一 : 絡み合う思惑(4)-熾烈な出世争いの中で
天正四年三月下旬。毛利家が反織田の意思を鮮明にしたことで、本願寺は再挙兵した。
信長は佐久間信盛・明智光秀・塙直政・細川藤孝・筒井順慶・荒木村重・中川清秀・高山右近などの諸将に対し、本願寺に対処すべく摂津方面への出兵を命じた。細川藤孝は山城に領地を持ち、筒井順慶は大和の有力大名、荒木村重は信長から摂津一国を任されており中川清秀・高山右近は村重の与力衆と、何れも畿内近隣の武将だった。
この時、信長が光秀・藤孝に宛てた書状が残っている。
――其表(大坂表)の麦
要約すれば『大坂表(本願寺周辺)の麦を薙ぎ捨てにせよ。油断のないよう努めよ。“本願寺に籠もる男女は罪を問わないから早々に城(本願寺)から出るように”という内容の立札を立てよ。坊主は許さない』という意味で、根切にした伊勢長島や越前の一向一揆と違い寛大な姿勢を示していた。
四月十四日、信長は荒木村重に本願寺の北・野田に三箇所、明智光秀・細川藤孝等に南東の森河内に二箇所、塙直政は南の天王寺にそれぞれ砦を築くよう指示を出した。本願寺の包囲を強め、じわりじわりと弱らせようとする狙いだった。
しかし、本願寺は楼の岸・木津の両砦が難波方面の水路を確保しており、大坂湾からの
(……焦れったい)
天王寺砦の作事場で、北方に望む石山本願寺の
この男こそ、本願寺攻めの指揮を任された塙直政だ。
直政に関する史料が少ない為に生年や出自は定かではないが、永禄十一年の上洛以降は主に吏僚として信長を支えた。その働きが認められ、天正二年五月に南山城の守護に任じられ、翌天正三年三月には大和の守護も兼務する事となった。南山城と大和は国人だけでなく公家や寺社など様々な勢力が複雑に混在しており統治が難しい土地だったが、直政は滞りなく治めたことから吏僚として優秀な人物だったことが推察出来る。重臣と違い国持ちではないが、動員出来る兵力は国持ちの重臣に相当する数を持っていた。
伊勢長島や越前一向一揆討伐などで武功を重ね、天正三年五月に武田を打ち破った設楽原の戦いでは佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝と並んで鉄砲奉行に任じられている。今挙がった面々はいずれも赤母衣衆・黒母衣衆の出身者で、この時点における子飼い武将の出世争いで先頭を走る者達だった。
本願寺攻めを任されるということは信長からそれだけの実力があると評価しているが、当の本人はそう思っていなかった。
(こんな所で足踏みをしている場合ではない。一刻も早く、目に見えた成果を挙げなければ……!!)
信長の馬廻出身者の前田利家・佐々成政・不破光治は昨年八月に三人で十万石を知行として与えられている。この三人は今は越前を治める柴田勝家の与力の扱いだが、この先武功を重ねていけば晴れて国持ちの身になる事も夢ではない。一方で直政は南山城・大和の守護を任されており、先述した三人より動員兵力の数では上回るが知行地ではないので直政個人の兵力は少ない。日々伸張する織田家の中における有望株ということで仕官を求めてくる者は後を絶たないが、それでも自前の将兵は足りていないのが現状だ。本願寺攻めは幾度も参加しているが、膠着状態に陥る事が殆どで武功を立てる機会に恵まれなかった。ここでモタモタしていれば熾烈を極める出世争いから脱落する可能性も十分に考えられる。
主君・信長が六年の歳月をかけても攻略出来なかった、石山本願寺。ここで目に見える結果を残せれば、競争相手より一歩先んじて国持ち大名になれるかも知れない。その為にも、直政は是が非でも成果が欲しかった。お役目を果たす為ならば、火の中に飛び込む事も厭わない覚悟だった。
身を焦がす思いに駆られながら、直政は石山本願寺の伽藍をじっと睨み付けていた。
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