後輩は、先輩を落としたい

 「ちょっと、早すぎたかな」


 時刻は午前8時過ぎ、僕は予定の時間より一時間ほど早く待ち合わせ場所のある駅に来ていた。そこは、自宅の最寄駅から三駅ほど行った場所にある。僕が住む場所よりも少し発展したそこは、人も多く目が回る。同じ県でもこんなに違うのかと、ここに来るたび思うものだ。


 改札を抜けて、やけに賑わう有名な喫茶店を横切る。ここのすぐ近くにもう一軒チェーン店の喫茶店があるのだが、そちらと比べると人の数が尋常ではない。どうしてみんな、こちらの方に集まるのだろう。あっちの方が人も少ないし、価格もリーズナブルなのに。コーヒーややたら名前の長いカロリーお化けの味がよく分からない僕からしてみると、少し不思議だった。


 きょろきょろしながら、見慣れない物が立ち並ぶ駅を歩く。外に出ると、春らしい暖かさがゆったりと漂ってくる。天気も空気を読んで、雲一つない晴れ空だ。確かドラッグストアがある所らへんで待ち合わせとのことだったので、そこに向かう。


 「……あれ?」


 待ち合わせ場所に着くと、そこには先客がいた。日除けのため傘を差した、小さな女の子。白いブラウスの上に茶色いニットを着ていて、下はひらひらとした黒いスカートだ。普段は制服しか見たことが無いので即座に分からなかったが、霞だった。


 「霞! どうしたの、こんな早くに!」


 「あれ……先輩? 本物の先輩、ですか?」


 「本物だよ! ほら、日陰に行かないと、気分悪くしちゃうって」


 「あぁ……本物だぁ」


 霞は嬉しそうにしながら、僕の手を握った。しかも、指と指を絡める恋人つなぎだ。僕の頬が赤くなっていくが、代わりとしてにぎにぎと僕の手を楽しむ霞が、大輪のような笑顔を見せた。一体、いつからここに居たのだろう。もう少し早く来るべきだった。


 「今日は、私だけの先輩です。だから、こうしてても良いですか?」


 「い、良いよ。うん、全然」


 霞のこの顔を見て断れるものか。その表情だけでお金が稼げそうだ。それほどまでに、今日の霞は綺麗である。普段はしていない薄いメイクをしていて、その肌の白さが際立っている。その小さな体格も、庇護欲を大いにそそってとても愛らしい。端的に言ってしまえば、ハチャメチャに可愛い。


 「その服、似合ってる。制服じゃない霞を見るのは初めてだから、つい見惚れちゃったよ」


 「そう……ですか。もっと、見ていいですよ? それで存分に惚れちゃってください。誰も、眼に入らないくらいに」


 霞はそう言って、バス停の方に僕を連れて行った。それより、これは一体どういう状況なのだろう。僕としては友達として、霞と遊びに行くつもりだったのだが、これではまるでデートのようだ。これ見よがしに恋人つなぎまでしているし、霞はとても幸せそうだ。傍から見れば、初々しいカップルに見えることだろう。


 「ねぇ、どうして手をつなぐの? 子ども扱いされるのは嫌じゃなかった?」


 「先輩は、私と恋人つなぎしたくないんですか?」


 「したいです」


 「ふふっ……だったら、良いじゃないですか。絶対に放しちゃ駄目ですよ?」


 しまった、断るつもりだったのに肯定してしまった。何だか霞と手を絡めていると、不思議な感覚になるのだ。どこか、安心するような気持ち。小さい時、眠れない僕の手を握ってくれた母のような、そんな安心感があった。


 ずっと握っていたくなる。ずっと昔から、こうしていたような気までしてきた。霞と手を合わせることはこれが初めてのはずなのに、当たり前のように手が馴染む。僕たちはそのまま、バスが来るまでその手を繋いだままだった。


---------


 「先輩……! これ凄いですね……!」


 「ほんとだ、めちゃくちゃデカいね」


 数十分ほどで、僕たちは目的の美術館に到着した。もちろん、その間もずっと手をつないだままだった。休日だが、開館直後の美術館は人が少なく、どこか浮世離れしていた。まず、始めの展示室に入ると球体上の大きな展示物が僕たちを迎え入れた。デカい、それしか感想が出てこなかった。


 「霞は、こういう所に良く来るの?」


 「はい、両親に連れられて良く来ました。ここなら、私でも楽しめるだろうって、年パスを買った時もあったぐらいです」


 僕には芸術とか美術とかの趣が分かるほど、感性が優れていない。けれど、解説を読みながら楽しそうにする霞が綺麗だと言うことは分かる。彼女に手を引かれるまま、様々な展示室を回る。不思議な映像が何度も映し出されていたり、少し不気味な絵がだだっ広い部屋に一枚だけ飾られていたり……僕だけでは漠然と見ていただろうその作品たちも、霞の解説があってその意図を理解できた。


 しかし、どちらかというと僕は、少し早口になりながら解説をする霞を鑑賞していた。彼女の解説は分かりやすく、とても興味を引くがそのどれも霞の魅力には敵わない。たとえ美術の教科書に載っているような名画があったとしても、僕の注意はそれを眺める霞に注がれることだろう。


