蟲のジャムを作ろう!
華川とうふ
その1
その女の子を見た瞬間、私はその女の子と仲良くなりたいと切望した。
もちろん、無理だとわかっているけれど。
教室の一番後ろの窓際に座った女の子は恐ろしいくらい美少女だった。
蜜を滴らせたリンゴのような唇に、ミルクのような柔らかな色をした肌。そして、真っ黒な瞳は紺色に輝いていた。
ぱっちりした二重に縁がほんのりと青い瞳。瞬きで蝶が舞いそうな長い睫毛。彼女の顔立ちは人形のように美しく、一目でクラスの中心であることが分かった。
転校生ほど難しい立場はないと思う。
子供というのは動物に非常に近い。社会性がないわけではなく、動物と同じく、一瞬で相手が自分より上かどうかかぎ分けて群れの中の順位を決定する。
クラス中の視線が私に集中している。この瞬間。一瞬でも気を抜いたらあっという間にクラスの最下位になってしまう。転校生というのは秩序を乱しうる存在でもあるからだ。
空気がゼリーのように粘っこく凝固して、息苦しくなる。空気を吸おうとしても、ぺったりとのどに張り付いて、肺に空気が届かない。苦しさで頬が熱くなってくる。きっとじきに顔も赤くなってしまうだろう。そんなことになれば格好の餌食だ。
私はぐっと目を見開いて、教室の後ろを見つめる。できるだけ、明るい声で、
「西野妃花です。よろしくお願いします」
それだけ言って、先ほど教師が示した自分の席へと速足で向かった。
暗いやつという烙印を押されていないか一瞬だけ心配になるが、失敗するよりはずっとましだ。そう自分に言い聞かせた。
コツ、コツ、コツ
お尻に痛くはないけれど、神経を逆なでするような振動が伝わる。
前の学校で流行っていた中に鏡がついたペンケースをあけて、鏡をのぞくとそこにはいたずらそうな男の子がにやにやとしながらこちらの様子を伺っている。
先生が気づいて注意してくれないかなと思っているが、案外前の席は見えてないらしい。
「だめだよ、そんなことしちゃ。西野さんはクラスの新しい仲間なんだから。」
小さな声だけれどきっぱりとした口調で、いじわるな男の子をたしなめてくれる声がいた。
彼女だ。
私はそっとペンケースをずらして鏡に声の主の姿を映した。
鏡越しにみても彼女の美しさは息をのむほどだった。
美しさというものは野生動物の群れで優位に立つのには欠かせない。
なめらかでみずみずしい肌、きらきらと輝く瞳、血色の良い唇それらは自身が健康であり、優秀な生物であることを示している。
それに、雄だってその姿にはかしずくしかない。
いたずらそうな男の子も女の子に注意されるとしゅんとうなだれ仔犬のようになった。
やっぱり。
一目見た瞬間から分かった。
彼女はこのクラスにおいて最も重要な人物だ。
彼女と友達にならなければ。そう思った。
けれども、転校してきて一週間、彼女とお近づきになることはかなわなかった。
彼女は次の日から学校を休み続けたのである。
もちろん、友達はできた。
クラスの女の子は大人しく従順な子が多いらしく、とても穏やかな日々が続く。
だけれど、なんとなく自分のポジションというのがはっきりしない日々が続いた。
わかっているのだ。
私はとてもじゃないけれど、あの子ほど美しくないし。純粋じゃないことを。
私はきれいじゃないから特別な女の子にはなれないのだ。
先週一週間で覚えた、日直や掃除当番などクラスのルールを思い出しながら月曜の朝、早めに登校した。
ルールを覚えて何とかなじんだふりをしたけれど、正直、クラスの子の顔と名前を全員きちんと覚えられていなかったからだ。正直にいうと、先週覚えた子たちの大半の顔も忘れてしまった。万が一、朝、登校するときに彼女たちを気づかずに挨拶できなければ、いままで穏やかだった日々が一転してしまう。
私は彼女たちと会わずに済むように。そして、彼女たちの顔クラスの掲示板に張られた写真で復習できるように、苦手な早起きをして登校した。
「おはよう」
誰もいないと思っていた教室に入ると、鈴を転がすような声が聞こえた。
教室には赤い花を抱えた美しい少女がいた。
ずっと会いたかった彼女だ。
朝の空気に冷やされて死んだ木と湿った水のにおいのする教室の空気があたたかな甘い花の香にかわっていた。
まぶしくて思わず目を細める。
「なぁに? 私の顔、何かついている?」
その言葉を聞いて私は、しまった失礼なことをしてしまったと思って慌てた。
もし、クラスの実力者である彼女を怒らせてしまうと面倒なことになるのに。
しかし、彼女から目を離すことができなかった。
大きな瞳は好奇心で煌めいている。
「あっ、そうだ。西野さん鏡持ってるよね。筆箱についているやつ。あれ、見せてほしいな」
