4 お姫様のお守り
かしゃん、と儚い音を立てて、陶器のカップが割れる。
キッチンで洗い物をしていたらしい新が、呆然とこちらを見つめてきた。
「……瞳子さん」
「ただいま、しんちゃん。不躾な現れ方でごめんなさいね」
瞳子はそう言ってハイヒールのパンプスを脱ぐと、割れたカップの破片にもかまわず新に駆け寄ってその頬にキスをした。新はくすぐったそうに笑うと、瞳子の背を引き寄せる。
七々子はその様を顔を顰めて見やってから、自分もローファーを脱ぐ。夫婦仲がいいのは結構だが、その様を娘の前で披露しなくてもいいだろうというのが七々子の考えだ。
しかし、ここは新のためにぐっと押し黙り、ふたりが二、三言葉を交わすのをダイニングチェアに腰掛けて待つ。
瞳子がこちらを振り返るのを見とめるやいなや、七々子は「説明して」と声を尖らせた。
「単刀直入に言うわ。あなたにローグハイン魔法学校に編入してもらいたいと思ってる」
「ローグハイン?」
ローグハイン魔法学校といえば、西洋の島国、魔術大国ユルグにある魔法学校だ。世界的にも名高い魔法学校で、魔術師のなかでも最も毛並みのよい類の魔術師にしか通えない。
あまりに唐突な申し出だったが、それで七々子はぴんときた。
「……ヴァルフィアの石板絡みね」
「察しのいいこと」
微塵もそんな風には思っていないだろうに、瞳子はチェシャ猫のように笑う。
先日盗難にあったというヴァルフィアの石板は、件のユルグの魔術遺産だ。
石板にはただ、古代ユルグ語で「六六六の贄を捧げ、扉をひらけ」と彫刻されている。
ヴァルフィアの石板を物したのは、古代に排外主義を唱えた大魔術師だ。六六六の贄とは、非魔術師六六六人の生贄、という意味だと解読されている。『扉』には非魔術師を滅ぼす強力な大魔術が封じられていると言い伝えられているが、現代では表向きにはその封じられた魔術を解放することは不可能だ、とされている。
しかし、喪われた古代ユルグ魔法の承継者であれば、その封印を解放することができるというのが魔法界における公然の秘密だった。
そしてローグハイン魔法学校には現在、その古代ユルグ魔法の承継者がいる。
「——ユーリス・オズマリオン?」
七々子が口にした名に、瞳子は御名答と言わんばかりに目を細めた。
「あなたにやってもらいたいのは、そのオズマリオンのお姫様のお守りよ」
「お姫様?」
たしかユーリスは名門オズマリオン家の嫡男だった気がするが、思いちがいだろうか。
「あの子、色々な悪い組織から狙われているの。昔から、悪漢に狙われるのは可憐なお姫様と相場が決まっているでしょう?」
瞳子の芝居がかった口ぶりに辟易としつつも、七々子はさもありなんとちいさく頷く。
魔術師は、古来より戦争や政争の道具にされてきた。ユーリスほどの素質を持つ魔術師——それも扱いやすいまだ十代の子どもとあれば、犯罪組織に国家、宗教、エトセトラ。彼を狙う人間は枚挙に暇がないだろう。
「……だからといって、なんで私なの?」
「あら、これは索敵や諜報に長けたあなた向きの仕事よ。魔法界に七々子の名を売る絶好の機会と言ってもいいくらい」
魔法界で名声を得ることに興味がない七々子は鼻白んだが、瞳子は構わず続ける。
「まだ尻尾は掴めていないけれど、石板を盗んだのは第六時の塔の可能性があるの」
瞳子の言葉に、七々子は弾かれたように顔を上げる。
「魔力の痕跡は綺麗に消し去られていたのだけど、非魔術師仕様の防犯カメラにばっちり第六時の塔構成員の顔が映っていたの。お馬鹿さんよね」
「じゃあ、さっきその——あの人が帀目に現れたのも、石板となにか関係があるの?」
「そこまでは分からないけれど、百鬼宵はおそらくこの事件の首謀者のひとりよ」
七々子が濁した名前をあっさりと口にして、瞳子はタブレットを起動する。
