第3話 レーリア・クローデット

 少し少し昔のお話。


 薄暗い森を一つの影が動いていく。


 月明かりに照らされたそこは、まるでおとぎ話に出てくる、「精霊の森」とでも形容されるような幻想的な世界だった。緩やかな風にそよぐ木々の枝が、白緑に降り注ぐ月光の道を躍らせ、反射して光る木の実や苔さえもが妖精の類と見間違うほどであった。


「……どうしよう、道に迷っちゃった。」


 その森を動く影はそう呟いた。風になびく黒く長い髪が、月明かりに照らされキラキラと怪しく光る。もしもその影――その若い女が漆黒のドレスでも身に纏っていたならば、精霊の森に佇む妖艶ようえんな悪魔かと見紛みまごうほどの光景であっただろう。

 しかし、残念ながらその女の美貌とは裏腹に、その格好は粗末な村娘、贔屓目ひいきめに見ても、村娘の一張羅いっちょうらというレベルでしかなかったから、妖艶な悪魔には程遠かったが。


 ともあれ、その女は、このロチェスター領の森の中で迷っていた。

 正確にはその森は、『ロチェスター伯爵領』ではなく、唯一の『ブラッドバーン男爵領』である。もっとも、この島の地理に疎いその娘には、ここは『島の東側はロチェスター地方。その端っこの森』という認識無かった為、そんな事実は知る由もなかったが。


 昼に街で仕入れた情報によると、本来であればきちんと森の奥まで道の通じている、その森の正規の入口、と言うものがあるらしかったが、そこには何やら大仰おおぎょうなお屋敷が立っており、その屋敷の主とやらが管理だか、監視だかをしている、とのことだった。


「それは、さすがに通れないものね……。」


 女は誰にも見られることなく、森の奥に行きたかった。当然、森の正面の入口から堂々と入り込むわけにもいかず、人目につかない林道から、適当に森の中に侵入したのだった。


 それが、およそ、昼を少し過ぎたくらいの時間だった。

 今、空には煌々と月が輝いており、既に歩きすぎて時間感覚の無くなった女にも、もうかれこれ六、七時間ほど彷徨さまよっているのは認識できた。


「このまま、この森で野垂れ死にかぁ……。」


 女は自嘲気味に笑った。人生の最初で最後に掲げた目標が叶えられなかったのは悔しいが、それもまあ仕方ない。つくづく自分のどうしようもなさに情けなくて笑えてしまった。


「月が綺麗なのだけがまだ救いですけどね。」


 女は大きな木の根元に腰を掛け、空を見上げた。ここまで自分のすぐ近くに居て道を照らしてくれた、空に浮かぶ唯一の友人に感謝くらいは伝えたかった……のだが、彼女が空を見上げたその時、これまで全く存在すらしなかった雲が、大切な友人の顔を覆い始めた。


「そんな……。」


 女は慌ててその空の友人にお礼を言った。が、その返答を待つ暇も与えず、瞬く間に、雲は完全にその姿を覆い隠していった。


 終わった。


 女はそう思った。もはや、この深い森で、前すらも見えない。一歩歩いたその先が道なのか、穴なのか、それとも崖なのかすらも分からないのだ。この暗黒の世界で眠ろうものなら、森にすむ獣の餌食にされるだろう。それはさすがに嫌だった。しかし、もはや女にはその一歩歩く力すらも残されていなかった。


(でも、こんな真っ暗じゃあ……。)


 女はあたりを見回す。


 そして見つけた。


 暗黒の世界に遠くにかすかに光る、灯りを。

 女は、横の木の出っ張りを両手でつかみ、最後の力を腕と足に込める。ガクガクと震えはしたが、何とか二足歩行の状態に戻ることが出来た。


(あれが何かはわからないけど、せめて、あそこまで……。)


 そうして女は再び歩き出した。仮にあれがあの世の入口だとしても、人生の二個目で最後に掲げたこの目標くらいは達成しよう。そう自分に言い聞かせていた。



******



「ほら、君の番だ。」


 とある館の遊戯室。そこでは男が二人座ってチェスの勝負をしていた。一人は、勝者の微笑みを浮かべながら、サイドテーブルに置かれた紅茶のカップを優雅に口に運びつつそう言った。


