人欲-9
週末は実家に帰り、特に何もせず寝て過ごした。それでもたまには帰って来いという両親は奇特だと思う。
わたしは大学生のときに自分がレズビアンなんだと思うと親に言った。ウチの両親は「理解のある親」になろうと努めてくれているようだが、結局七歳下の大学生の弟の悠人に期待を全振りしただけだった。
正真正銘のレズビアンだとわかったが、わたしの性的指向について両親にもうこれ以上話すのはやめた。
夕飯を食べながら「お姉ちゃんはもう生きているだけでいい」という謎のことを言われた。
親も親で、景雪に負けたわたしのことを案じているのかもしれないが、それに関しては悲しみよりも恨みのほうが深いなんて知ったら、我が子の浅ましい考えに嘆き悲しむだろう。
そのまま月曜日も実家で仕事をしようと思ったが、新しい企画の意見交換会は顔を合わせて行ったほうがいいという課長の声で会社の会議室で面と向かって行うことになった。
渋々日曜の夜に帰宅し、月曜は出社した。
今回の参加者は営業一課のメンバーだけなので7名。きょうはただのアイディア出しだから気分が楽だ。
新しいことを始めるというのは気分が上がる。取引先でもないのに本高が震えているのが分かった。だけど、彼の出すアイディアは悪くないと思う。
たとえば病院と患者のマッチングアプリ。ホームページの無い小さい規模の病院に登録を促し、利用はすべて無料。広告収入で利益を得るモデルなど。粗削りだがブラッシュアップすればいいものになりそうなものはいくつかあった。
会議を終えてオフィスに入るとなんだか空気が重かった。総務は女性3名だ。40代の蒲池さん、わたしの同期の前沢、2年目の加瀬さん。20席ほどあるオフィスの左側の隅に三人固まっている。彼女たちはフリーアドレスではなく固定の席だ。
前沢はわたしの顔を見るなり「松倉さん、ウェビナーの動画観ましたか?」と強い口調で叫ぶように訊いてきた。
「あ、はい。観ました」
「テストの結果送られてきてないんですけど」
動画は観た。動画を観て嫌気が差してテストを受けていないことをすっかり忘れていた。
「すみません。後でやりますね」
「お忙しいのはわかるんですけど。よろしくお願いします」
新人研修のときからそうだが、前沢はひとの気分を落とす天才だ。話すだけで気が滅入る。そのままオフィスで仕事をしようと思ったが、このまま帰宅して家で続きをすることにした。
スマホから会社の共有カレンダーを操作し、「松倉 14時から自宅勤務」と入力した。
席に座り、ノートパソコンに向き合っていた本高の真横に立った。
「わたしこれから帰って家で仕事するね」
「あ、はい」
わたしが「お疲れ様です」と言いながらオフィスを出ると、本高が追いかけてきた。
「なに」
「オフィスの空気やばいっすね」
彼が顔を真っ青にしながら言うので「空気清浄機壊れてるんじゃないの?」と鼻で笑った。
「またまた、ご冗談を」
エレベーターホールで下行のボタンを押した。
「本高くんも帰れば?」
「そうしようかなぁ、はあ」
「ウチの総務は大変だよね。在宅勤務が許可されててもなんやかんや出社しないといけない理由があってさ。営業は逃げれるんだから」
「逃げるだなんて」
エレベーターが来ても本高がオフィスに帰る気配がなく、昼食時だったということもありそのまま定食屋に連れて行った。
本高はアジフライ定食、わたしはサバの塩焼き定食にした。
「前は在宅勤務の環境がいまほど整ってなくてほとんどのひとが出社してたからもっと前沢もピリピリしてたよね」
「そうですねぇ」
「何ピリついてるんだろ。謎」
「でも、松倉さんが取り合ってくれてぼく嬉しいです。ほかの先輩はきいてくれないですから」
「前も話したけど研修のときから仲が悪かったから。お互いもう5年目か。そんなに不満があるなら転職すればいいと思うけどきっとどこに行っても不満が出るようなタイプだからさ、もうそういうひとは起業するしかないよね」
「やっぱ仕事できるひとは言うことが違いますね」
それは違う。わたしは、自分の欠陥を自覚して生きてきたからだ。
「松倉さんって女性っぽいネチっこさがないですよね」
女性っぽいネチっこさとはなんだ。言わんとしていることはわかる。だけど、わたしが可愛がっている本高にはこういうわけのわからない形容はしないで欲しかった。
「まあ、陰険・陰湿なのは性格であって男にもいるよね。樫木とか」
わたしはつくづく同期に恵まれなかった。
「前沢さんは松倉さんが羨ましいんだと思います。同期でバリバリ業績上げてるから」
「まあ、わたしは総務の仕事できないよ。マメさがないし。適材適所っていうか、わたしに営業が向いているかはさておき、総務には向いてない。でも、そういう自分を肯定できないひとがいるっていうのもわかるよ」
えらそうに講釈垂れているが、まるで自分に言い聞かせているようだ。
「ぼくも、松倉さんを見習います」
そんなに目を爛々と輝かせないでほしい。わたしはそんな大層な人間じゃない。
景雪という仮想敵のような存在が居なければずっと頑張って来られなかった。
いつまでも何かが埋まらない。欠けている。だから、他人の、女性の体が必要で、欠乏感が発生したら誰かの温度を必死で求める。
わたしの欠けた部分なんて一生、埋まらないかもしれない。少しだけ茫然として、なかば諦めながら生きている。
誰かが思うほどいい人間ではない。でも、褒められることは慰められること、孤独から癒してくれることだ。
ときには自分以外の誰かの価値観で讃えられたいことが、わたしにもある。そんな自分の弱さを憎みきれない。
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