機構のアプリを立ち上げると、帀目の地図がテーブルの上に立体的に浮かび上がった。兜京都内で点滅していた百鬼らしき魔力反応が、たった今忽然と消失する。その横に記されたデータには、『魔術遺産盗難一件、八尺瓊勾玉。負傷者多数、死者二名』との報告が早くも書き加えられた。
瞳子は忌々しげにその文字列を指でなぞる。八尺瓊勾玉の首飾りは魔力増幅の効果をもつ魔術師にとっての秘宝だ。
「第六時の塔の潜伏先潰しに、各地の魔術遺産の警戒レベルの引き上げ、主要な都市のテロ対策。機構だけでなく連盟も動いているけれど、人手が足りないの」
機構の人手不足は今に始まったことではないが、それだけで七々子に白羽の矢が立つとは思えない。七々子の疑問を引きとって、瞳子は続ける。
「ローグハインの石頭――失礼、学校関係者たちは、他組織による学校への介入を突っぱねたの。おかげで現状、お姫様を守るために機構にできることといえば、学校の敷地外から非常線を張るくらい。いくらローグハインが堅牢な魔術要塞といえど、心許ないわ」
なるほどそのような状況下でも、一生徒であれば学校内を自由にうろつける。だから学生であり、機構の幹部の娘である七々子が選ばれたというわけか。
「でも、ローグハインだって馬鹿じゃない。今私が編入するなんて言ったら、機構のスパイだって分かりそうなものだけど」
「ええ。でも、七々子は十歳のときにローグハインの入学許可証が届いているでしょ」
たしかにそうだ。魔法学校の雄たるローグハインからの招待に幼い七々子は浮かれたが、結局帀目を離れたくなくて、当時は天原魔法学校への入学を選んだのだった。
「魔法学校は重大な校則破りや魔術犯罪でも犯さないかぎり、一度許可証を送った生徒の入学の意志は拒めないのよ。一種の魔法契約ね。それにあなた、秘術の使い手だもの」
体系化され、魔法学校で教えられているような魔法学一般とちがい、式神召喚術は帀目の魔術師がその理論を隠匿している、いわゆる秘術に分類される魔術だ。
式神術に限らず、門外不出の秘術とされた魔術は世界各地にある。
分かりやすいところで言うと、魔剣の使い手がいい例だ。魔剣はたいてい、その剣が認めた血の継承者にしか自身を扱わせたがらない。だが、それ以外の魔術師にはまったく扱えないというわけではなく、しばしば剣を巡って正統な持ち主とそうでない者との間に血で血を洗う争いが起こっていた。だから、魔剣の継承者である血統の魔術師は、魔剣の存在をひた隠しにしていることも多い。
魔法学校は秘術の門戸開放を求め、秘術の継承者たる人材を積極的に募っていた。
ローグハインの教師クラスの優れた魔術師に七々子のまだ未熟な式神召喚術を見られようものなら、おそらくその方法論は少なからず露見してしまう。
瞳子は以前から、式神術の情報開示は大いにすればよいという立場だった。だが、国内の他の魔術師たちからの反発が根強いこともあって、彼らの意向を尊重していたのだ。
「勝手をしたら、
「ヴァルフィアの石板の扉がひらくよりはましだわ。黴臭い説教はママが請け負ってあげるから、あなたに害は及ばないわよ」
瞳子はなんてことのない様子で言って、七々子を見つめた。
「で、七々子はどうするの?」
七々子がどう答えるか知っていて、尋ねてくるのだから性質が悪い。
「行くわ。行かない理由がない」
「そ。――百鬼宵が直接的に関わってくるかは分からないわよ」
「べつにいい」
七々子の返答に満足したように、瞳子はなにやら手紙を取りだす。封蝋には、大鴉と絡み合った渦巻文様が刻印されていた。ローグハインの校章だ。
しかし、双方納得した七々子と瞳子の傍らで、新が「待って」と声を上げた。
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