 男の名はアルクアード・ブラッドバーン男爵。この館の主だった。


「ああ、少し待ってくれ。」


 アルクアードに相対した男は、顎に手を当てつつ、唸りながらチェス盤を睨みつけている。


「ご自由にどうぞ。待つのには慣れている。」

「さすがに数百年を生きるヴァンパイアが言うと含蓄があるな。」

「やかましい。」


 負けている腹いせなのか、それとも目の前の余裕の表情のヴァンパイアの男爵がよほど気に食わなかったのか、男は嫌味を口にした。しかし、刎頸ふんけいの交わりと言っても過言ではない、親友以上の二人の間においては、彼のそのような嫌味ではアルクアードの心にそよ風すらも起きなかった。


「しかし待つのは良いが決められた時間内に打たねば君の負けだぞ。……それにしても君がここまでうってつけだとは思わなかったぞ、ローガン・ロチェスター伯爵よ。」


 アルクアードは目の前の男をそう評した。

 アルクアードと相対していた男はローガン・ロチェスター伯爵。未来において、アルクアードの良き友となる、ファリス・ロチェスター伯爵の父親であった。


「うってつけ?」

「ああ。勝負事はどちらかが一方的では面白くない。真剣勝負にならないからな。我々の対戦成績は覚えているだろう?」


 一手前に打ち取ったローガンのクイーンの駒を弄びながら、アルクアードは得意気に言った。ローガンは、一瞬その成績に想いを巡らせた後、考え込むためにあてていた手を顎から離し、アルクアードに向かって広げた。


「君が偉そうに言う事かな? 五勝四敗が二回。どちらも私の勝ち越しじゃないか。そして現在四勝四敗。」


 この目の前の勝負。ローガンの旗色はかなり悪い状況だ。とはいえ、大まかなくくりで言えば、仮にこの勝負を落としたとしても、ローガンには一勝のアドバンテージがあった。そんなにアルクアードに偉そうに言われるのはしゃくである。

 しかし、まあ、確かに、こうしてみると本当に良い勝負をしている。ローガンからしても、そこには同意せざるを得なかった。


「五勝ごとに負けた方が相手の願いを聞く。一度くらい君に命令をしないと私の気が済まない。」

「それに関しては私も一言ある。チェスに勝って君のヴァンパイアの秘密を聞くのが習わしとはいえ、私の願いだけが初めから決まっているのは不公平だ。」


 そう、今更ではあるが、アルクアード・ブラッドバーン男爵はヴァンパイアである。

 そして、代々のロチェスター伯爵は、アルクアードとチェスで勝負をし、その秘密を聞き出す、というのが習わしであった。


「そう言われてもな、それが代々のロチェスター伯爵との取り決めだからな。それに、別に、『ヴァンパイアの秘密を聞く』以外の願いをしたって構わんのだぞ。他にあればの話だがね。」


 卑怯者め。ローガンは、そう思った。


 ヴァンパイアは増えない。

 ヴァンパイアは人には殺せない。

 ヴァンパイアは人を殺さない。


 その秘密を聞き出す以上の興味などそうそうあろうはずがなかった。


「くそっ、一刻も早く秘密を聞き出してやる!」

「ははは、せいぜい間違えるなよ。」

「くそ! きっと何か逆転の一手が。」


 しかし、残念ながら、考えれば考えるほど、今回の五勝目は、アルクアードに譲らざるを得ないようだった。


「だいたい、ピンチになった時に、必ず逆転の手がどこかに存在している、と考えるのは、君の悪い……。」


 ローガンは、盤面を見つめながら、アルクアードの嫌味を聞き流そうとしていたが、その言葉が途中で止まる。


「……? どうした。」

「誰か来る、人の気配だ。」


 ローガンは、飼い猫のメルでは、と思ったが、アルクアードの意識は、窓の外、つまり館の外に向いている様だった。猫のメルは確かに奔放に動き回るが、館の外に勝手に出ていくような真似はしない。


