人欲-17

 景雪が予約してくれた店は、池袋の和食居酒屋の個室だった。


店は、わたしのレベルに合わせてくれたのかもしれない。考え過ぎだろうか。


景雪くらいの作家がいくらくらい稼いでいて、どれくらいの生活水準なのか皆目見当もつかない。



 わたしが先に着いてしまい、「ごめんね」と言いながらパーカー姿の景雪が入って来た。


気弱でひとがよさそうな顔のまま、年だけ重ねた。



 食べたいものが特にないのでコースにした。一杯目はお互い日本酒にした。



「ほのかちゃんとご飯なんてもう一生行けないと思ってた」



 そんなこと、わたしがいちばん思っていたことだ。



「ほのかちゃんっていま、何してるの?」



「IT企業で営業と企画やってる」



「へぇー。すごい。じゃあ日本の技術の先端に居るってことだね。ぼくも知らずにお世話になってたりして」



 景雪は、毒気のない人間だ。むかしからこう。純粋に感動ということができる。


わたしたちの間に小説さえなければ、わたしは景雪のこういう危うさに対し、庇護欲に満ちていたかもしれない。



「小説はもう、趣味でさえ書いていない。読んでもいない」



 訊かれる前に釘を刺した。



「そっか。残念だな。ぼくにとってあの掌編がすべての始まりだから」



 景雪が褒めれば褒めるほど、わたしの存在が小さくなっていく。



「だから、ほのかちゃんには感謝しかない」



 決して嫌味のつもりでは言っていないこともわかる。



「わたしは」



 この店は、暑いとか寒いとかうるさいとか一切感じない。無の空間。



「ずっとあんたが羨ましかったよ」



 積年の恨みを「羨ましい」なんてことばで片づけては、あの日死んだわたしが報われない。でも便宜上そう言うしかなかった。



「あんたが賞獲って、わたしは小説、もうやる気にならなかったから。景雪はいいな、すごいなって思ってた。だからあんたの小説読めてないんだ。ごめんね」



「気にしないで。謝らないでよ」



 景雪が本心でそう言ってくれていることがわかる。こいつはそういう人間。汚いところがない。だからしんどい。



「景雪は、誰かを羨ましいとか、憎いとか、思ったこと、ないの?」



「わからない、かな」



 この笑い方、知っている。



 どうして好きになれなかったんだろう。


どうしてこのひとを愛そう、わたしのものにしようと思えなかったんだろう。


そのほうがずっと楽だった。そうなったらもっと幸せな人生を歩めたはずだ。


でも、やっぱり、どうしても好きになれない。どこまでも小憎たらしい。



「順風満帆って言われてるひともさ、そのひとにはそのひとの重みを持って生きているから、羨ましいって純粋に思えることってないかなってぼくは思うんだよね」



 会って話せば自分の醜さを思い知らされるだけだとわかっていた。わかっていたからこそ、会おうと思ったんだった。



 恨むひとがいる人間は凄く生きやすいのかもしれない。前に誰も居ないと、どうやってその孤独に耐えるのだろう。



 見ていると、腹の底から憎しみしか生まれてこない。こんな思いをするくらいなら景雪になりたかった。



 友だちでさえいられなかったのは全部わたしのせいだ。



「景雪、パートナーは居るの?」



「いないよ」



 景雪の皮膚の下は何色だろう。わかりきったことを考えている。



 わたしの欠けているところは、景雪と体を重ねればなくなるだろうか。いや絶対それはない。もしそうなのだとしたら一生埋まらなくていい。



 経験人数は? とか好きなタイプは? とか結婚は? とかいつもわたしが苦しめられてきた質問が頭の中に浮かぶ。やっぱりどれも口にする気になれなかった。


友だちならまだしも、景雪はわたしの友だちではない。これからも友だちになることはないだろう。



「ほのかちゃんは?」



「わたしは居るんだけど、ちょっと喧嘩中っていうか」



「そうなんだ」



 泡のように柔らかく笑った。



「自分が結婚するとか、親になるとか、そういうの考えられないんだよねぇ」



 しっかりと両目で景雪を見る。申し訳なさそうな、だけどどこか澄んだ顔で笑った。



「自分がどういうひとを好きなのかっていうのも実はいまいちよくわからないし」



 なぜあの頃は景雪と一緒に居てしんどくなかったのかわかった。


こいつは誰かがつくった「男」とか「女」とかそういう尺度で接してこなかったからだ。



「そうだよね。それはちょっとわかる」



「ぼくは、別に恋愛しなくても生きていけるかなーって思うんだけどやっぱ、恋愛してないと人間じゃないみたいな風潮ってあるよね」



 わたしは、そんな景雪の分まで想像できなかった。



「それも、わかる」



 思わず泣きそうになった。



「ぼくは、誰かが居なくても生きて行けたし、これからも生きていくと思う」



 わたしはずっと誰かを求めていたのに。



 やっぱり景雪には勝てそうにない。いや、勝ち負けじゃない。わたしたちは同じ世界に居なかった。



「パートナーは? って訊いてくれたのちょっと嬉しかったかも。彼女は? とか奥さんは? って言われるの、いつもちょっとしんどいんだよね」



「そりゃ、みんながみんな異性が好きなわけじゃないし」



 わたしがそう言うと景雪が子どものように笑った。



「ほのかちゃんのそういうところ、かっこよくて好きなんだよな」



 そんな優しい感性でわたしのことを認めないで欲しかった。



 景雪はずっと景雪のままなのに。



 彼はあんまり自分の生活の話をしなかった。小説のことを話さなかった。気を遣ってくれたのだと思う。



 わたしのことをたくさん訊いてきた。わたしが話せたのは仕事のことばかりで、自分の内面のことはひとつも話せなかった。



 いいやつ過ぎて、やっぱり全然好きになれなかった。



 予約していた二時間はわりとあっという間に過ぎてしまって、料理がどんな形をしていて何色だったかとかあまり覚えていない。サーモンの味だけは舌に残っている。



 店を出て一緒に駅まで向かった。わたしはJRで、景雪は地下鉄らしい。



「景雪」



 ひととひとが恐ろしい速度で行き交う駅で、おそらく今生の別れとなる挨拶をしんみりとしている暇はなかった。



「元気で長生きしてね」



 わたしがそう言うと、和紙のシワのように柔らかく笑った。



「うん、ありがとう」



 景雪がこのことばを好意的に受け止めただろう。わたしはまた自分の弱さのために景雪を利用しようとしているだけだ。


景雪に死なれては困る。これからも、どんどん成功して、わたしを苦しめてほしい。吐き気を催させてほしい。


景雪が死んだらもう、気持ちよく恨んだり憎んだりすることができない。だから、がんばって欲しい。



 改札を通ったわたしは振り向かなかった。人波に乗って山手線まで流れ着いた。



「景雪が居なかったら」という人生は、わたしにはない。景雪と出会ってしまった。


わたしは同じフィールドに立ち、景雪がつくった壁を越える努力をしなかった。


わたしは景雪になれない。選ばなかったほうの人生を思うよりも、選んだほうの人生を見つめる義務がある。


これからも何か都合が悪くなったらまた景雪のせいにするだろう。そうまでして、しぶとく生きたい理由がある。



 電車の中でアイに「会いたい」と送ったメッセージを送った。きのう送った「会いたい」も既読がついているものの、応答はなかった。

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