彼女は無邪気そうに私の名前を呼んでくれた。
覚えていてくれたんだ。
私は急いでランドセルをおろして筆箱を彼女に差し出す。
「可愛い筆箱だね」
彼女はそういって、筆箱を開いて鏡を覗き、ちょっとだけ前髪を直した。
まるで、最初から自分の顔に何かついているなんて恥ずかしいことが起こりえないと知っているようだった。
きっと彼女ならたこ焼きを食べても青のりが歯につくことなんてないのだろう。
「西野さん、生活班一緒だよね? これからよろしくね」
彼女はそういってにっこりとほほ笑んだ。
嫌われてなかったとほっとすると同時に、その笑顔はとても可愛らしくて、私はただぼんやりと頷くことしかできなかった。
そんな私を不思議そうに見つめた彼女は、あっと小さくいった。
「ごめんね。まだ、自己紹介してなかったよね。花衣蝶子っていいます。よろしくね」
「に、西野妃花です。よろしくお願いしまう!」
私はクラス全体に挨拶した時よりも緊張していた。
そして、噛んでしまった。恥ずかしさで真っ赤になっていると、彼女はとてもおかしそうに笑った。
「西野さんて面白いね。妃花ちゃんって呼んでいい? 私のことは蝶子って呼んでいいから?」
こうして私は特別なあの子、いや蝶子ちゃんの友達になれた。
―――思っていた。
蝶子ちゃんはいい子だ。美人なだけじゃない。
勉強だってできるし、ピアノだって弾ける。体育だって足の速さは女子の中ではトップクラスで毎年、運動会ではクラス代表としてリレーに出ている。
蝶子ちゃんはすべてを持っていた。
普通の女の子は一つでも持てれば、クラスで居場所ができるような特徴を蝶子ちゃんはいくつも持っていた。
まるで神様に選ばれたみたい。
そんな素晴らしい蝶子ちゃんにみんな一目置いていた。
そして、みんな彼女の特別な友達になりたがっていた。
しかし、蝶子ちゃんはは誰にでも分け隔てなく優しかった。
蝶子ちゃんと一番仲良しな子と考えると誰もいない。
蝶子ちゃんは体育とか図工で誰かとペアになってやるときは、その科目が一番不得意でだれも組みたがらないような子とペアになってあげるから。(もちろん、どんなに絵が下手でも蝶子ちゃんとペアになった女の子が書いた友達の肖像画は素晴らしいものになった。だって、題材がだれよりも素晴らしいのだから当然だ)
蝶子ちゃんとペアになりたくて、素敵なお道具を買ってもらった女の子たちはとても残念そうにしていた。
どうしても誰か蝶子ちゃんと仲の良い女の子をあげるとしたら、クラスでも比較的目立つ子たちの名前がでてくるだろう。彼女たちは蝶子ちゃんほどではないにせよ、勉強ができたり、運動神経が良かったり、楽器が弾けたりしてそこそこみんなおしゃれな服を着ていた。
自由グループを組んで何かをするとき、彼女たちが真っ先に蝶子ちゃんを取り囲むので、誰も何も言えなかった。
蝶子ちゃんと仲良くなるには、まずはこのグループの一員にならなければ、私はもう一週間クラスの様子を観察してそんな結論に至った。
だけれど、私はそんな結論にたどりつくことができるくらい頭がいいのに、グループの一員になることはできなかった。
私は彼女たちみたいにお洒落な服ももっていないし、眼鏡をかけていたから。
その日、私は小さな校則違反をした。
左手の薬指の爪一本だけにピンク色のラメのネイルを塗ったまま登校したのだ。
校則なんて言っても小学校にそんなものはない。ただ、教師たちが自分たちの都合のいいように生徒たちを押さえつけるため、「子供らしく」いさせるための暗黙の了解を守らせる。
実態のないルールでしかない。
教師に見つからなければお咎めなんてないし、お気に入りの生徒だったら注意だけで済む。
もちろんその逆のパターンも存在する。
目の敵にされている生徒ならばここぞとばかりに、罰として掃除や雑用を押し付けられたり、親を呼び出されていわれのない人格否定まがいのお説教を食らうこともある。
転校生である私にとってこれは賭けだった。
見つかるかどうかも――だって、クラスにはたいてい必要以上にマジメなスパイまがいが潜んでいる――そして見つかった時の教師の態度も自分の立ち位置を固定することにつながるからだ。
でも、これは私にとってラッキーのために欠かせないことなのだ。
魔法のネイル。高学年になってそんなこと言うのは恥ずかしいけど、私は秘かにそう呼んでいる。
特別な日はこうすることに決めている。
そうは言っても、午前中はドキドキしっぱなしだった。
できるだけ左手は握りしめるようにしていても、どうしても他の指のように隠すことはできない。