「こんな時間にか?」

「ひとまず、行こう。」


 アルクアードは勢いよく立ち上がり、部屋の外に向かった。私のクイーンは置いていけば良いのに、とローガンは思ったが口にはしなかった。



 アルクアードとローガンは、部屋を出て、館の中央にある階段に向かった。その階段を降りた正面が、この屋敷の入口である。

 階段を、音も立てずに小走りに駆け降りる。そして二人が階下に到着したとほぼ同時に、正面玄関の大扉のノッカーの音が鳴り響いた。


 ガンガンッ。


 音は大仰だが、そのノックには、どこかしら控えめな印象を受け、二人は顔を見合わせた。

 しかし、すぐさま、エントランスホールの柱の陰に身を潜めた。


 ガチャン。


 しばらくして、意を決したように扉のノブが回る。

 普段この屋敷を訪ねてくるのはロチェスター伯爵だけである。もう百年以上鍵をかけるということを忘れられたその扉は、あっさりと開いた。

 アルクアードのとなりでローガンが何か言いたさげにアルクアードを見たが、実際その恩恵を受けていることを思い出し、ローガンは口をつぐんだ。


「あの……すみません。どなたか……いらっしゃいますか? ……あの……。」


 エントランスホールに凛とした女の声が響いた。

 二人の位置からは姿を確認出来なかったが、突然降って来た若そうな女性の声に、二人は再び顔を見合わせた。


「あの、すみません。」

「止まれ、何者だ。」


 女の歩き出す足音が聞こえ、ローガンが制止の声を上げる。


「ひっ!」 


 ドサッ、という音。どうやら驚いて腰を抜かしてしまったようである。


「……あ、あ、あの、す、すみません。さ、探しものをして森に入ったのですけど、道に迷ってしまって。その……ごめんなさい。急に入って来て、怪しいものでは……その。」


 ついで、怯えてそう訴える女性の声。ローガンとアルクアードは柱の陰から少し顔を出して様子を伺ったが、到底、悪い人間には見えなそうな村娘が、震えているだけであった。


「……はっはっはっは。」


 ローガンが笑いながら女の前に姿を現す。しぶしぶアルクアードもそれに倣った。


「済まなかったレディ。どうやら本当に迷子なようだね。」

「全く、君と言うやつは。」

「こちらだって一応お忍びな訳だからな。」


 そう言って、女を立ち上がらせるために、優雅に手を貸すローガン。さすがは貴族、女性の扱いになれている。アルクアードは珍しくローガンに感心した。


「あ、あの、勝手に入ってしまい、ごめんなさい。」

「私がこの館の主だ。気にしなくていい、顔を上げたまえ。」


 終始頭を下げている女に向かってアルクアードはそう口にした。アルクアードにとっては、別段優しさでもなんでもなく、そんなにずっと首を垂れていたら、首を痛めてしまうかもしれない、その程度の気持ちでしかなかったが。


「は、はい。」


 アルクアードの言葉に従い、おずおずと顔を上げる女。


(……美しい。)


 アルクアードはその顔を見て、素直にそう思った。何も手入れはされていなさそうではあるが、その漆黒に輝く長く黒い髪が彩る、大きく綺麗な瞳に吸い込まれそうになった。


「それで、君はどこから?」


 アルクアードのそんな気持ちをよそに、ローガンは女と情報交換を始めていた。


「あ、はい、ミランポールです。」

「ミランポール?! 大陸の、しかもそんな遠くから来たのか!?」


 女の口にしたところは、大陸の山岳地帯のふもとの街であった。王国の最南端に位置するこのアトエクリフ島から、大陸の最南端の港町まで船で二月ふたつき。そこから馬を走らせても、更に三月みつきは下らない。ローガンが驚くのも無理はなかった。


「なんだってそんな遠くからわざわざこんな島に? 何を探しに来たのだね?」

「いえ、その……。」

「それで宿は? 町で取ってあるのか?」

「あ、いえ、あの……。」


 ローガンが女を質問攻めにする。全く、先ほどの優雅な貴族っぷりはどこへ行ったというのだろう。


「今日はもう遅い。探し物が何かは知らないが、野犬にでも襲われたら事だ。ここに泊まって行きなさい。この館には客間がいくつかある。手入れは行き届いているから問題ない。湯あみも出来るし、その方が良い。」


