第33話:展翅された竜03
◆◆◆◆
「飲まないわよ」
「もちろんだ。もったいないから少しだけだぞ」
俺は椅子から立ち上がると、ウイスキーの瓶を手に取った。栓を抜き、中の琥珀色の液体をグラスに注いでいく。豊潤で強い香りが部屋の中に広がった。
「これがウイスキーなのね。鼻につんとくる香りだわ」
俺の差し出したグラスを手に取り、エミリアは鼻を近づけて目を輝かせる。
「高い酒だ。安酒はこんないい香りはしない」
「おいしいのかしら」
「子供の舌には刺激の強い味だ。飲むなら水で割るといい。いや、どうせならやっぱりワインだな。あれなら、比較的ジュースの感覚で飲めるだろうな」
「だから、飲まないわよ。ジャックはワインの方が好き?」
グラスの中身から目を上げて、エミリアは俺に問う。
「なんでも同じだ。俺は酒の味なんてどうでもよかった」
「なぜ? だって、お酒は飲み物でしょ?」
「ただひたすら酔いたかっただけさ。罪悪感と恐怖感から逃げたくて、毎日意識がなくなるまで飲んでいた。味なんて考えたこともなかったな」
俺はあの日々を思い出す。自責の念と後悔と痛みから逃れるため、必死で酒瓶の中身を喉に流し込んでいた日々を。襲ってくる眠気はハンマーのようだった。強引に意識を叩き壊し、強制的に眠らせる。その暴力的な眠気が心地よいとさえ思っていた。
「……ごめんなさい。嫌なことを思い出させたみたいね」
俺の目が曇ったのが分かってしまったのか、エミリアは謝る。俺は慌てて首を左右に振った。
「いや、いい。あれも俺の一部だ。あの日がなければ、今の俺じゃない」
役所の文書のような典型的な文言だ。今も苦しんでいる奴が聞いたならば「おやおや。少し前までこっち側にいたのに、ちょっとレディに引っ張り上げられただけでもう勝ち組の面をしてるなあ」とあざ笑うことだろう。ああ、俺のことなら好きなだけ罵倒してくれ。エミリアに心配をかけるくらいなら、そっちの方が百万倍ましだからだ。
「――捨てるのももったいないから、飲む?」
エミリアが遠慮がちにグラスを差し出した。
「俺はいい」
俺は即答して一歩下がる。
「一口くらいなら……」
「もう酒は飲まないって君と約束したんだ。それを守りたい。もしどうしてもって言うなら……」
しかし、あまりにもむげに断るのも嫌なので、俺は少しだけ気取ったことを口にしてみた。
「君が本当の自由を手にした時に、祝杯としていただくさ」
◆◆◆◆
「……少し、疲れちゃったの」
エミリアは机に突っ伏してそうつぶやく。
「ああ、そうだな」
俺は再び椅子に腰かけて、顔を近づける。彼女の息遣いが伝わってくる。焦燥と諦観と、果ての見えない労苦と、形ばかりの希望を追い続けて疲れたエミリアの呼吸を感じる。
「体はだんだん治ってきたけど、竜因のせいでずっと出られない。そんな日が続いたから……お酒ってどんなものなのかなって思って、飲むのは駄目だから、グラスに注いでどんな飲み物なのか見たかったの」
確かにそれは弱気であり、気の迷いだ。けれども、誰がそれを非難できる? 俺はライダーである以上、当然竜症にかかったことがある。けれども、俺はかなりの軽症だった。そして、エミリアほど重い竜症に苦しんだライダーを見たことはほとんどない。アイルトンカップの直前で棄権しなければならない悔しさも、骨の髄まで竜因に蝕まれる激痛も、生来の過敏症と相まって息をするだけで苦しいという日々も、何も何も何も俺は知らない。
弱気も気の迷いも、それだってエミリア・スターリングというライダーを構成する要素だ。それを否定することなんて絶対にできない。エミリアの行動を非難できる奴がいるとすれば、それはエミリアと同じ苦しみを味わった奴だけだ。お高くとまって道徳だの模範的だの説教する奴など、百万年一人でほざいていればいい。
「お酒を飲めば、嫌なことを忘れられるの?」
俺が無言でいると、エミリアはもう一度俺に酒について聞いてきた。
「いや、かえって重くのしかかってくる」
そうだ。酒を飲んで忘れられるものなんてないし、解決できるものもない。そんなことは、以前から百も承知だった。
「なのに、なぜジャックはずっとお酒を飲んでいたの?」
「嫌なことを忘れたかったからさ」
俺は恥ずかしかったが正直に答える。
「たとえ酔いが覚めたらもっと苦しくなると分かっていても、今一瞬でも忘れられるなら、酔い潰れる十分な理由になった」
「ジャック……」
情けない俺の告白を、エミリアは身を起こして聞いてくれた。本当に、この子は気高いだけでなく同時に優しさを併せ持っている。俺のかつての苦しみを、今自分が味わっている苦しみよりも大事にしてくれる。
「すまない、エミリア。俺のせいで酒に変な興味を持たせてしまったな」
その気持ちに何とかこたえたい。こんな俺でも、できることがあるはずだ。酒なんて一時的なものじゃなくて、もっとエミリアの助けになるような何かが。
「節度を守って飲むなら、酒だって悪くない。俺はできなかっただけだ。――悪いが、これは捨てるぞ」
俺は立ち上がると、グラスを手にもって窓を開け、中身を外に捨てた。すまないな、と俺は酒を造った誰かに謝る。俺はあんたが作ったこれを飲む資格はないんだ。
「ごめんなさい、ジャック。私、弱気なことを言ってるよね」
エミリアの言葉に隠し切れない疲労を感じ、俺は慌てて頭を回転させる。そんなことはない、と言いたかった。必死で、俺は慣れない賛辞を口にした。
「弱気なわけないだろ。君は俺が出会った人間の中で、一番勇気があって一番凛々しくて一番気高い子だ。自分を誇りに思ってくれ」
「あら、私のコーチ様がこんなに口がお上手とは思わなかったわ。おだてても私は竜なしでは空を飛べないわよ」
「そんなんじゃないさ。俺の本音だ。だからこそ、君をもう一度空へと導きたい」
その時、ふと俺は思いついた。レースに出られないこの空白の時間を、何とか有効活用できないだろうか。トレーニングだけでなく、もっとエミリアの気が晴れるようなことを。……少しだけ、心当たりがあった。
「……なあ、エミリア。二つ、頼みがある」
「何かしら?」
「まず一つ。一週間ほど待ってほしい。君のふさぎの虫を駆除する方法を一つ思いついた」
根拠のない俺の提案にも、エミリアは乗ってくれた。彼女の目にやる気の光が再びともる。
「魅力的な話ね。二つ目は?」
「使ってない物置でいい。ここにしばらく住まわせてくれ」
「……え?」
さすがにぶしつけだっただろうか。そう思いつつも、俺は言葉を続けた。
「家から資料を持ってくる。少しここにこもりたいんだ。屋敷周辺のコースの状況を徹底的に調べたい」
◆◆◆◆
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