一 : 絡み合う思惑(6)-命の重さ軽さ

 本願寺を包囲するように砦を築いたもののあまり効果が無いと判断した信長は、方針を転換。補給路となる水路の守口である楼の岸・木津の両砦に照準を定め、それに伴って配置換えを指示した。

 森河内を持ち場としていた明智勢は天王寺に変更となり、その対応に追われた。

「……やれやれ、上様は本当に人遣いが荒い」

「これ、弥平次やへいじ。滅多な事を申すでない」

 不満を漏らしたことをたしなめられた“弥平次”と呼ばれた男だったが、まだ不服そうな顔を浮かべている。

「殿。この際だから申し上げますが、殿はいつも貧乏くじばかり引いておられます。此度も砦攻めではなく後詰めとは……」

「致し方あるまい。此度の本願寺攻めの大将は備中守(直政の官名)殿、功名を立てる絶好の機会を他人に譲りたくあるまい」

 達観したような口振りに、弥平次は不満顔を隠そうともしない。

 明智“十兵衛”光秀、快進撃を続ける織田家を支える重臣の一人だ。

 今でこそ近江坂本に城を構える大名ではあるが、その道のりは平坦ではなかった。明智家は清和源氏の土岐家の血を受け継ぐ由緒ある家柄で、当初は斎藤道三に仕えていた。しかし、弘治二年(一五五六年)四月に道三と道三の子・義龍との間で争った長良川の戦いで道三方に味方したが、敗北。居城明智城も義龍方に攻め落とされ、一族は離散する憂き目に遭った。光秀は流浪の末に越前朝倉家に仕官したが、家柄が重視される方針だった為に冷遇されていた。連歌会を催す際、酒宴を開く程の余裕が無かった為に妻の煕子ひろこが自らの髪を売って金を工面した逸話が残されている。

 そんな生活に転機が訪れたのは、永禄九年(一五六六年)九月。越前に落ち延びてきた足利義昭の世話役に抜擢……正確には扱いに困る厄介者の世話役を押し付けられたのだが、義昭は光秀の能力を高く評価して次第に自らの家臣のように接するようになった。

 朝倉家に寄寓きぐうしていた義昭だが、朝倉義景に上洛の意思が無く、このままでは将軍になれないことを危惧して別の大名へ移ることを考え始める。光秀の叔母は信長の正室・帰蝶の母・小見おみの方だったことから、その縁を頼って織田家との仲介役を名乗り出て、織田家の受け入れをまとめる働きをした。義昭が朝倉家から織田家に移る際に光秀は朝倉家の家臣から幕臣に転身し、義昭と共に美濃へ移った後は織田家から禄を頂くこととなる。

 永禄十一年の上洛戦にも帯同、翌永禄十二年(一五六九年)一月に三好三人衆の軍勢が義昭の宿所である本圀寺ほんこくじを襲撃した際には光秀も幕臣の一人として奮闘した。同年四月には木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)や丹羽長秀などと共に京の政務を任され、織田家と足利将軍家・朝廷の橋渡し役として働くこととなる。

 元亀元年の金ヶ崎の戦いでは木下藤吉郎や池田勝正と共に殿しんがりを務め、比叡山焼き討ちでも主力として働くなど、武人として実績を重ねた。その功績を評価した信長は、延暦寺焼き討ちの後に近江志賀郡五万石が光秀に与えられた。他の家臣で大名となった者は他におらず、光秀は織田家で第一号の国持ち大名となった。

 近年は設楽原の戦いや越前の一向一揆討伐に参陣。天正三年には丹波攻めを任されたが山国特有の地形や戦法に苦戦を強いられ、今年一月には波多野秀治の裏切りに遭い大敗を喫した。今回本願寺が再挙兵した事に伴い、応援という形で赴いた次第だ。

 光秀は有職故実にも詳しく内政にも明るく、文武両道の有能な人物だった。その為に何かと便利遣いされる機会も多く、今回も丹波攻めで痛手を被った傷が癒えないまま摂津へ駆り出された経緯があり、それを弥平次が指摘したのだ。

 光秀の隣に居るのは、三宅“弥平次”光春。明智家の一族や備中児島の国人・三宅氏の一族など、出自については諸説ある。光秀が越前に居た頃から付き従っており、光秀と共に苦楽を共にした間柄だった。

「それより弥平次、兵達の士気は落ちてないか?」

「そちらの方は問題ありません。ですが……」

 明智家の兵は大将である光秀の性格を反映しているのか、織田家中でも特に統制が執れた精兵として知られていた。規律が行き届き、粛々と自らがやるべき事を取り組んでいると弥平次は話すが、その表情は曇りがちだ。

「……相手が一向衆なので、意気軒昂けんこうとはいかず」

 士気が上がらないのを何とかするのが将の務めだが、光秀も責めることはしなかった。

 伊勢長島、越前、さらに朝倉家に仕えてきた頃の加賀と一向一揆との戦いを何度も経験してきた二人は、その難しさや辛さを骨身に沁みて知っていた。

 大名家同士の合戦では多少の劣勢だと踏み留まるが、一度流れが傾けば兵が戦意喪失して陣を保つのが難しくなり敗北に繋がる。特に、徴兵された百姓や臨時雇いの雑兵は形勢が悪くなると命惜しさに逃げ出す為に、それが呼び水となって陣が崩壊することもある。一方で一向一揆が相手の合戦では、どんなに劣勢になっても怯まず戦い続ける傾向がある。周りの者が倒されても自分が傷ついても、命が続く限り抵抗するのだ。仲間のしかばねを乗り越え、瀕死の重傷を負いながらも敵兵の脛に縋りつく。その執念の強さは戦いに慣れている将兵でも流石に精神的に堪えた。

