第36話 回想 憧れ


 七年前の四月二十三日、あの頃の俺は朱乃との約束を破ってしまった罪悪感と謝ることすらできない自分の情けなさに嫌気がさしていて、今にして思えば少し現実逃避気味な毎日を送っていた。


 今ではないいつか、ここではないどこか。

 そんなものばかり追い求めて、暇さえあれば他愛もない空想遊びに耽っていた。


 目に映るセカイが歪み綺麗な女の人と出会ったのも、朱乃が待つ自動販売機へ向かって歩きながらそんな空想を巡らせていたときのことだった。


 空から風に吹かれて舞い落ちてきた金色の何かに手を伸ばした俺は、気づけば足元も空も壁も、何もかもが歪んだセカイに立っていて、あっという間にパニックに陥ってしまった。


 正直、もしもあのとき俺が一人だったなら今こうして微かな懐かしさと共に思い返すことなど絶対に不可能なトラウマになっていたと思うけれど。


 幸いにして、あのときの俺は一人じゃなかった。


 歪んだセカイには唯一、一切の歪みなく凛とした立ち居振る舞いでセカイを睥睨する女の人がいて、彼女はこちらに気づくと驚いたように俺の名を呼んでから、不安に押しつぶされそうだった俺の頭をそっと撫でてくれた。


 今にして思えば不覚と言う他ないが、あのときは安心感のあまりちょっと泣いてしまったのを覚えている。


 自らを涼音と名乗る女の人は俺が藍川真夏だと知るといろいろな疑問を投げかけてきて、当時の俺はそれらの問にどんな意味があるのか半分も理解していなかったけれど。

 俺の答えを一つ一つ吟味し、自分たちの置かれた状況に関する推測を述べる女の人は少しだけ楽しそうで、どうしてあんな風に笑っていられるのか不思議で仕方がなかった。


 結局、その訳を知るためにずっと彼女の後ろをついて回ってみても、俺にはよくわからなかったのだけれど。


 それでも、女の人に対する興味は衰えるどころか増す一方で、自然と彼女に憧れていた。


 どうすれば彼女みたいになれるのだろう。

 そんな疑問を口にする俺に、女の人はおかしそうに笑ってから彼女と俺は意外と似ているのだと言った。


 いつか、私たちはセカイを変える。


 もしかしたら、それは間違ったことなのかもしれないけれど。


 それでも、どうしようもなく自分たちは今と違うセカイを欲するし、変わったセカイで微睡み続けることを望んでしまう。


 物憂げな表情を浮かべながら俺に語りかける女の人はそこで言葉を止めてから、両手で包み込むようにして俺の手を握った。


 でも、本心から望んでいるはずなのに、藍川ってば全然楽しそうじゃないんだもん。


 流石に、ちょっと見てられないよ。


 歪みが消えありふれた景色を取り戻し始めたセカイの中で、女の人は言葉を紡ぎ続ける。


 彼女が何を考えていたのか当時の俺には……いや、今だって本当はわかっていないのかもしれないけれど。


 俺を見る彼女の瞳はずっと優しいままで、そんな彼女のために何かしたいとそう思わされた。


 ……本当はね、私が二号に関する実験を断ってるのって、無駄だからじゃないの。

 本当は、その逆。


 今の藍川を見てると、放っとけないから。

 実験を続けてれば、そのうちお父さんも、学校の友達も、全部放り出して元のセカイに戻しちゃうと思ったから。

 それが怖くて、藍川と距離を取ってた。


 でも、結局君は私の前に現れた。


 真夏くん、朱乃ちゃんとの約束を破ったことを後悔してるって言ってたよね?

 最初は、それが約束をなかったことにしたいって意味なんだと思ってた。


 けど、違うんでしょ?

 君と私はこうして手を繋いだのに、私たちが再会したときセカイにはまだ約束が残ったままだった。


 きっと、君は朱乃ちゃんに謝りたいだけなんだろうね。

 でも、その勇気がないからこうしてここに逃げてきた。


 お父さんや藍川から逃げてた私と同じ。

 ……ホント、嫌な所で似てるよね、私たち。


 いつの間にか歪み一つない和室の中にいた女の人はそこで初めて俺から視線を逸らし、苦笑と共に部屋の中に祀られていた神棚へと目を向けた。


 こうして手に入った猶予期間が神様のお節介なのか、私と真夏くんの望みを二号が叶えただけなのかは知らないけどさ。


 もう、大丈夫。


 あなたのことは、私が助けてあげる。

 だから、真夏くんもいつか私を助けてね。


 約束だよ。

 

 結局、それが何を意味しているのかもわからないまま約束を結んだ俺は、その後も女の人に連れられ晩御飯を食べに行ったり、風呂に入ったり、眠ったりといろいろあったのだけれど。


 まあ、総じて言えば俺は何だかんだで女の人が好きだったのだろう。


 だから、俺は約束通りに彼女を助けたいと思ったし、そのために必要なのは俺が彼女の傍にいることじゃなく元いた場所に帰ることだというのも薄っすらとわかっていた。


 或いは、俺が女の人を忘れていたのは自分自身で望んだことなのかもしれない。


 彼女と別れるのは辛いから、全て忘れて最初からいなかったことにした。


 朱乃との約束といい、我ながら逃げてばかりのロクでもないやつだが、きっとそうじゃなければ女の人と出会うこともなかったのだろう。


 そんな風に考えると、何となく友達に嫉妬して自己嫌悪しているだけの情けない小学生のことを許せた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る