 「僕には敷居が高いかなって思ってたんだけど、霞のおかげで楽しめたよ。今日は誘ってくれてありがとね」


 「いえ、少しでも楽しんでもらえたなら、私は嬉しいですよ。今日は思う存分、ここを満喫しましょう」


 それから、僕たちは昼まで開催されている展示を手当たり次第に見るのだった。絵や不思議な作品を鑑賞しているだけだったのに、今まで全く時間を感じなかった。僕は完全に、この美術館デートを楽しんでいた。


 昼頃になると、美術館に併設されたカフェで昼食を取ることにした。テラスから見える景色も、摩訶不思議なオブジェや建物自体の構造のおかげで目を楽しませる。人も多すぎず、爽やかな風が吹き抜ける席は、ゆったりとするのにちょうどいい。ここに入らない限り、来ることは無かったので何だかラッキーな気分になった。


 ただ、値段は少し高すぎだ。確かに美味いが、サンドイッチセットで1000円はぼったくりだろう。そんな無粋な考えをしつつ、食事を済ませて僕たちはゆったりと話し始めた。


 「この展示は、先輩と一緒に見に来たかったんです。私が大好きな企画展だったので」


 「そうなんだ……本当に僕で良かったの?」


 「先輩が良かったんです。だって、私の……初めての友達、ですもんね」


 にっこりと笑う霞は、しかしどこか悲しげだった。僕には、その理由が分からない。どうして、そんな顔をするのだろう。その顔は、まるであの日の彼女のようだった。


 彼女とは、白芽のことである。まだ、僕と白芽がそれほど親しくなかった頃、彼女は今の霞のような顔をしていた。笑っているのに、何故か悲し気なその表情。僕にはその時も、どうして白芽がそんな風にしているのか分からなかった。


 けれど、意味はあった。白芽はちょうどその頃、僕の知らない所でいじめを受け始めていたのだ。僕は、そんなことも知らずに外で遊んでいた。白芽とは友達だったのに、すぐに気付けなかった。


 僕がそれを理解したのは、白芽が話してくれたからだ。日に日に曇っていく白芽に、どうしてそんな顔をするのか聞いた僕に、白芽は泣きながら言った。


 「毎日苦しくて、学校に行きたくない……! どうしてみんな、私に酷い事するの? 私悪いことしてないのに、なんで……!」


 僕はずっとそれを後悔している。僕がもっと早く気付けたのなら、いじめがあそこまで発展しなかったかもしれない。もっと違う結果になったかもしれない。それと共に、幼い白芽がそんな風になるまで放置してしまった能天気な僕が、一番嫌だった。


 分からない。僕にはどうして霞も、あの時の白芽のような顔をするのか分からない。だが、そこには必ず意図があるのだ。その原因は僕かもしれないし、何か別の理由があるかもしれない。僕はもう、二度とあんな過ちを犯したくない。


 「あの、さ。昨日、朝会った時に嫌そうな顔したでしょ? 僕、何かしちゃった?」


 「え……? あ、あぁ……あれはその、何でもないんです。ただ、ちょっと嫌なことがあっただけで……」


 誠一は分かっているようだったが、未だに僕にはその理由が定かではない。ただ、不明であるからと言ってそれを知ろうとしないのは違う。もし、僕のせいでそんな顔をさせてしまったのなら、早急に解決しなければならないだろう。僕は少し緊張しながら、その理由を尋ねた。


 「その、嫌な事って?」


 「えっ……と。ほんと、大したことじゃないんです。先輩を不快にしてしまったなら、謝ります。だから、この話はもう辞めませんか?」


 「大事な事なんだ。僕が原因なら、もっとね」


 俯いて、霞は何も言わなくなってしまった。多分、それは僕に関係することなのだろう。霞は優しい子だ。僕の体調をいつも気にかけてくれるし、怪我をすると本気で心配してくれる。今回も、それが原因で僕が傷つかないように、配慮してくれているのだろう。


 いつもそうだ。霞は何も悪くないのに、その行動を制限される。日射病のせいで、子供のころから外へ満足に外出すら出来なかった。吸血鬼というだけで、その強すぎる力を必死で抑え込まなくてはならない。霞は生まれたときから、自由を奪われている。


 僕は霞の手を両手で包み込んだ。今日ずっと繋いでいた手は、軽く震えている。もう、霞が我慢しなくていいように。僕は少し、一歩を踏み出した。


 「大丈夫だよ。僕は霞がどんなことを思っていても、嫌いになんてならない。霞が二度と寂しく無いように、ずっと友達だから」


 「ずっと、友達……」


 霞はしばらく何も言わないでいた。僕もまた、霞の決心がつくまで手を握っていた。しばらくの沈黙の後、霞は顔をあげてしっかりと僕を見た。


 「先輩、少し場所を変えて良いですか?」


 「うん、良いよ」


 「ありがとうございます、行きましょう」


 その手を繋いだまま、僕たちは美術館を出た。僕が一歩踏み出したように、霞も決心してくれたのだろう。黙って霞に手を引かれていると、公園が見えてきた。休日だと言うのに子供もおらず、遊具も錆びれている、そんな公園だった。