 何故、そこまでして戦う事を厭わないのか。その訳は、宗教が人々の生活に深く密接に関わっていたからだ。汗水流して丹精込めた田畑の実りは大半が年貢として持って行かれ、戦や大規模な普請があれば働き盛りの男達は連れて行かれ、いざ戦が始まれば長年手入れを続けてきた田畑を踏み荒らされ、収穫間近だった作物は刈り取られ、家族が暮らす我が家は焼かれ、若い女は戦で昂る荒くれ者の手籠めにされ、金目の物は洗いざらい奪われ、挙句の果てには人をさらい人買いに家畜同然で売り払われる。こんな荒んだ世の中でどうして希望を見出せようか。人々は生き地獄のような現世ではなく来世に救いを求め、その受け皿となったのが宗教だった。特に浄土真宗は多宗派と異なり作法や教えが簡潔で分かりやすかったこともあり、農民を中心に広く庶民に浸透していった。だが、中には真宗の教えを恣意しい的に解釈した結果、『進者往生極楽 退者無間地獄(“進む=敵に立ち向かう”者は極楽へ行けるが、“退く=戦わず逃げる”者は地獄へ堕ちる)』という誤った教えが広まることとなり、死も恐れぬ兵を生み出すに至った次第である。

「……のう、弥平次」

「はっ」

「我等は武人。主君の命とあらば人を殺めるのも仕事の内だ。戦で殺されるのも致し方あるまい。なれど……」

 そこで一度言葉を区切ると、光秀は空を見上げながらポツリと漏らした。

「……同じ重さであるはずなのに、何故命の重さ軽さが変わるのだろうな」

 光秀自身、これまで数え切れない程の命を奪ってきた。自分の手を汚した事もあれば、自分が将兵に殺戮さつりくを命じた事もあった。比叡山延暦寺の焼き討ちでは率先して塔頭たっちゅうに火を掛けたし、伊勢長島や越前では根切に加担した。ただ、同じ宗教勢力を攻撃したとは言え、両者には明確な違いがあった。延暦寺は大半の僧が修行を怠り、肉食や遊女を連れ込むなど戒律を無視する行いが横行するなど、御仏に仕える者にあるまじき状態が続いていた。当然世間の評判も芳しくなく、焼き討ちは延暦寺に対する社会的制裁の意味合いが強かった。一方で、元亀元年から続く本願寺を発端とした本願寺勢力との戦いは、織田方と敵対するよう仕向けた戦だ。罰すべきは首謀者である教主顕如と門徒を扇動する坊主で、それ以外の無関係な門徒に罪は無い。しかし、一向一揆の特性上、女子どもであろうと織田方を襲う恐れがある為に、結果として無辜の民であろうと生きている者全てを殺し尽くさなければならない。それが、実に居た堪れない。

「……これも無益な殺生が繰り返される世を鎮める為に、必要な事です」

「……そうか。そうだな」

 弥平次の言葉に、一つ二つと頷く光秀。

 不条理な流血の連鎖を断ち切る方法はただ一つ、戦乱の世を終わらせることだ。自らの行いを正当化するつもりは無いが、間違った世界を正す為には誰かが手を汚さなければならない。綺麗事かも知れないが、この道しか無いのだ。

「僭越ながら申し上げますが、最近の殿は働き詰めでいささか顔色がよろしくありません。雑事は我等に任せて、少しお休みになられてはいかがでしょうか?」

 ここ数年、光秀は八面六臂ろっぴに動き回っていた。昨年も丹波攻めを任された一方で、信長が出陣する戦では招集が掛かり長篠・越前と駆り出され、さらに合間を縫って朝廷との折衝も行う。今年一月には波多野秀治の裏切りで敗走する憂き目に遭い、その心痛も癒えていない中で今度は本願寺攻めだ。休む暇も無く働き通しで、決して若いとは言えない主君光秀が倒れてしまわないかと弥平次は心配だった。

「何、大事ない。皆が懸命に働いている中で一人休んでいたら上様からお叱りを受けるわ。ははは……」

 弥平次の提案に、光秀は一笑に付した。股肱ここうの臣からの気遣いは有り難かったが、休んでいる暇は無かった。

 明るく笑う光秀を、真剣な眼差しで見つめる弥平次。気遣いではなく、本気で心配していた。

 元来生真面目な性格で、与えられた仕事に全身全霊で取り組む。その姿勢を美点と思いこういう主君に仕えられて誇りに思っているが、一方で無理を重ねていつか倒れるのではないかと考えた事も一度や二度ではない。信長の命であちこち転戦し、久しぶりに居城坂本城に帰ったかと思えば長らくの不在で蓄積した領地の仕置に忙殺される。はっきり言って、根を詰め過ぎである。『顔色が優れない』のは比喩でなく紛れもない事実だから率直に伝えたのだが……。

(殿は“手を抜く”ことを知らない。いや、知っているからこそいましめているのか)

 走り続けている時はまだ良い。それが何かの拍子で折れた時が、一番怖い。心身共に疲れてないはずがないからこそ、殿には少しでも休んで欲しいと弥平次は願わずにいられなかった。

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