第3話 信じられると、ようやく思えたのに…… その10
その言葉を言った瞬間、樹さんの腕の力が弱くなった。思わず、私は振り向いてしまい、樹さんの表情を見てしまった。
樹さんは、ほとんど表情を変えない。せいぜい眉間や口角がほんの少し動くだけ。樹さんの言葉が、私に樹さんの感情を教えてくれていた。
そんな樹さんの表情が……目が……私に訴えかけてくる。
不安だと。怖いと。言葉にしなくても、私に伝わってしまった。
どうしよう。何を、次に言えば良い?樹さんは、私に何を求めている?私は、何をするのが正解なの?答えが、分からない。
「どうすればいいんですか……?」
「優花?」
「私は、あなたのために何をすればいいですか?」
ずっと聞きたかった。聞かなくてはいけないと、思っていた。でも、聞けなかった。
どうしてあなたは、私のことを好きだと言うのですか?どういう私が、あなたに好きだと言ってもらえたのですか?これからどうすれば、あなたの好きだと言い続けてもらえるんですか?
言葉をぶつけて、樹さんに気づかれるのが、怖かった。私という人間が、樹さんにとって本当は何の価値もない人間だということに。
「……私なんかに、あなたの側にいる価値……あるんですか?」
私がそう言った時だった。
「ただ、俺の側にいて欲しい」
樹さんは、私の横幅の広い体を締め付けるように抱きしめてきた。
「それだけで……いいんだ……」
樹さんは、私の首筋に顔を埋めて、そう囁いた。
「そんなわけないじゃないですか」
「優花」
「樹さん、やっぱりかっこいいし、どんな女性だって彼女にできるのに」
「優花、ねえ話を聞いて」
「やっぱりダメです」
「落ち着いて」
「私なんかじゃ、樹さんには釣り合わない!」
「優花!!」
樹さんは、私の頭を樹さんの胸に埋めさせた。樹さんの香りが、私の冷静さを取り戻してくれた。
「ご、ごめんなさい……私また……」
どうして、この人の前だとこんなに理性が効かないのか。もうすぐ40歳だというのに。
情けない。本当に。私は、涙と鼻水で樹さんの服を濡らさないように必死に俯いた。
「聞いて、俺の話を」
樹さんは、私の頭を1回撫でながらこう言った
「1人で、結論を出さないで」
樹さんは、さらに私を強く抱きしめた。
「俺だって……不安だ」
「え?」
「君にだって、あるんだよ」
「何を……ですか?」
私が恐る恐る尋ねると、少しの間を空けて樹さんが言った。
「俺を、君が捨てる権利」
「そんな人、いないに決まってるじゃないですか」
氷室樹という人は、選ばれた人だ。容姿も才能も、神様から選ばれたから、与えられた。
それによって、人から選ばれ続けたし、これからもきっと、選ばれ続けるだろう。
一方で私は、選ばれなかった人。人を惹きつける才能も、容姿も私にはないから。
人間は、生まれながらにして不平等だ。世界規模で見れば、私なんかの劣等感はミジンコレベルかもしれない。それでも、思ってしまう。氷室樹という存在を、知れば知るほど、
好きになればなるほど。
「樹さんは、ちゃんと選ばれますよ……わ……」
私以外の人に。そう、言おうと、唇を動かした。でも、声が出ない。息だけが、虚しく洩れた。
「俺が選ばれたいのは、君だよ、優花」
樹さんの声が聞こえたかと思うと、顔を無理やり上げられて、唇を彼の唇で塞がれた。
しょっぱい、涙の味がした。
樹さんの唇が離れたと同時に、樹さんの両手に、私の手が包み込まれた。樹さんの手が、微かに震えていた。
「俺はまだ……君に言えてないことがある」
「え……?」
「だから……君が嘘をついたことを責める権利は……俺にはないんだ」
「ど、どういうことですか?」
「今はまだ……言う勇気がない」
隠し事をされたという事実は確かにショックではある。だけど、隠し事をしたいという人の気持ちは、よく分かる。だから私は、こう答える。
「無理して言う必要は、ないと思います」
これは、私の本心だ。でも樹さんは、首を横に振ってから
「他の誰に言わなかったとしても、君にだけはいつか……話さないといけないことなんだ……」
その言い回しが、とても気に掛かった。
「私にだけ……ですか?」
「そうだ」
樹さんは、私の手をより強い力で握ってくる。
「このことを話せば、君が俺の前から消えてしまうかもしれないって……俺の方がずっと怯えているんだ」
「そんな訳な」
いと、私が言おうとすると、
「頼むから、俺をちゃんと君の世界に入れてくれ」
と懇願された。
樹さんは、その後も続けて早口で私に訴えかけてくる。
「俺と君は、間違いなく平等。君が怯えるのと同じように、俺だって怯えているんだ」
私は戸惑った。私なんかのどこに、ここまで求められる要素があると言うのか。
聞いてみたい。でも、どう聞けば、今1番私が欲しい答えが返ってくるのだろうか?
数十秒ほど考えてたどり着いたのが、これだった。
「どうすれば、樹さんにもっと好きになってもらえるんですか?」
樹さんは、ほんの少し悲しげな表情をした。
「ありのままで」
私は、彼の言葉と抱擁を受け止めながら、また泣いてしまった。
それから、樹さんと私は、樹さんの香りが染み付いたベッドで互いの体温を感じ合った。
樹さんに、完全に素肌を晒すことになってしまうことへの恥ずかしさもあったが、それ以上に、樹さんの素手で私の皮膚に触れてもらえることの方に、喜びを感じてしまった。樹さんの体温と香りを失くしたくないと、強く思ってしまった。
互いの体を愛する行為は、結局最後まではしなかった。ハワイで、初めてを貰うという約束を守るためだと言って、樹さんが我慢してくれたから。
「そんなの守らなくても良い」
と、私は言ったけれど、樹さんは譲らなかった。
そんな頑固な一面さえも、可愛いと思った。好きだと思えた。
「好きだ」
何度も繰り返し、樹さんに言ってもらえるのが、何よりの幸せだった。
ほんの少しだけ2人で眠った後に、下に降りた。もうすっかり夜になっていたので、ご飯を一緒に食べようと、樹さんが言ったから。
「あ、もう終わったんですか?」
休憩室として使っていると、樹さんが教えてくれたダイニングで、さっきお世話になった吉川さんが、座ってコーヒーを飲んでいた。
「吉川くん……まだいたのか……」
樹さんは、大きなため息をついた。
「いつも、こんなもんじゃないですか」
「それはそうだが……」
「安心してください。声までは聞こえませんでしたから」
吉川さんはそう言うと、私の方をチラと見る。私は反射的に会釈をしてしまったが、吉川さんが言った言葉の意味に瞬時に気づいて、顔から火が吹き出そうになった。
「吉川くん!」
樹さんもそれに気づいたのだろう。今にも殴りかかりそうな勢いだ。
「はいはい。邪魔者は帰りますよ」
吉川さんは、にんまり笑うと、樹さんの方に近づいて、何やら耳打ちをした。瞬時に樹さんの顔がかっと赤くなった。
「じゃ、お邪魔しました〜」
飄々と吉川さんは去っていき、残された樹さんは、口元を抑えながら、顔を真っ赤にさせていた。
「何を……言われたんですか?」
ちょっとした好奇心で聞いてみると、樹さんは聞こえるか聞こえないかの瀬戸際の声でこう言った。
「抱き心地良さそうな彼女で良かったですね……と……」
「抱き……心地……」
そのフレーズで、先ほどまで樹さんとしていた行為のことを思い出してしまい、私は膝から崩れ落ちるしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます