第26話:燃え尽きない炎02
◆◆◆◆
どうしてだ、エミリア?
俺に、そんな価値があるのか?
俺なんかのために、なぜそこまで本気になれるんだ?
君はなぜ、そんなに曇りのない瞳で俺を見るんだ?
「エミリア……君は……どうして……?」
俺は頭の中をぐるぐると回る疑問を、ろくに口にできずにいた。たちの悪い希望のような、熱病のような喜びが胸の奥にくすぶっている。ここでエミリアの言葉に甘えてしまえば、それはとても気持ちいいことかもしれない。だが、それが本当に正しいことなのか? この俺が、竜症で自分も苦しんでいるエミリアにすがるなんて無様な行為が許されるわけがない。
「ジャック。お願い。竜症が治ったらまた私のコーチになって」
ろくな返事が返ってこない俺に愛想をつかすことなく、エミリアはそう言った。
「あ、ああ。それは、エリザベスに頼まれたからそのつもりだが……」
急に話題が変わったことに、俺はややうろたえた。いや、それ自体はいいことだ。いい加減俺の下らない過去なんか忘れて、さっさとこれからの予定を立てるのはまともな思考だ。
終わってしまった俺とは違い、エミリアにはまだ未来がある。確かにアイルトンカップに出られなかったのは、彼女のライダーとしての経歴に大きなハンデだ。だが、まだ若手のライダーが出られるレースは数多くある。問題は竜症だ。ここまで重症のライダーがどれだけ時間をかけて復帰できるのか、今は見当もつかない。恐らく正規のレースに出る前に、復帰試験を受けなければいけないだろう。あの『アンヌン大渓谷』の飛行試験に挑む可能性も視野に入れておこう。今はただ、体内に蓄積した竜因を散らすことを考えないと。
そうやって考えを巡らしていた俺の意識が、エミリアの一言で現実に引き戻された。
「私は、あなたのために飛ぶ」
「……は?」
どういうことだ、エミリア。君は『自由』を求めていたはずだろう。この汚れきった空の彼方。ばい煙に犯されていない清浄な空。それを目指して飛ぶ行為は、まさに自由そのものだった。自由だけを渇望して飛ぶのが、君だっただろう。なぜ、よりによって俺のために飛ぶ?
何も言えずに困惑する俺に、エミリアは一言一句を噛みしめるようにして続けた。
「見ていて、ジャック。私は飛ぶわ。これから何度も諦めるだろうし、何度も夢が叶わなくて泣くかもしれない。でも、それでも、私は飛ぶ。飛んでみせる。道が開けるまで、何度でも!」
それは、百万回は言われた言葉だ。「どんなことがあっても決して諦めない」「諦めなければ絶対に夢は叶う」。おとぎ話のような残酷な嘘だ。俺たちは多かれ少なかれ諦めるし、大なり小なり夢は夢のままで終わる。だが、エミリアはそれを認めた。自分が諦めることを、夢が叶わなくなることを知ってなお、空を飛ぶと言ったのだ。諦観と失望を積み重ねてなお、道が開けるまで彼女の挑戦は終わらないのだ。
「あなたの魂を、空に置いてきてしまった魂を、私が取り戻してくるから」
けれども、エミリアはなぜかその限りなく自由なフライトへの挑戦に、俺という異物を混ぜる。俺なんか地べたに置き去りにして自分一人で飛んでいけばいいのに、なぜ俺という重荷をわざわざついでに背負うんだ。ようやく俺は口が動いた。
「君は……なぜそこまでするんだ。俺は、赤の他人なんだぞ」
「私が自由を求めているって教えてくれたのはジャックよ。なら、今度は私の番。ライダーらしく、翼で語ってみせるわ」
エミリアはそう言うと、挑戦的に笑った。竜症に侵されてなお、彼女の笑顔は人を魅了する太陽のような明るさと、竜のような苛烈さがあった。彼女は、九十九人の敗者であると同時に、百人目の勝者なのかもしれない。
翼で語る。それは、ライダー同士で使う合言葉。様々な意味を包含する、本来の意味さえ忘れられた慣用句だ。エミリアのその言葉に、俺はどうしようもなく既視感を覚えていた。ライダーたちが困難なフライトに飛び立つ時、あるいは困難なフライトを終えた時、何度も聞いた言葉が「翼で語る」。
リチャードの言葉が、耳元で聞こえた気がした。
『ああ、そうだ。俺たちはライダーだ。――翼で語ろうぜ』
涙がこぼれた。
ああ、リチャード。お前は、ここにいたのか。
お前の魂は、今も空に囚われたままかもしれない。
でも、お前と同じ魂の熱量を持つ奴が、ここにいるんだよ。
頼むよ、リチャード。
俺と一緒に、エミリアを空に連れて行ってくれ。誰も見たことのない、清浄な空までこいつを導いてくれよ。お前、女の子の扱いは得意だっただろう?
それが終わったら、いつでも俺を――――
「は、はは……ははは……ははははっ!」
「ジャック?」
ふいに笑い出した俺を見て、エミリアが驚きで目を見開いた。そりゃそうだろう。頭がおかしくなったと思われても当然だ。だけど、今の俺は正常だ。つまらない話だが、さっきまでずっといかれていたんだ。いかれた頭でいかれた人生を送るのにも、ようやく飽きてきたみたいだ。
「君は飛べ、エミリア。君だけの自由を求めて、空の果てまですっ飛んでいけ」
そうだ、君はエンタープライズと一緒に清浄な空を目指せ。それが自由ってものだ。きっと君なら、いや――絶対に君なら、そこまでたどり着ける。
「あなたは?」
わずかな不安を帯びたエミリアの声を聞き、俺は胸が痛む。すまない、心配させて。大人のくせに、俺は何から何まで君に心配をかけてばかりだった。俺は内心の苦しさを押し殺し、口角を釣り上げてみせた。皮肉っぽく笑うふりだ。
「なくしたものを取り戻しに行くさ。なにしろ君じゃ、俺の右腕がどんな形をしているか知らないだろうからな」
それはなんともまどろっこしいが、俺の決意だった。君が空を飛ぶなら、俺も遅ればせながら続こうじゃないか。何しろ、俺が頭を抱えて地べたで震えていたら、いつまで経っても君が空を飛べずに迷惑するからな。
精一杯の空元気と、なけなしの勇気と、とっくの昔に質に入れたはずのプライドを総動員して、俺は立ち上がる。自然と背筋が伸びた。
「……ジャック!」
エミリアの顔が喜びで輝いた。まったく、たかがこんな大人一人がやる気を出しただけで喜ぶなんて、君はずいぶんと安上がりなんだな。けれども、俺はその笑顔を見て、信じられないくらいに胸が躍った。長い間忘れていた、心臓が拍動して生きているという実感。冷えきっていたはずの魂の炎が再び熱を帯びていく。その炎こそ、竜が食らいライダーと共に空を駆ける燃料だ。
「ゆっくり休め。体力が回復したらフライトの再開だ」
「はい!」
きっとこれが、俺たちの反撃ののろしだ。まだ出口は見えない。これから待っているのは、多くの苦痛と挫折と諦観と懊悩だ。それでも――――今日こそが、隻翼のドラゴンライダーが再び空を目指す日のはずだった。
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