第44話:長い祈り03
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俺は固唾を飲んだ。人生に押し寄せる理不尽。無償の愛を注ぐ神がいるならば、なぜ悲惨なことが我が身に起こるのか。誰もが抱く当然の疑問だ。そして荒くれ者のマシューを敬虔な司祭に変えた、奇跡の一言とはなんだろうか。
「司祭は面倒くさそうに聖典を開き『聖典には「すべては神の御意志なくして行われることはない」というようなことが書かれている。まあ、そういうことじゃないのか』とだけ言って立ち去りました」
「……は?」
マシュー司祭はにっこりと笑う。
「司祭の後を追って彼を殴ってやらなかった過去の私を誉めてやりたいような、やっぱり一発殴ってやりたかったような、複雑な気持ちです。人生であの時ほど腹の立った瞬間はありません。殴れなかったのは、義足で走るのがまだ難しかったからだけです」
あまりにもやる気のないその回答に、俺は唖然とするしかなかった。マシューの血を吐くような叫びに対し、司祭のその一言はまさに投げやりそのものだった。
「ひどい司祭だな」
「私にはお似合いですよ。仮に彼がどんなに真摯に対応しても、私は屁理屈をこねて絡み続けたでしょうから」
俺は黙るしかなかった。他人ごとではない。それはまさに俺のしてきたことだからだ。俺だって、ずっとマシュー司祭に絡んでいた。
「怒って怒って怒り疲れ、私は誓いました。なんとしてでもあのクソ司祭を論破してやる、と。どうせ暴力では殉教者ぶって『おお、神よ。何も知らないこの者を許したまえ』ほざくだろうから、同じ土台に立ってすべてを否定してやる、と。私は聖典を買ってきて最初から読み始め、慣れない祈りをし、やることが何もなかったので本格的に学び始め――――いつの間にか、教えられる者から教える者となっていました」
「話が急に飛んだな」
俺は突っ込まずにはいられない。いくらなんでも年月が飛びすぎだ。彼が復讐の誓いをしてから、敬虔な司祭になるまでの過程が全部すっぽ抜けている。
「おや、私が司祭になった過程をつまびらかに話していたら、日付が変わりますよ。お付き合いいただけますか?」
慌てて俺は首を振った。マシュー司祭の配慮に感謝だ。さすがは説教が仕事の司祭だ。放っておいたら事細かに自分の心情が信仰によって変わっていく様を語ってくれるだろう。ありがたいが遠慮したい。
「その失礼な司祭はどうなったんだ?」
だから俺は、一番気になっていたことだけを聞く。
「後になって一度彼のいた教会を訪れました。そこには違う司祭がいました。彼に聞くと、私に会ったすぐ後に亡くなったそうです。自室の床に倒れていて、誰にも看取られずに死んでいたとか。脳の血管が切れたのでしょう」
なんともあっけない結末だった。だが、あり得る話だ。俺たちの都合とは別に、現実ってものは勝手に完結して勝手に切り替わっていく。
「あまりよくない噂のある司祭だったそうです。賭け事がやめられなかったとか、隠れてよその町の酒場で酔い潰れていたとか、そういう噂があったそうです。でも同時に、貧しい人や元犯罪者に本当に親身になって接していたと言い、彼を惜しむ人も町にはいました」
マシュー司祭は懐かし気に目を細める。
「今となっては、私に向かって言ったあの言葉が、信仰に基づいた本音だったのか、それとも邪魔者をあしらう適当な戯言だったのかは分かりません。ただ――」
彼は俺を信仰者の目で見る。それは押しつけがましい独善ではなく、 押し潰されるほどの清濁によって磨かれ、削られ、鍛錬された静かで穏やかなものだった。
「私が脚を失った後、神はここへと導いてくれました。私のどうしようもない過ちから、神は救い出してくださったのです」
なんと答えるべきなのだろうか。神は妄想だと笑うべきか? 信仰は弱者のすがる虚偽だとあしらうべきか? だとしたら、俺だって同じだ。俺だってどうしようもないところまで落ちて、助けられる資格なんかないにもかかわらず、拾い上げられた。その事実はマシュー司祭と変わらない。
「きっと、そうなんだろうな」
だから俺は、そう答えるしかなかった。しかし――彼の独白は終わらなかった。
「ジャックさん、そしてあなたの教えるエミリア・スターリングさん。お二人は確かに長く辛い苦痛の時を過ごしました。でも、あなたたちは再び空を飛ぶことができた。コートに二度と立つことのできない私とは違って」
俺ははっとした。
「片脚でもフットボールはできます。でも、私の愛してやまなかったあのコートは……歓声と罵声と、喜びと怒りと、興奮と熱狂とに満ちたあのコートは、私にはもう決して届かない」
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