セカイはご都合主義でできている
@ts10
第1話 セカイを変えた日
白い花を咲かせたマーガレットの束を取り出してから花瓶をひっくり返し、流しに古くなった水を捨てていく。
教室に飾ってある切り花用の水を入れ換える作業なんて大した手間ではないけれど、この後は日誌を書いて担任に提出する必要もあるのだと思うと些か億劫な気分になってくる。
こんなことなら、一人で日直の仕事を引き受けたりせず共に当番になっていた幼馴染に手伝ってもらえばよかっただろうか。
ふとそんなことを思うけれど、当然ながら先に帰らせた幼馴染が未だ教室に留まっているはずもなく今さら後悔したところで手伝ってくれる相手など誰もいない。
「……ハァ」
自分の無意味な思考に嘆息してから、水を換えた花瓶を持って歩き出す。
日直の仕事へ取りかかる前に部活の先輩から借りている読みかけの推理小説を最後まで読み進めていたせいか、既に流し周辺に他の生徒は見当たらず辺りはいつになく静かだ。
聞こえてくる音といえば、グラウンドの運動部が発するかけ声や、音楽室とその近辺で練習している音楽系の部活動が奏でる楽器の音色くらいだろうか。
非日常的とまでいうと大げさかもしれないが、いつもと違うこの静謐な空間が俺は嫌いじゃない。
日直の仕事なんて面倒なだけとはいえ、それがなければこんな所で油を売っていることもないのだから、ある意味この空間は日直を引き受けた俺にだけ与えられる特権と言えるのかもしれない。
なんて、そんな下らないことを考えながら歩いていたせいだろうか。
教室の前に立ち、塞がっている両手の代わりに足で扉を開こうとした俺は、足が触れる前に木製の扉をスライドさせ教室から出てきた女子生徒へ咄嗟に反応することができなかった。
「うわ!?」
「え!?」
女子生徒の肩が花瓶へぶつかりバランスを崩した俺は倒れるのを防ぐため反射的に右手で扉を掴み、そして不安定になった花瓶は左手からするりと抜け落ち床へと打ちつけられた。
「あー、マジか」
取り落とした花瓶は原型を留めてこそいるものの床に打ちつけられた衝撃によって三分の一近い面積が砕け辺りに散乱してしまっており、もはや花瓶としての役目を果たせそうにない。
「ごめん、怪我とかしてない?」
状況に反して落ち着いている声に反応して視線を花瓶から外し前を向いたところで、俺はようやくぶつかった女子生徒を落ち着いて観察する余裕ができた。
鮮やかな金髪は黒いゴムで結ばれツインテールにされており、俺を見つめる瞳は碧く澄んでいる。
白磁のような肌も相まって、どこか西洋系の血を感じさせる容姿だ。
いや、そういえば自己紹介のときイギリス人の祖母を持つクォーターだとか言っていた気がするし、実際に外国の血を引いてるのか。
俺とぶつかってしまった彼女、
彼女が人目を惹く理由は幾つかあるが、第一に彼女の容姿は珍しいというだけでなく非常に整っている。
高く通った鼻も瑞々しい桃色の唇も顔のパーツ全てが理想的と評したくなるような均整の取れた配置をされており、手足はすらりと伸びている。
そして、これはあくまで一部の男子生徒が噂しているのを偶然耳にしたことがあるというだけで俺自身がそんな不埒なことを考えているわけではないというのを前置きしておくけれど。
線の細い体つきでありながら、彼女の胸の膨らみは同学年の女子の中でも上位に数えられると言われており、体育の際に女子の方へ視線を向ければ体操着越しに見て取れる程に大きな存在感を有している。
「ちょっと、
「へ!? あ、うん。大丈夫だ。全然全く問題ない」
体育の授業で見た光景を……じゃなくて、人伝に聞いた噂話を思い起こしていたせいで反応の遅れた俺を不審に思ったのか、戸滝が再び声をかけてきたので慌てて口を開く。
正直、ちょっと変な受け答えになってしまった感は否めないが、まあこれで俺の内心が悟られるというわけでもないし別に問題はないだろう。
「そう。なら、もう行っていいよ。後始末は私がやっとくから」
「いや、流石にこれは俺も手伝う」
花瓶を運んでいた張本人である俺が何もしないというのもばつが悪いので手伝いを申し出ると、戸滝は露骨に顔を顰め軽く舌打ちまでしてみせた。
「いらない。私一人でやった方が楽だし、邪魔しないで」
彼女のことを何も知らなければ思わず自分は彼女から殊更に嫌われているのではないかと疑ってしまいそうな暴言だが、多少なりとも同じクラスですごしてきた俺にはわかる。
別に彼女は俺のことを特別嫌っているわけではない。
なにせ、彼女は一事が万事、誰に対してもこの調子なのだ。
俺はもちろん、何かとクラスメイトを気にかけてくれる学級委員長も、バスケ部のレギュラーを務めるスポーツマンも、彼女にとっては誰一人特別ではない。
皆等しく、鬱陶しい邪魔者というわけだ。
