の村の存在は都の庶民にはほとんど知られていない。何かが起きているかもしれない。

 神に関わることなので、処遇はともかくとりあえずその娘を王城に招くこととした。今は都の宿にいるらしい。小さな村から出てきたわりにはいい宿だった。

 迎えを送ると、娘は素直に応じた。宰相が会うと使者が告げると、神妙に頷いた。

 王城にたどり着いても、緊張はしていても身分の低いものによくあるような怯えや卑屈な様子は見えない。振舞いも言葉遣いも都風の洗練はないが、素朴に整っている。神聖な村からやってきたというのは本当かもしれない、と、接するものは思った。見たことのない種類の娘だった。侍女をよこすと、同性にほっとしたようで初めて笑みを見せた。年輩の侍女たちは、たったそれだけで娘に好感を抱いた。心を砕いてもてなす彼女たちに小さなことでもいちいち驚き喜び礼を言う。取り巻く雰囲気が彼女に好意的なものになり、直接見知らぬものも自然と好感を抱く。そうして、宰相と会う手はずが整う前に、王城の多くの人間はすでに娘の味方となっていた。宰相はその様子を聞いて、困ったことだと嘆息し、会談の予定を早めた。

 会談は小さな部屋で行われた。緊張している娘にどうしてもついていてやりたいと言う侍女を一人つけ、宰相と秘書が一人、あとは護衛が一人。

 宰相との会談でも、娘は特別な装いをしてはいなかった。借り物なのか、娘らしくない落ち着いた着物に、飾りも化粧もない。白い顔は都の姫たちに比べ特別に美しいわけではないが、煌めく黒い瞳と、きつく引き結ばれた小さな唇には、確かにこの娘は他とは違う、と思わせるものがあった。覚悟を決めたものの表情だ。警戒していた宰相も、つい心を傾けてしまう。

 娘は環と名乗った。訥々と、素朴な言葉で、だがしっかりと語る。環は神の村の出身で、神の花嫁だと言う。

「神の花嫁?」

 宰相はつい声を上げた。そんなものは聞いたことがない。

 環は痛みを堪えるような顔で頷いた。三百年に一度、湖の底の神に捧げられる花嫁という役割があるのだと言う。宰相はぎょっとした。儀礼的な部分も含めて村に全てを任せていたのだが、まさかいまだに生贄をささげているとは思わなかった。だが、村における常識と都の常識もまた異なっているのは考えてみればありそうな話だ。問題が表面化していないことはつい後回しにしてしまうが、重要なことなのに確認を怠っていた。

「一人で来たということは、逃げてきたのか?」

 無理もない、と宰相が問うと、環は首を振った。引き結ばれた口元に、硬い決意が滲んでいる。この娘は逃げたりはしない。宰相は表情ひとつで説得させられた。侍女はいたましい顔で、環の肩をそっと抱いた。

 環によると、本来なら儀式は前の満月の夜に行われるはずだった。だが、環は生きており、儀式をつかさどる長の家の人間が、それでいいと告げた。

 宰相はそこまで聞いて、それでよかったのなら、構わないのではないかと思ったが、環は続けて、村の男たちが何人かいなくなったこと、天候が荒れていることを話した。

「それに、姉さんもいなくなって……」

 そのときはじめて、硬かった環の黒い瞳が、わずかに揺らいだ。

「姉?」

「はい。私の双子の姉さんです。儀式の日から、いないんです。出て行ってしまったんだと思います。村で、あまりいい扱いを受けていなかったから」

 捧げられなかった本来の花嫁。そして、いなくなった双子の姉。それはつまり、と、宰相は思った。だが、小さな体でなんとかここまでやってきた娘に、そのことを告げるのは憚られた。咳ばらいをする。

「つまり、湖の神が求めるものを捧げていないということか」

「そうです。仁が……村長の息子が、大丈夫だと言ったから信じていたんですけど、やっぱりおかしいので、都の神様に詳しい人たちに話さないとと思って」

「ふむ」

「神様、怒ってるんじゃないかと思うんです。でも、どうしていいのかわからなくて」

「なるほど」

 これは難しい問題だ。宰相は、ため息を一つつき、とりあえず環を自室に帰らせた。

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