気持ちのいいお天気の日だったから、窓から差し込んだ光でラメがダイヤモンドみたいに光る瞬間、今日は特別な日なんだって思って私の作戦が誰かにばれてないかひやひやして鏡越しに確認してしまった。
今日の給食は、ごはん、牛乳、カレーそしてプリンだった。
今週は、給食当番だったので給食をよそわなければいけない。
しかも、カレーの配分を任されてしまった。こぼさないように左手にお椀を乗せ、カレーを注ぐ。
クラス全体にいきわたるように、でもあまりすぎないように。
そして、わんぱくな男子がなんにんかおかわりできる分が残るように分けなければいけない。
これはなかなか難しい。
何とか配り終えたあとに、薬指を隠すのを忘れていたことに気づいた。
みんなの前でお椀をもっていたのだから、普通にしているときよりは、薬指に目がいきやすかったかもしれない。
誰かにみられたかもしれない……そう不安になったとき、
「大丈夫?冷やさなきゃ!」
蝶子ちゃんがそう言って、私の手を引いて廊下の手洗い場まで連れて行ってくれた。そして、左手の薬
指に絆創膏を捲いてくれた。なるほど、こうすればみんなにばれない。
「みんなには内緒にするね。行こう」
蝶子ちゃんは悪戯っぽく唇に指をあてて微笑んだ。
私は、蝶子ちゃんの機転と優しさにおどろいてぼうっなってしまった。
なんて、素敵な子なんだろう。
なんて、頭がいいんだろう。
蝶子ちゃんは特別だ。そんな彼女の特別になりたい。
そう強く願ったのだ。
昼休み。たいていの子がお天気もいいので外の遊具やドッジボールをするために、外に風の子らしくかけていく中で、私は静かにその群れの中から離れた。
校舎の端にある図書室に向かうためである。
理科室や家庭科室、視聴覚ルームなどの特別教室の場所は何となくどこの学校でも似たような配置になっている。特に誰かに案内されたことはなくても、何階に位置しているかさえ把握していれば大抵はすんなり行き着くことができる。案の定、今回も迷うことなく図書室の扉にたどり着いた。図書室の前の廊下には埃っぽいガラスケースに入れられた生徒が作った展示物が飾られていた。あまりにも古いせいでガラス全体が黄色っぽく変色して見えた。おかげで中の展示物もどことなくセピアがかって見えて、いったい何年前の生徒が作ったものなんだろう。
図書室の扉はほかの教室の扉より少しだけ白っぽくて艶々して重かった。
床はワックスがしっかりかかって磨かれ、外の暖かな日差しのおかげでキャラメル色をしていた。
ピアノの発表会のあとに食べたフロランタンというお菓子を思い出す。どっしりとしたバター味の生地の上にスライスされたアーモンドがきれいに並び、その上に飴色のコーティングがされていてとても甘かった。小さいから大丈夫と思って一切れだけ口にしたが、あとでそのカロリーの高さにショックを受けた。
もうどんなに勧められても絶対に食べないと決めた。ただ、あの噛んだときの濃厚なバターの香りとねっとりと口の中を飴の甘さに支配されたのを温かい紅茶で洗い流したときの充実感をきっと私は忘れることができないだろう。飴色のお菓子を恋しく思いながら、上靴をそっと滑らせると、ほかの教室と違ってちょっとだけすぅっと進んで嬉しくなった。
以前転校した学校で廊下でスケートごっこをするのが流行ったことがあった。やってみたいと思っていたが、当時いたグループの子たちは女の子らしくしているのが好きで、そんなことは子供っぽいと思っていて、男子に注意する立場だった。でも本当はつやつやとした廊下を楽しそうに滑る男子たちがとても羨ましかった。
自分があまりにも子供っぽいことをしていることに気づき、そっと周囲を見回す。
よかった、誰も見ていない。
図書室にくる子は基本的におとなしくて真面目だ。
私も周囲に倣って、陽だまりのなかに椅子を近づけて本を広げる。まだ、すこし緊張しているのかなかなか文章が頭に入ってこない。
一文字一文字がバラバラになっていて、一つの文章にならないのだ。
それどころか、文字は偏と旁がばらばらになって、小さな虫のようになって、紙の上を這いまわったり、私の目の網膜に焼き付いた分は外を眺めると空のむこうに透明な羽を羽ばたかせてふわふわと飛んでいく。
大丈夫。魔法もかけてあるし、蝶子ちゃんが捲いてくれた絆創膏だってある。きっと今日の私はいつもより強くなれる。私は誰にも見られていないことを確認してから、そっと左手の薬指にキスをした。
「あっ、妃花ちゃんきてくれたんだ。時間よりはやいね」
蝶子ちゃんは私が彼女に巻いてくれたばんそうこうにキスをしたのを知ってか知らずかこちらを向いて余裕いっぱいにほほ笑んだ。
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