第31話:展翅された竜


◆◆◆◆


「エンタープライズ、ごめんなさい」


 おばあ様の屋敷の納屋のそばで、私はエンタープライズの体を洗いながら、自分の竜に呼びかける。


「あなたも、力いっぱい空を飛びたいってずっと思っているでしょ?」


 エンタープライズはおとなしく私のブラッシングに身を任せてくれている。角の付け根も丁寧にブラシで汚れを落として、オイルを塗る。普段は竜骨に格納していて、呼び出すときは竜炎と共に現れる竜だけれども、定期的にメンテナンスが必要なのは当たり前だ。本当の姿は気体だけど、竜はライダーに合わせて生物の姿になってくれているのかもしれない。竜の手入れは専門の人に頼むライダーもいるけど、私はこうやって自分の手でエンタープライズに触れたかった。

 初めて見た時から、私はこの白銀の竜の虜だった。おばあ様の大鳳はライダーたちの手から手へと受け継がれてきた竜だけど、私の竜は違う。まだ無名の時に工房で見た時、私は真っ先にこの竜を選んでいた。

 性格はどちらかと言えば臆病で内気。ライダーには地上では素直に従うけど、ひとたび空を飛べば制御不能ぎりぎりのスピードで空を駆ける白銀の嚆矢。私の最高の竜。


「この竜の名前は決まったかしら?」


 そうおばあ様に聞かれ、私は即答した。


「エンタープライズよ」


 冒険心。未知の青空に向かっていっさんに飛んでいく、本当に素敵な竜。でも……私の竜症のせいで、今もエンタープライズは空を飛べないでいる。


「待ってて。私は絶対にもう一度レースに復帰するから」


 私はエンタープライズの頭を撫でながら、改めて自分の誓いを口にする。


「その時が来たら、あなたは一緒に飛んでくれる?」


 エンタープライズは緩やかに首を動かすと、そっと舌を出して私の手を舐めてくれた。


「ありがとう。あなたは優しいのね」


 ふと、私はアーサーの竜、ル・ファンタスクを思い出した。ヴァスコニアの工房が偶然作り出してしまった暴君。手の付けられないほど狂暴なあの竜は、多くのライダーをその背から振り落として病院へと叩き込んだ。何度も竜炎に還元することを提案されつつ、運命のように暴君は聖剣の使い手と出会う。何もかもを凍結させる極寒の竜炎をまとって猛り狂うル・ファンタスクを見て、アーサーはこう言ったそうだ。「ただ単に繊細なだけですよ」と。

 以来、暴君は英雄を背に乗せて空を暴れまわっている。アーサー以外には決して触らせず、そのアーサーに対してさえ、油断すると振り落とそうとするらしい。誰もが恐れる気難しすぎる竜を、アーサーは誇らしげに評する。


『僕の最高の相棒です。僕は、ル・ファンタスクこそが世界一の竜だと思っています』


 私だってそうだ。エンタープライズこそが私にとって最高の相棒だ。世界一の竜だ。それなのに……私は。


「……ッ!」


 喉の奥からせりあがってくる不快感に、私は背を曲げて咳き込んだ。もともとあったばい煙への過敏症が、竜症になったことでさらにひどくなっている。竜因が骨の奥でじりじりと私の身を削っていく。焼きごてを押し当てられたような痛み。まだ、私の竜症は治まってくれない。

 心配そうなエンタープライズを見たくなくて、私は手を振ってエンタープライズを竜炎に変え、フラスコの中の竜骨へと収めた。初めて、私は自分の手が短くて、空へと届かないと感じた。


◆◆◆◆


 それから長い時間をかけて、私の体調は少しずつ元に戻っていった。けれども、辛いのはそれからだった。何度レースの登録をしても、呼気の検査に引っかかってしまう。竜因が規定量以下にならない。

 ――私とエンタープライズは、展翅された蝶のように地上に縛り付けられていた。


◆◆◆◆


「バイロン賞も不合格だ。正直言ってやりきれないな」

「竜因がずいぶんと長く体内にとどまっているようね。骨組織まで侵されたのだから、当然と言えば当然よ」


 淡い期待を込めたエミリアのバイロン賞への登録。それが不合格との通知が届いた日のことだ。落ち込んだ様子を見せまいと気丈にふるまうエミリアを見るのが辛く、俺は早めにトレーニングを切り上げさせた。レースに出られなけば、どれだけトレーニングをしても無意味に思えてしまう。エミリアも俺も、集中できないまま今日の日課を終えた。

 彼女に別れを告げて帰ろうとした時、俺はオールドレディに呼び止められ、今彼女の自室にいる。


「次のレースに目標を切り替えるしかない。出られないレースについてあれこれ考えても現状は変わらないからな」


 俺は簡潔にこれからの予定をエリザベスに告げる。実際これしか俺たちにはできない。地上でどれだけ腐っていても無意味なのは、俺の過去を見れば一目瞭然だ。淡々とトレーニングをこなし、竜因が既定値以下になることを祈りつつ、次のレースへと登録する。それを続けるしかない。


