第1話 人生最後のデートだと思っていたのに その4
タワマンのエントランスに再び戻ってきたタイミングで、私は恐る恐る氷室さんに声をかけた。
「……すみません……いつまで手を……」
「あ……」
氷室さんは、今気が付いたらしかった。
「申し訳ありません」
氷室さんは、すぐに私の手を解放した。
「いっ、いいえ……それは良いんです……」
そんなことは、正直問題ではない。
「何で私……会場から連れ出されたんでしょうか?」
「あなたこそ、何故あんな場所にいたんですか?」
「……は?」
「私は、ここで休んでから家に帰るようにお伝えしたはずですが」
「あ、はい。それは言われました。けれど……」
「いいですか?あなたは今、熱中症の中等度の一歩手前なんですよ」
「中等度ですか?」
「病院搬送の一歩手前、ということです」
「私、そんなに悪い状態なんですか?」
「めまいと顔のほてり、体のだるさにお心あたりは?」
「え?」
確かにめまいはあった。しかしそれは、佐野さんからの精神的プレッシャーのせいだと思っていた。
「さらに、あなたのその汗のかき方」
「あ、汗?」
「さっきからあなたは、顔のあせをひっきりなしに拭いているが、その汗が引く様子はない」
「え!?」
「以上のことから、あなたは熱中症の中等度一歩手前の軽度状態であると推察いたしました」
「それで、私を連れ出した……と?」
「はい。あのままだと、救急車を呼ばなくてはいけない状態になると診断しました」
「そうだったんですね。ありがとうございます。少し休んだら戻ることにしますね。氷室さんは先に戻ってください」
私は氷室さんに、婚活会場に戻ることを促した。でなければ、佐野さんに後々自分が何をされるか……。
そして、私は急いで財布を取り出す。
「さっき、私の汗でスーツを汚した分のクリーニング代と飲み物代をお支払いします」
「結構です」
「そうは参りません。しっかりお支払いさせてください」
私は急いで1万円を取り出し、氷室さんに渡そうとした。
「森山さーん!」
エレベーターホールの方から、明らかに怒りが滲み出ている佐野さんの甲高い声が聞こえてくる。
まずい、本当にこの人を早く婚活会場に戻さないと。私の身が危ない。
「あ、あのぉ……私の……友達……がすっごい美人なんですけど、その……氷室さんのこと……すごく気になるって言ってて……だから会場に戻っていただければと……とても良いことが起こると思います……!」
「森山さん!?いるの!?いないの!?返事しなさい!」
まずい。超機嫌が悪い。
私は考えた。氷室さんと佐野さんが、せめてこの後連絡先でも交換してくれたら、一気に佐野さんのご機嫌が取れるかもしれない。
1万円を、無理矢理氷室さんの手に握らせながら、私は氷室さんに懇願する。
「どうぞ戻ってください!」
「戻るつもりはありません。このまま帰ります」
「ちょっと待って!」
「あと、この1万円はいただけません。お返しします」
氷室さんは、私が持っているバッグに1万円を突っ込む。
「それでは、お大事に……」
氷室さんは、夏の台風のような速度で去ろうとしていた。
え?やだ、どうしよう!
私は、氷室さんのスーツの裾をがっちり掴み、できる限りの小声で訴えた。
「お礼は、何としてもさせていただきます!お好きなもの、奢ります!だから!もう少しお時間ください!」
その時だった。高らかに響いてたヒールの音が、パタリと止んだのは。
「ちっ、あの森山……デブス……のくせに……!」
やっぱり佐野さん、私のこと嫌いだったんだな。
直接聞いちゃうのは辛い。何となくでも分かっていたとしても。
それから、またヒールの音が響き始めた。どんどん遠くなっていき、最後には消えた。
同時に、苦しそうな唸り声が聞こえ始めた。私の胸元あたりから。
「んっ……んんー!!!」
しまった!
エレベーターホールから、完全に死角になりそうな柱の裏に隠れた私は、氷室さんを道連れにしていたのだった。彼の口は私の手で塞がれていた。
「ご、ごめんなさい!こんな変なことして……。あ、今の人佐野さんっていう、私の仕事の同僚なんですけど、美人で男性からすっごく人気で……それで……」
取ってつけたようにフォローをしてみるが、これ以上は、どう取り繕ったとしても氷室さんの中で佐野さんへの印象が変わることはないだろう。
あの様子じゃあ、下手するともう今日中には私の悪評を広められるんだろうな。
契約書で縛られているから、その期限までの雇用は守ってもらえるだろうが、明日からのことを、家に帰ってじっくり考えなければならないだろうと、私は悟った。
「巻き込んでしまい、すみませんでした。とにかく、これは受け取ってください」
私は1万円を氷室さんに押し付け、逃げようとした。もう、こんな人とは2度と会えないかもしれない。いい思い出だと、割り切ろう。これ以上悪い思い出にはしたくない。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
私が立ち去ろうとしたその時、氷室さんに太すぎる手首を掴まれた。
「え?」
「言いましたよね、奢っていただける、と」
それから30分後。
そのまま、氷室さんが乗ってきたという車に乗せられて、私は今、隠れ家のような喫茶店にいる。そこは、テレビや雑誌で特集されていたのを、見たことがある程、有名なところ。目の前には、とても大きくて、見たこともないようなかき氷。真っ白な氷に、パステルカラーレインボー色のソースがかけられ、鞠のような丸いお菓子が散りばめられている。
か、可愛すぎんか?
つい、癖でスマホで撮影しようとしてふと気づいた。
自分は今、1人じゃないんだ、と。
ちらり、と顔を上げると、氷室さんが、こちらを無表情のままじっと見ていた。ちなみに、そんな氷室さんを、喫茶店にいる女性陣がチラチラと見ている。
「溶けますよ」
「え!?」
「かき氷、溶けてます」
「はい、そうですね……!」
私は、急いでスプーンでかき氷をすくって、口に放り込む。
冷たさが、体に沁みる。甘さがとっても優しい。体が、生き返るようだ。頭が痛くならない程度に、どんどん氷を口の中に入れていく。
いつの間にか、私のかき氷はあっという間にほとんどが水分になり、代わりに氷室さんの席には彼が頼んだパンケーキが置かれた。
私は、スープを飲むようにかき氷だったものを飲みながら、氷室さんに尋ねた。
「何で、こんなところに私を連れてきたんですか?」
氷室さんはパンケーキをそれはそれは美味しそうに咀嚼し終えてからこう言った。
「奢っていただけると、おっしゃったので」
「確かにそうは言いましたけど」
こんなオシャレなデートスポットに来る事になるなんて、思うはずがない。最初想像していたのは、せいぜいファミレスの定食くらいだ。
「森山さん」
「え!?どうして私の名前を?」
「失礼。森山さんというお名前ではなかったですか?」
「いえ、合ってますけど……何で……?」
「さっき、呼ばれていたので」
ああ、佐野さんか。
「森山さん。体はどうですか」
「もう大丈夫です」
「そうですか。良かった」
氷室さんのパンケーキの皿は、あっという間に空になっていた。
「助けていただいて、ありがとうございました。それから、忠告を守らずご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「助けられたのは俺の方です」
「え?」
氷室さんの口から、意外な言葉が飛び出した。
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