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 夫が語る事の真相はこうだった。

 二人は元々仲の良い夫婦だったが、夫の仕事が忙しかったためにすれ違いの生活が続いてしまった。妻は孤独感から心を病んでしまい、仕事を休んで自宅療養を余儀なくされていた。

「僕がもう少し寄り添えたら良かったのですが……ちょうど新事業が軌道に乗り始めた所で、仕事に打ち込んでしまったんです」

 そうするうちに妻は孤独を深め、夫に隠れて自傷行為を繰り返すようになってしまった。夫はこの状態を見てまずいと思ったが、それまで寄り添えなかった後ろめたさから、彼女の気持ちに踏み込むことが出来なかった。

 最近では踏切に近付いたり、高層ビルに上って柵の外側を見下ろしたりする事が増えたため、怖くなって妻の外出を見張っていたのだ。

「この数日間では妻を見失う事が多く、何故だろうと思っていましたが……貴女方の計らいだったのですね」

「すみません……事情も知らずに」

「いえ、それが妻の希望だったのなら……」

 仕方ない事です、と首を横に振った。

「実は今日、二人の結婚記念日なんです。昼休みに花束も買いに行って、今日くらいは早く帰って二人で話そうと思って」

 少し折れ曲がった紙袋の中には、白い薔薇のブーケが覗いていた。

「しかし昼過ぎ、私のスマホ宛にこんなメッセージが届いたのです」

 ポケットから取り出されたスマホの画面を覗き込み、あとりの表情が凍り付いた。

『私達が結ばれたあの場所で、すべて終わりにします』

 その一行だけが、白いメッセージ画面に浮かんでいた。



 メッセージを見たあとりは、弾かれるように飛び出して山道を駆け登った。

 すべてを終わりに。あってほしくない光景ばかり脳裏に浮かび、頭を振り払って否定する。道に伸びた枝に叩かれようと、スピードを緩めずひた走る。やがて道が左に折れ、正面に『この先大吊橋』と小さな看板が立っているのが見えた。

 祈るような気持ちで角を曲がると、森が開けて視界が広くなった。茜色に照らされた大吊橋が二つの山を繋いでいる。

 吊橋の中央付近に、橋の欄干らんかんを背にして掴まった副島の姿があった。谷あいの風を受けて、白いワンピースがゆっくりとはためく。傾いてきた夕日が雲間から覗き、虚ろ気な彼女の横顔と湿った髪をオレンジ色に照らした。すべての希望を失ったその表情は、儚い美しささえ湛えている。その姿を見て血の気が引いたあとりは、考えるより先に駆け出していた。

「副島さん!! 駄目!!」

「……!」

 あとりの声に、驚いて振り向く。その瞬間彼女は片足を踏み外し、身体が大きくバランスを失った。両手が欄干から滑り落ちるが、辛うじて橋桁はしけたに掴まり、首の皮一枚で命を繋ぐ。折れそうに細い腕を掴もうと、あとりが欄干の内側から手を伸ばすが届かない。欄干を踏み越え、柵を掴んで身体を乗り出し、手を伸ばすも数センチ足りなかった。

「あとちょっと……なのに……!」

 あとりの身体は既に橋の外側にあり、時折吹く谷風に煽られ膝が震える。谷底までビル十階程の高さだろうか、落ちれば一溜りもないことは想像に難くない。眼下に広がる枯れ沢を見ると頭がクラクラした。

「やめて……来ないで……貴女まで落ちるわ!」

 橋桁を掴む副島の、全体重がかかった枯れ枝のような指は限界に近い。あとりは持って来ていたビニール傘の柄を吊橋の柵に引っ掛け、骨を束ねて片手で掴み、さらに身を乗り出した。もう片方の手が、ようやく副島の手を掴む。

「まだご主人とお話してないのに、死なせられないです!」

 副島がはっと顔を上げる。

「話さないと分からないことだって……あると思うんです! 副島さんがこんなに思い詰めるまで、どんな気持ちでいたんだとか……ご主人だって知りたいと思います!」

 血相を変えた夫も遅れて駆けつける。

「静香!」

 柵の隙間から腕を伸ばし、あとりが掴む手をしっかりと掴んだ。

「いつもひとりにして悪かった! 君とまだ話さないといけないことがたくさんあるんだ!」

「康二さん……!」

 涙ぐむ妻を、二人は渾身の力を振り絞り引き上げる。彼女がようやく橋桁に脚をかけ、橋の欄干を掴んだ瞬間。

 あとりの全体重を支えてきた傘の柄が、音を立てて折れた。

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