 「あの美術館へ行った帰り道、この公園がいつも見えたんです。その時の私は、今ほど体が丈夫では無かったので外で遊ぶなんて出来ませんでした。でも、車の窓から見えるこの公園で遊ぶのがずっと夢だったんです」


 少しづつ、霞が話し始めた。それは、霞の普段閉じ込めている本音。僕はそこに踏み込んだのだった。


 「その夢は叶いませんでした。小学校も通えなくて、ずっと病院で外を眺める毎日。それでも、私は平気でした。だって、私の体は皆を救うためにあるって、親もお医者さんも、そう言ってたから」


 風で揺らいで軋むブランコに、霞は座った。僕はその前に立って、彼女の独白に耳を傾け続ける。僕には、それくらいしか出来ない。


 「だけど、そんなことありませんでした。私の血は、体液は人を傷つける。救うどころか、殺してしまうようなものなんですから。お医者さんが、裏で私を悪魔の子だって言ったのを聞いた時は、胸が張り裂けそうでした」


 聞くだけでも辛くなってくる。今までやんわりとしか知らなかった霞の過去は、僕などとは比べ物にならないくらいに悲惨だった。


 「それくらいの時に、先輩と出会ったんです。吸血鬼だって隠して先輩と話す毎日。その時間は楽しくて、悪魔の子だってこと忘れられました。でも、ずっと辛かったんです。先輩を騙し続けるのが」


 「霞……」


 騙されたなんて思ってない。周りが何と言っても僕たちの関係は変わらないし、僕だって霞との会話は楽しかった。だから、そんな顔をしないでくれ。


 「先輩は私が吸血鬼だって分かっても、私のせいで傷ついても、変わらず優しかったです。あの日、私は先輩に救われました」


 「僕はそんな大層な事、してないよ」


 それは僕の本心だった。僕があの時したことは、ただの身勝手な偽善だ。あんな形で霞とお別れしたくなくて、殆ど脅すようなやり方で迫っただけだ。あれは優しさなんかじゃない。


 「それでも、私は確かに救われました。あの日から、先輩は私の神様だったんです」


 霞はそう言うと、静かに立った。緩慢な動きで僕に近づくと、そのまま抱き着いてきた。霞の体温が感じられて、心臓の音が聞こえそうなほどぴっちりくっつく。情けないことに、僕は驚いて固まっていた。


 「霞……これ、は」


 「昨日、なんであんな顔をしたのか、でしたね。教えてあげますよ」


 背中から回された手が、僕の肩に載せられる。その小さな手からは考えられないほどの力で、僕は強制的に霞と同じ高さまで屈まされた。そうして、確かにこう言った。


 「先輩の全身から……白芽さんの臭いがプンプンしたからです。私の先輩かみさまなのに、先輩の臭いが分からないくらいこびりついてました。そんなの、許せるわけないじゃないですか」


 目と鼻の先に、霞がいる。その眼は、黒く濁っていた。僕はまた、何かを間違えたのだろうか。


--------


 「先輩が私をただの後輩、ただの友達だって思ってるのは知ってます。けど、私はそれじゃ満足できません。私は、先輩がいないと駄目なんです」


 「霞……駄目だ!」


 心の底に沈殿していた感情が溢れ出てきます。最初に踏み込んだのは先輩です。だからもう、我慢なんてしなくて良いですよね?


 「先輩、大好きです。あなたがいないと、私は生きていけません。私の、私だけの先輩になってください」


 あぁ、言ってしまいました。もう、前のような関係には戻れません。ですが、これで良いのです。私はもう、先輩が汚されるのを黙っていられません。先輩が眠ってる間に、一人でその暗い感情を慰めるのも嫌です。


 どんな結果になろうと、私は止まりません。先輩がいない人生に意味は無いです。先輩がいない毎日に価値は無いです。先輩がいない時間は空虚で無駄でしか無いです。


 先輩の血を飲みたい、その首から血を啜りたい。眠っている先輩の血の香りや、こぼれ出た僅かな血液を染みこませたものじゃない、本物を。あの日、気絶した先輩から流れ出る血液のような、本物の血が欲しいのです。あの日は舐めただけで我慢できたけど、今はそれを一滴残らず飲み干したいのです。


 私はその首筋に口を開きながら、少しづつ近づいていきます。もう少しで、先輩の血が飲める。私の愛を受け取ってくれる。もう、あの女だけの先輩じゃなくなるのです。


 なのに……なのになのに、私の愛が先輩に届くことはありませんでした。先輩が、私の吸血を拒んだからです。一気にどす黒い感情が湧いてきます。なんで、なんでなんでなんでなんで……私を愛してくれないの?


 「ごめん、霞。僕に、それを受ける資格は無いんだ」


 その言葉を聞いた瞬間に、私の理性は飛びました。もう、絶対に逃がしません。大好きな先輩。私だけの、先輩。先輩を私色で染めて、私の眷属かみさまにするのだ。後戻りはしません。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る