「ジャック、あなたは変わったわね。ここに最初に来たときの、投げやりで燃え尽きたような元救命ライダーと、今のあなたは似ても似つかないわ」


 エリザベスは満足げにうなずく。そう言われると少し照れ臭い。


「あなたの孫娘に発破をかけられてね。あの子のおかげだ」


 俺はおどけないで本音を言う。エミリアが俺にしてくれたことを考えると、どれだけ感謝してもし足りない。こんな俺のために、我が身を削って本気で手を差し伸べてくれたのだ。その期待にこたえなければ、俺は俺でいられない。一度俺は空から落ちた。リチャードを死なせた。ならば、今度こそ失敗したくない。あの子を――もう一度空へと導きたい。


「惚れたのかしら?」


 椅子に座ったまま、エリザベスはいきなりとんでもないことを口にした。本気で疑っているのか、それとも冗談なのか見当もつかない。けれども、俺は少しもうろたえずに首を左右に振った。


「からかわないでくれ。俺たちはそういう関係じゃない」


 世間やエリザベスがどう思っているのかは知らないが、俺もエミリアも互いを異性だと意識することはまったくない。コーチと教え子以上の関係にはならないし、それ以上深める気もない。俺たちは恋とは無縁だ。

 だからこそ、エミリアは気高いのだと俺は思う。あの子は、ただ俺が苦しんでいるというそれだけの理由で、渾身の力で手を差し伸べたのだ。惚れた弱みじゃない。高潔な正義感に突き動かされて、エミリアは俺を助け出してくれたのだ。彼女がせっかく身を挺して灯してくれた火種を、どんなことがあっても無下にはしたくない。きっと、リチャードならそうするはずだ。


「私は極東に行った時、陰と陽の思想に触れたわ」


 いきなり、エリザベスはそれまでの会話がなかったかのように話題を変えた。


「そう言えば、あなたの大鳳は極東の工房の傑作だったな」


 あの鳥のようなシルエットの竜、エリザベスと共に空を駆けた竜、大鳳を俺は思い出す。


「万物は二つの両極によって分類される。男女、天地、明暗、動静。そしてそれらは循環する。昼は夜へ、夜は昼へ。強きは弱きへ、弱きは強きへ。好調は不調へ、不調は好調へ。あなたが過去に囚われていたからこそ、あの子は本気で奮起した。そして、あの子が竜症に蝕まれたからこそ、あなたはもう一度立ち上がった。全ては複雑に絡み合っているのよ」

「神様の粋な計らい、って言いたいのか? 神様がせせこましく人生のシナリオを演出して悦に入っているとは笑えない冗談だ」


 俺はつい皮肉を口にする。いい加減ふてくされている時間は終わったが、だからと言っていきなり俺は敬虔で信心深くて謙遜になったわけじゃない。「すべては神のご意志なのですよ」なんて言われたら反発したくもなる。辛苦は人を成長させるのかもしれないが、だからと言って拷問が人に必要とは口が裂けても言えない。


「天則、と東洋では言うでしょうね。花は蝶を無心で招き、蝶は花に無心に来る。花が開くとき蝶は自然と来て、蝶が来たとき花は自然と開く。私たちは、何か大きな流動の中にいるのよ」

「抽象的だな。学のない俺にはさっぱり分からん」


 俺は肩をすくめると、エリザベスは駄々っ子を見る目で俺を見て小さく笑う。


「少なくとも、そう思っておきなさい。あなたが神様を悪く言うと反抗期の子供みたいで可愛らしいけど、少し痛々しいわ」

「善処しておくが、俺は神様にも教会にも司祭にも縁がないぞ」


 俺はそう言ったが、すぐに違うことに気づいた。あの教会があった。俺が酔い潰れながら千鳥足で入り、いつも席に座っている司祭に愚痴り続けたあの教会が。――あの司祭はどうしているだろうか。


「エミリアには、早く快復してほしい。俺の願いはそれだけだ。悲しむあの子はもう見たくないんだ」


 俺は少しだけ弱気なことを口にする。エミリアがどれだけ自由に焦がれているのかが、俺にはよく分かる。だからこそ、それが手に入らないもどかしさも、俺には伝わってくるのだ。


「待ちなさい、坊や。あなたの焦りはもっともだけど、カメのように辛抱強く待つことが必要よ。追い風を待ち、帆を広げる準備をしなさい」


 おそらく何度もそうやって、耐え忍びつつチャンスを待ち続けたであろうエリザベスは俺を諭す。


「あの子は何度も列車に乗り遅れている。でも、一生今いる駅から出られないわけじゃないわ。今目の前を通り過ぎた列車が、駅から出る最後のチャンスではないの。必ず次の列車が来るのだから」


 彼女の経験から来るであろうその忠言を、俺はじっと噛みしめながら聞くしかなかった。ただ一つありがたかったのは、チャンスは必ずまた巡ってくるというエリザベスの保証の言葉だった。俺たちは何度もレースという名の列車に乗れなかった。今日はバイロン賞の不合格の通知を受け取った。でも、バイロン賞という列車が俺たちの目の前を通り過ぎたからと言って、それで何もかもが終わったわけではないのだ。

 ……次が。次がある。次こそは。確かにエミリアの言ったとおり、俺たちは何度も諦め、何度も夢が叶わないでいる。それでも、先に進むしかないのだ。


◆◆◆◆


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