当然、この社交的とは言い難い性格が周囲の人間に歓迎されるはずもなく、その整った容姿に惹かれて彼女へ声をかけた数多の生徒はすぐに彼女との関係構築が不可能であると悟ることになった。
そして、入学してからの数日で戸滝は瞬く間に孤立していき、二年生となった今では余程のことがない限り誰も話しかけることのないアンタッチャブルな存在と化している。
正直、先程彼女に名前を呼ばれたときには、
では、そんな戸滝に向かって拒否されるのがわかっていながらなぜ声をかけているのかというと、実のところ確たる理由は一つもない。
敢えて言うなら、何となく彼女のことが気になるからといったところだろうか。
我ながら要領を得ないとは思うし、上手く言語化できないことがもどかしくもあるのだけど。
戸滝涼音はあまり近寄りたい人種ではないし関わるだけ損という認識がはっきりあるにも関わらず、なぜだか彼女に対して忌避感が湧いてこないのだ。
例えるなら、ゴキブリという生物が不快な相手だという知識はあるのに、家の中で見つけても実感を持てない状態とでも言えばいいのだろうか。
彼女を初めて見た時からずっと、喉の奥に小骨が刺さったかのような違和感がある。
「だからって、俺だけ何もせずに帰るのおかしいだろ。それに、これで帰って後から何で後始末を全部お前に押し付けてるんだー、とか説教されるのも面倒くさいしな」
俺がてきとうに理由付けをしてから箒を取りに教室へ入ろうとすると、戸滝はそれを阻むかのように俺の前に立ち塞がった。
「それなら心配しなくていいよ。花瓶を割ったときこの場にいたのは私一人ってことにしとくから。先生にごちゃごちゃ言われる心配がないなら、藍川だって心置きなく帰れるでしょ」
ああ、もう、こいつ本当に面倒くさいな。
別に俺が手伝ったところで何を損するわけでもないんだし、ここまで頑なに拒否しなくてもいいだろうに。
何がそんなに気に食わないんだ。
「……ハァ。わかった。じゃあ、花瓶を片付けるのはお前に任せるから、俺はこのことを
俺たちのクラスの担任は俺が所属している文芸部の顧問でもあるので話しやすいし、どうせ職員室には日誌を持っていかなければならない。
余計なお説教を聞くのは面倒だが、これなら戸滝も文句はないだろう。
そう思って役割分担を提案してみたのだけれど、今もなお戸滝の顔は渋いままだ。
「何でそこまでして後始末をやりたがるわけ?」
「逆に聞くが、何でお前はそこまでして俺に手伝わせるのを嫌がるんだ」
「それは……もう、わかった。私は私で好きにやるから、藍川も勝手にすれば」
ようやく折れることにしてくれたらしく、戸滝は俺に背を向け掃除用具入れの方へ歩き出した。
随分と余計な時間をくった気はするが、まあいい。
俺は俺でさっさと日誌を書き終えて白辻先生に報告してくるとしよう。
◇
「ん」
日誌の空白を埋め終えてから、軽く息を吐き出し伸びをする。
ついでに戸滝の方へ目を向けてみれば、ちょうど彼女も花瓶の欠片を集め終わったところのようだ。
俺が日誌片手に席を立ち彼女の傍を通り過ぎようとすると、視界の隅にきらりと光る欠片を見つけた。
どうやら、まだ取りこぼしがあったらしい。
「いって!?」
俺がしゃがみ込み落ちていた欠片を拾おうとすると、右手の人差し指の先にちくりと鋭い痛みが走った。
どうやら、花瓶の破片に変な触れ方をしたせいで誤って指の先を切ってしまったらしい。
別に大した怪我じゃないが、一応水で洗うくらいはしておいた方がいいだろうか。
そう思って立ち上がろうと指先から視線を上げ前を向くと、そこには今日一番の厳しい顔を浮かべた戸滝の姿があった。
これは、無理に出しゃばるからつまらない怪我をするんだと罵られるパターンだろうか。
確かに怪我をしたのは自業自得とはいえ、一応彼女のフォローをしようとしていたわけだしここはぜひとも寛大な心でスルーして欲しいものだ。
「怪我したの? 見せて」
「いや、大したことないから気に――」
「いいから、見せて」
予想に反して戸滝は俺を責めるような言葉は一切口にせず、強引に自身の左手で俺の右手を取った。
そして、戸滝の左手に俺の右手が触れた瞬間、静電気を何倍にも強くしたような衝撃が俺の全身を駆け抜け、ぐにゃりと視界が歪み始めた。
「っ!? ああ、くそ、何だこれ……貧血? じゃあないよな?」
辺りにぶちまけた何色もの絵の具を筆で強引に混ぜ合わせたかのようにぐちゃぐちゃになっていく周囲の光景の中で、ただ一つ俺の右手を掴んだまま驚愕の表情を浮かべている戸滝の姿だけが変わらない。
「嘘……何なの? これ」
呆然自失といった様子の戸滝を見るに彼女も同じ光景を見ているのだろうし、別に俺の頭がおかしくなったわけではないと思うのだけれど。
だからといって理由に心当たりがあるわけでもなく、本当に意味がわからない。