 ローガンが流れでいつの間にか勝手に客間を進呈していた。

 私の館だぞ、とも思ったが、別にそこまで気にするほどのことは無かったので、アルクアードは、別段言及はしなかった。そもそもこの屋敷も、アーサー・ロチェスター初代伯爵から貰ったものだし、ロチェスター家の人間がこの館の空きの客間どうしようと、その権利は有して然るべき、とも思った。


「あ、あの……。」

「レディ、これでは不足か?」


 完全に女がパニックに陥っている。全く、ローガンのこういうところである。良く言えば豪胆。悪く言えば大雑把なやつだ。


 仕方なくアルクアードは一歩前に出た。


「そうではないだろう……全く君と言うやつは。ああ、我々は怪しいものではない安心してくれ。」


 アルクアードがそう言うと、失念していた、とばかりに、ローガンが目を見開いた。


「あ! ああ、すまなかった。改めて……私はローガン・ロチェスター伯爵。ここの領主だ。」

「え……ええ?! ご、ご領主さま!?」

「一応な。」

「うるさい。」


 軽口をたたき合うが、女が平伏しそうな勢いだったので、アルクアードはそれを手で制し、ローガンの自己紹介に続く。


「初めまして、レディ。私は、アルクアード・ブラッドバーン男爵。領主のローガン・ロチェスター伯爵とは旧知の仲でございます。」

「男爵様……。」


 まるで魚のように口をパクパクさせている女。謎は多いが、恐らく遠方から来たただの村娘である。その目の前に、突如、領主の伯爵と男爵が現れたのだ。女は完全に自我を喪失していた。アルクアードはそう思った。


 しかしそうでは無かった。女は、瞳孔の開いた眼で、ただ一点を見つめていた。つまり、アルクアードの両目を凝視していた。これは、そう、恐怖と言う奴だろう。


「だ、男爵様。そ、その、瞳は……。」


 なるほど。そう言うことか。と、アルクアードは合点がいった。


「私はヴァンパイアです。」

「ヴァン!!」


 大陸では、ヴァンパイアは、伝説上の生き物で、不死の化け物である。諸説あるが、どれもこれも根も葉もない酷い言われようであった。


(まあ、伝説に根も葉もあったら困るのだが。)


 アルクアードがのんきにそんなことを考えていると、ローガンがフォローに入った。


「ああ、怖がらなくていい。大陸で言われているヴァンパイアの噂は全部嘘だからな。」

「噂?」


 一応気になって尋ねてみる。最近のものはどんな感じに伝わっているのであろうか。


「ああ、女の生き血を食事にするとか、若い娘をさらうとか、人類を滅ぼす、何てのもあったかな。」


 やはり、ろくでも無かった。いつの時代も大体はそんな感じか。アルクアードは人間の想像力の限界に辟易へきえきしたが、まあ、その恐ろしい噂が、この「呪われた島」を守る盾になっているのも事実なので、なんとも言えなかった。


「失敬な。ヴァンパイアを何だと思ってる。……ま、まあ、初めて見たら、怯えるのも分かるが……。」


 アルクアードは、女に出来る限り優しく声をかけるが、やはり無駄だった。恐怖に怯えた女は地面に手をつき、平伏してしまった。


「も、も、申し訳ありません。み、身分を弁えず、伯爵様、男爵様のお屋敷に入ってしまい、い、命が無いも同然でございます。さ、更には男爵様にまで失礼を。この罪いかようにも償います。」


 二人は顔を見合わせて肩をすくめた。もうこうなっては、我々の好待遇の話には耳を貸すまい。アルクアードにはその状況が手に取るように分かった。しかし、こういう時に効果がある方法をアルクアードは知っていた。


