第3話 幼馴染

 白辻先生の態度から彼が花瓶に対する記憶を喪失していると判断した俺と戸滝は次なるサンプルを求めて移動する間、再び二号について話し合っていた。


「先生の反応からして、二号による改変が人間の記憶にまで及んでる可能性は高いと思うんだけど。これって、改変の影響を受けない私と藍川は世界中でたった二人だけ改変に合わせて都合よく補完された記憶を共有できてないってことでもあるよね」


 戸滝に言われて、先程見た白辻先生の反応を思い出す。


 先生は教室に花が飾られていないことを当たり前だと認識していた。

 だから、先生の頭の中にある教室の風景に俺が割ってしまった花瓶などもはや存在しない。

 

 教室で視線を巡らせればいつでも白い花を眺めることができる。

 俺にとって当たり前だったその事実を共有できる相手は、もう戸滝一人だけだ。


 もちろん、だからといって何かが大きく変わるわけではないのだと思う。

 花瓶が消えたことによる直接的な影響なんて、精々日直の仕事が一つ減るくらいのものだ。


 けれど、ふと花瓶に咲いた花を見て綺麗だと言っていた幼馴染は、自分が口にした言葉を忘れ代わりに何か俺の知らない発言をしたことになっているのだろう。


 俺は置き換わった記憶の中で彼女が何を言ったのか知らない。

 彼女も、俺の記憶の中にある白い花たちを覚えてはいない。


 これ自体は些細で取るに足らない溝だけれど、それでも確かに俺と戸滝は俺たち二人以外の全て……言うならば、セカイとの間に明確な溝を作ったのだ。


「……正直、そう言われるとちょっと怖い気もするな」

「え、ああ、ごめん。別に脅したいわけじゃないの。ただ、二号による改変が起きた後は私たちの記憶と現実の齟齬がどの程度あるのか、きちんと調べなきゃってだけの話だから」


 戸滝は何でもないことのように言っているが、改変後の補完された記憶を持たない俺たちにとって二号の影響がどこまで及んでいるのか調べるのは簡単ではないだろう。


 相変わらず、戸滝の二号に対する積極性には目を見張るものがある。


「それより、次に話を聞く相手だけど、確か藍川と同じ部活なんだよね?」


 戸滝に問われて、頷きを返す。


 戸滝はサンプルが白辻先生だけでは不安らしく、他にも何人か二年六組の人間に話を聞きたがっていたのだけれど。

 放課後になり一時間程度が経過した今、大抵の生徒は家に帰るなり部活に向かうなりしているため大して仲良くもないクラスメイトを捉まえるのは難しい。


 そこで俺が白羽の矢を立てたのが、クラスだけでなく部活も同じものに所属している友人というわけだ。



「ああ。だから、話をするのは基本的に俺に任せてくれれば問題ない。お前、そういうの得意じゃないだろ」

「……確かに、あんまり得意ではないんだけど。何か、そう言われるとちょっとムカつく」


 不満の声と共に戸滝はムッとした表情を浮かべてみせるが、二号に遭遇するまで彼女には冷ややかな態度で邪険にされ続けていたため、本気で拒絶されているわけではない分寧ろ可愛く見えてくる。


「お前、普段の態度を今くらいに抑えとけば、すぐにぼっち脱却できそうなのにな」


 戸滝が孤立を厭っているとも思えないが、それでも何となく彼女が誰ともつるまず一人でいるのがもったいない気がしてつい余計なことを口にすると、彼女は無言で左足を持ち上げ俺の右足を踏みつけた。


「いった!」

「何かムカつくから、ぼっち呼びは禁止!」


 俺がその場に屈みこみ踏まれた右足を抑えていると、戸滝は俺に向かって相も変わらずムッとした表情を浮かべたまま捨て台詞を残し、そのまま歩み去ってしまった。


 もしかして、戸滝のやつ自分が孤立してるのを気にしてたのか?

 普段の態度はアレなのに?

 

「……わからん」


 ある意味二号以上に難解な戸滝の心情について素直な感想を吐露してから、立ち上がって彼女の後を追うため歩き出す。



 ◇



 普段なら部室に入るのに一々ノックをしたりはしないのだけれど。


 今日は戸滝もいるので、一応入学してからの一年と一ヶ月の間に通い慣れた部室の扉へ二度ほど手の甲を打ち付ける。


「はーい、どうぞー」


 中から聞こえてきた間延びした声を合図に部室へ足を踏み入れると、中にいた三人の男女は俺の背後に戸滝の姿を認め反応の大小こそあれど皆一様に目を丸くした。


「あれ? 真夏と一緒にいるのって去年噂になってた子だよね? 何? 真夏ってあの子と仲良かったの?」

「いや、それはないと思いますよ。俺、教室であの二人が話してる所なんて見たことありませんし。というか、宮橋先輩も戸滝さんのこと知ってるんですね」

「まあ、いろんな意味で強烈なキャラしてるみたいだからねー。三年にも、あの子に声かけにいって秒で袖にされたってやつ何人かいるよ」


 赤色のアンダーリムメガネをかけ明るい茶髪を白のシュシュでまとめた女子生徒と生真面目な雰囲気の男子生徒が長机を挟んで向かい合い、小声で言葉を交わす。


 二人のうち茶髪の女子生徒、宮橋京香みやばしきょうかさんは我らが文芸部の部長にして唯一の三年生でもあり、大仰な言い方をすれば部内において並ぶ者のない最高権力者だ。


 まあ、実際のところは去年まで部長を務めていた先輩が引退するのに合わせて半ば強制的に部長職を引き継ぐことになっただけで、本人は部長なんて面倒くさいだけとあまり乗り気ではないのだけれど。


 そして、京香さんと向かい合っている男子生徒は名を久永悠ひさながゆうといって、去年の文化祭で部誌を発行したときには自分から編集や印刷関連の仕事を引き受けた文芸部一の働き者である。


 というか、冷静に考えると二年や三年もいる中で一年の悠が重要な仕事の大半を担っていたのはおかしくないだろうか。

 

 悠がやってくれるならと任せきりにしていた俺が言うのもなんだが、良くも悪くもうちの上級生は学年の違いによる上下というものを感じさせない。


「で、何でお前までいるんだ? 朱乃あけの


 部室にいた三人のうち、残り二人の会話に一切反応を示さず戸滝を見つめたまま黙っている少女へ声をかけると、たちまち彼女の表情が不満げなものへ変わった。


 少女はミディアムショートの黒髪を目にかからないよう青いヘアピンで留めており、顔立ちは同学年の女子と比べれば些か童顔気味ではあるものの十分に可愛らしいと評せる程整っている。 


 彼女、折笠朱乃おりがさあけのは小学生時代から付き合いのある幼馴染で、文芸部に籍こそ置いているものの何かと忙しいため出席率は俺たちの中で群を抜いて低い。


 今日だって、本当なら用事を片付けるため今ごろは家に帰っているはずなのだけれど。


 どういうわけか、朱乃は今俺の目の前にいて、私は不機嫌ですとでも言いたげにこちらを睨んでいる。


「私は、真夏と一緒に帰ろうと思って待ってたの! それより、何で真夏が戸滝さんと一緒にいるわけ? 日直の仕事はどうしたのよ」


 元々、俺が一人で日直の仕事をしていたのは同じく日直になっていた朱乃が早く家に帰れるようにするためだったのだけど、当の朱乃は俺の意図を欠片たりとも尊重する気はないらしい。


 まあ、俺が一人で日直をやると言ったとき朱乃はあまりいい顔をしなかったし、別に彼女が俺の言いなりになる必要もないのだけど。

 それにしたって、ここまで真逆をいかれるとどうにも徒労感が拭えない。


「日直の仕事してたから来るの遅れたんだろうが。というか、俺のことは待たなくていいって言っただろ」

「言ってたけど。私は待たないなんて言ってない」


 憮然とした態度で俺に反論する朱乃に納得した様子はまるでなく、彼女の視線はちらちらと戸滝の方へ逸れている。


 まあ、戸滝はお世辞にも人付き合いのいい方とは言えないやつだし、俺なんぞと連れ立って部室へやってくれば気になるのも無理はないけれど。


 本当のことを言っても正気を疑われるのがオチなので、その辺りの疑問に関してはてきとうにごまかすしかない。


「それで、結局どうして戸滝さんがいるのよ? ちゃんと説明して」

「あー、それは、あれだ。戸滝が文芸部に興味あるみたいでな。ちょっと見学に連れてきたというか……」

「嘘」


 戸滝がこの場にいても不自然ではない理由をでっち上げようと口にした俺の説明を朱乃が悩む素振りもなく否定する。


 確かに俺の説明はこの場で思いついたばかりの嘘なんだが、一応あり得ない話ではないし朱乃のやついくら何でも否定するのが早過ぎないか。


「何でそうなる。別に俺は嘘なんて――」

「嘘なんて、何?」


 朱乃から常より力の籠った眼差しを向けられ、二の句が継げなくなる。


 どうやら朱乃は俺の話が嘘だと確信してるみたいだし、これ以上俺が何を言っても信じてはもらえなそうだ。


 なまじ付き合いが長いせいで、朱乃はこういうとき嫌に鋭い。


「悪い。戸滝、後は任せた」


 俺が朱乃相手に白旗を上げ事態の打開を戸滝に託すと、彼女は軽くため息を吐いてから俺に呆れ混じりの視線を向けた。


「ここに来る前、文芸部での会話は自分に任せてぼっちは引っ込んでろって言われた気がするんだけど、あれ気のせいだっけ?」

「いや、まあ、確かに似たようなことは言った。言ったけどな? こういうのは臨機応変に対応するのが重要だと思わないか?」

「ハァ……。ま、別にいいけどさ。藍川って、私の時はあんだけしつこく食い下がってきたのに、何でこういうときは押しが弱いわけ?」

「……それとこれとは事情が違うんだよ」


 俺がぼそぼそと口にした返答を聞いてもう一度ため息を吐きだしてから、戸滝は俺を押しのけ前に進み出た。

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