「戸滝、お前も辺りの景色がぐちゃぐちゃになってるの見えてるよな?」
俺が声をかけると、流石にこの非常事態を前に幾分協力的になったのか戸滝は素直に頷きを返してきた。
「それは、うん。見えてるけど。そう言うってことは、やっぱ藍川も?」
「ああ。少なくとも目に映る範囲のものは、お前以外原型を留めてないな」
「そっか。私も、藍川以外は全部どろどろになってるように見えるけど……あれ、でも、それなら、もしかして……」
話しているうちに何か思いついたのか戸滝はぼそぼそと独り言を呟いた後、俺の手を掴んでいた左手をぱっと開いた。
すると、それまでの異常な光景が嘘だったかのように辺りは元の見慣れた教室に戻り、どれだけ注意深く観察してみてもおかしな点は見つけられなくなった。
「えっと、あの変なのは収まった……ってことで、いいんだよな?」
「うん、ひとまずはそう考えていいと思う」
俺が恐る恐る現状確認のため口を開くと、戸滝は先程までの驚きようが嘘のような落ち着きぶりで返事を寄こし自分の席へと早足で歩きだした。
「藍川、何やってるの? 早くきて」
未だ混乱の抜けきらない俺がついていけずぼうっと戸滝を眺めていると、彼女は手招きをして俺に近くへ寄るよう促してきた。
正直、俺には状況がさっぱりわからないしいろいろ思うところもあるけれど、それらを一人で解決できる気は全くしないので大人しく戸滝に言われた通り彼女の前の席に座り椅子を後ろへ向ける。
「さっきの現象がどういう理屈で起きてるかについては、まだ情報が少なすぎてよくわからない。けど、あの現象にまつわる仮説なら幾つか立てられる」
戸滝は喋りつつも鞄からノートを取り出し、白紙のページに超常現象第二号に関する考察と書き記した。
「ひとまず、あの現象については二号と仮称するけど。一つ目にわかったことは、二号が発生する条件は戸滝涼音と藍川真夏の身体的接触にある可能性が高いってこと」
戸滝に言われて、あの奇妙な現象が起きたときのことを思い出す。
確かに周囲の景色が歪み始めたのは彼女が俺の右手に触れた瞬間のことだった。
そして、あの現象……戸滝が言うところの二号が終わったのは彼女が俺の手を離し身体的接触がなくなってからだ。
少なくとも、戸滝の言うことに明確な矛盾はない。
「付け加えるなら、二号が終息する条件についても私と藍川の接触に連動していると考えるべきだろうね。そして、二つ目にわかったことは二号は単なる幻なんかじゃなく、物質的な変動を伴った現象であるということ」
「は? 物質的な変動? どういうことだ?」
俺たちが二号によって幻覚のようなものを見たのは事実だが、終わってみれば教室はいつも通りに戻っていた。
それなのに、あれが物質的な変動を伴っていると主張する藍川の意図がわからず問いかけると、彼女は今世紀最大の馬鹿を見るかのような哀れみに満ちた視線を俺の方へ向けてきた。
「藍川、あんた怪我はもういいの?」
「え、ああ、何かそれどころじゃなくてもう全然痛みは感じな――」
戸滝に問われて何気ない調子で右手の人差し指へ視線を向け、思わず絶句してしまう。
痛みを感じないどころか、そもそも指の怪我がなくなっている。
あり得ない。
いくら小さな傷だったといっても、この短時間で痕すら残さず完璧に消えるなんてどう考えてもおかしい。
「どういうことだ? 何で、傷が……」
「それだけじゃないよ。二号が収束した直後から、破片の一つも残さずに花瓶が消えてる。おまけに、棚の上に置いていたはずの切り花や、花瓶の破片を集めるのに使った掃除用具まで、きれいさっぱり消滅済み。ま、箒くらいは後ろの掃除用具入れを探せば見つかるかもだけど、どっちにしろおかしなことに変わりはないよね」
辺りを見回して確認してみれば、確かに戸滝の挙げた物体は一つたりとも見つけることができない。
二号の衝撃が大き過ぎて、花瓶を割ったことなんて意識していなかったから気づかなかったけれど。
これじゃあ、まるで……。
「……まるで、花瓶なんて最初からこの教室になかったみたい、とは思わない?」
俺の心情をそのまま言い当てられて、言葉に詰まる。
「割れた花瓶の存在がなかったことになるのは私と藍川、どっちにとっても都合のいいことだよね? だから、私が思うに二号の本質は私と藍川の望みに応じて世界を改変すること、なんじゃないかな」
「っ……」
あまりにも途方もない戸滝の推論を聞いて、思わず何か反論しようと口を開いたけれど。
ダメだ。
何も言葉が出てこない。
正直、俺にとっては戸滝とこうして会話しているだけでも十分過ぎるくらい珍しいできごとなのに。
世界をどうこうと言われても、完全に理解の外だ。
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