第3話 信じられると、ようやく思えたのに…… その2
「いい部屋だね」
「そ、そうですか……?」
「君の匂いがして、落ち着く」
「……そ、そうですか……」
樹さんは、本当に表情を変えることがまれだった。
根本的に喜怒哀楽の感情を表情に出すことが苦手なのだと、最初の頃に教えてもらった。
だから樹さんは、どんな言葉も真顔で話す。例えそれが、少女漫画に出てくるキラキライケメンが発するような、砂を吐きたくなるような甘いセリフだったとしても。
「どうしたの?優花?」
「……威力に自覚がない人の無邪気な攻撃って怖いなと思いまして……」
「どういうこと?」
「いえ、何でもないです」
自分の顔面力と言葉が、どれだけ相手にダメージを与えるのか、樹さんに自覚は一切無いのも、受け取る側としては辛い。現在進行形、全身が熱くなっている。おかげで、せっかく新調した……といっても恥ずかしくてネットでぽちっただけの下着に汗が染み渡っていく。
私は樹さんをこの部屋にある1番値段が高いクッションに座らせてから、テレビのリモコンを渡した。
「樹さんはゆっくりしててください。テレビ自由に見てくれて良いですから」
「どこ行くの?」
「ちょ、ちょっと洗面所に」
「そうか、分かった」
普通、これだけでもドキドキものだ。でも、樹さんはそれをはるかに上回ってくる。急に引き寄せられたかと思うと、樹さんに頬キスされてしまった。
「早く戻ってきて」
「……善処します……」
急いで準備していた着替え用下着セットを持って、洗面所に逃げ込んだ。それから、用意したブラと下着のセットを見ながら、考え込んだ。
私は今日、無事でいられるのだろうか、と。
そもそもの始まりは、樹さんに告白されてお付き合いという、私の人生の辞書には存在しないだろうと思っていたことが始まってしまった川越の日から。
サプライズだらけだった食事後、自宅の最寄駅まで樹さんに送って貰った。
「自宅まで送る」
とも言われたが、それはさすがに、丁寧に、そして迅速にお断りした。
万が一部屋の中を見られたら、恥ずかしくて舌を噛み切る自信があったから。
ちなみに私が樹さんと、名前で呼ぶように頼まれたのは、この日の帰り道の電車の中。
あの食事の店から、ずっと私の手を繋いでいた樹さんから突然
「優花さんと、呼んでもいいですか?」
と尋ねられたのが最初。
「……こんな名前で宜しければ……どうぞ……」
私がそう言った時、樹さんの、私の手を握る力が強くなった。
自分の汗が、移るんじゃないかと気が気じゃなかった。
「俺のことも……」
「え?」
「名前で呼んでくれませんか?」
「……はい?」
何だ、このやり取りは。高校生が読む漫画雑誌の主人公カップルの、付き合いたてほやほやのシーンでよく見かけるやつではないか。
読んでいた当初は「甘酸っぱいなぁ」と人ごとのように思っていた。でも、いざ自分が40歳間近になってからその立場になってしまうとただただ熱い、という形容詞しか思いつかなかった。
「俺の名前、分かります?」
それはもう、自分でも何度も調べたので忘れようがなかった。
「樹……さん……ですよね……」
人前だったこと、身内でもない男性を名前で呼ぶということが、もう30年近くご無沙汰だった。そのため、ぼそりと、小声で言うのが精一杯だった。
「やばい……」
「え?」
「嬉しいものなんですね、好きな人に名前を呼んでもらえるのって」
そう言った樹さんの顔は、真っ赤になっていて、今までで1番口の端が上がっていた。
その時だった。また周りから、あの声が聞こえたのは。
「やばっ、あの人イケメンじゃない?」
「まぶい!超まぶい!」
「ねえ、横にいるの彼女じゃね?」
「えー嘘!全然釣り合わない!」
「ていうか、私の方がずっとお似合いじゃない?」
明らかに樹さんに対してであろう賛辞と、私への酷評。
川越を歩いている時から、これがずっと続いていた。
樹さんに聞こえたのだろうか?聞こえていたとしたら、どう思っただろうか?一緒にいるのが私なのが申し訳ない。そんなことを、私は条件反射で思ってしまった。
楽しい記憶で上書きされたはずのこの日の最後に、この出来事はしこりとして心の片隅には残ってしまっていた。
「次はこのカフェに行きません?」
「そうですね」
この場では、そんな風に、近い未来の話をするので精一杯だったが、我ながらよく耐えたとも思う。
ちなみに樹さんが私のことを「優花さん」ではなく「優花」と呼び捨てにするようになったのも、我が家でのデートの話が出てしまったのも、この電車の中で決めた、次のカフェデートの日だった。
このカフェデートの日に、私の頭がもしちゃんと働いていたら、呼び捨てはともかく、おうちデートはもう少し先延ばしにできたかもしれないと思うと、少々悔やまれる。
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