「レディ、そんなに畏まらなくて……。」


 ローガンが、赤子をなだめる様に近づく。しかし、アルクアードは、それと対象的に、威圧的な口調で言葉を発した。


「そうだな、確かによくよく考えてみれば、君のやった事は重罪かもしれん。」

「アルクアード!?」


 当然、ローガンは驚き、女は更に平伏した。


「では、君に命じよう。」

「……はい。」

「おいアルク……。」


 嗜めようとするローガンを制して、アルクアードは女に告げた。


「まずは湯あみをしておいで。その間に外にドレスを用意させておく。それに着替えたら、戻ってきなさい。大陸の話など、聞かせてくれないかな?」

「……男爵……様……。」


 ローガンは肩をすくめ、女は大きな瞳を潤ませながら顔を上げた。が、良い雰囲気をものともせずに、アルクアードは再び声を荒げた。


「そして追加で命ずる!」

「は、はい!」

「敬語は禁止だ。私の事はアルクアードと、彼の事はローガンと呼ぶように。」

「私もか。まあ、構わんが。」


 これで良い。これで彼女は逆らえない。見る限り、ボロボロの状況でこの館にたどりついたのだろう。ここで腹も満たし、体を癒すように命令するのが一番だ。いずれ彼女から旅の面白い話が聞けるかもしれない。

 それに、服装は汚れているが、とても美しい娘だ。そんな女性を着飾らせる事こそ、男の、貴族の本懐というものではないだろうか。アルクアードは柄にもなく、そんな考えを抱いていた。


「え……と、あ、あの。……その。」

「……ん?」


 アルクアードが意地悪く女を覗き込む。そしてさすがに女も観念したようだった。


「ありがとう……その、ロ、ローガン……アルクアード。」


 女は深々と礼をした。その長い、長いお辞儀が終わるのを待って、アルクアードは彼女を湯あみ所までエスコートするために歩き出した。が、それをローガンが引き留めた。


「ああ、ちょっと待ってくれるかい? 大事なことを忘れている。」


 立ち止まる二人に、ローガンはにやりと笑った。


「君の事は何て呼べばいいのかな?」


 そう言えば。


 この言葉が全く同時に女とアルクアードの頭に浮かんだのは言うまでもなかった。

 それにしても、もっと言い方ってもんがあっただろう。先ほどの自分のドッキリの意趣返いしゅがえしとでもいうのだろうか。しかし、こんな言い方をしてしまっては彼女が……。

 アルクアードはそう思ったが、時すでに遅し、であった。

 女は叫び声をあげて、再び地面に這いつくばってしまう。そりゃそうだ。伯爵と男爵に名乗らせ、自分一人だけが名乗っていないのだから。彼女にしてみれば生きた心地はしなかっただろう。


「ご、ご、ごめんなさい。わ、わ、私、そんなつもりじゃ……。あの、その……。」


 全く、折角上手に収めたというのに、なんてことをしてくれる。

 アルクアードはそう心の中でローガンに苦言を呈したが、後の祭りである。


(しょうがない。)


「ああ、そう言えば名乗る許しを出していなかったな。それまで名乗れないのは当然。では、その許しを今出そう。さあ、君の名前を教えてくれるかな?」


 名乗るのにそんな許しも何も無いのだが、彼女の心を落ち着かせるには、彼女が結果的に正しかったことにしてしまえばいいのだ。

 正直、これ以上の良い方法を、アルクアードはとっさに思いつかなかった。

 しかし、意外にも、女はあっさりと、その言葉に乗せられてくれたようだった。女はアルクアードの瞳を見つめ、ゆっくりと立ち上がり平静を取り戻した。

 しかし、それが、名乗らなかった事は問題なかったのだ、と安心したからなのか、それとも、その物言いの真意にアルクアードの優しさを感じたからなのかを、アルクアード自身には判断することは出来なかった。


「私はレーリア。レーリア・クローデットと申します。」

「ははは。よろしく、レーリア。」

「はい。」


 レーリアは微笑み歩きだした。

 もしも女神が居るのなら、それはこういう表情をする人の事だろう。アルクアードはその表情に見惚みとれた。


 そしてレーリアを追い、歩き出そうとしたアルクアードの腕を、ローガンが掴む。


「ああ、ちょっと待ってくれ。」

「なんだ、まだ何かあるのか? 彼女が今度は屋敷の中で迷子になってしまうぞ。」


 先に行ったレーリアの後ろ姿を目で追いながらアルクアードはそう言った。

 幸い、彼女は、廊下にかかっている絵や彫刻にご執心な様子で、亀でも追いつけそうなスピードではあったが。


「……ドレスを用意『させる』とは?」


 どうやらローガンは、先ほどのアルクアードの言葉に引っかかったようだった。


「東側のクローゼットに山ほどある。こんな時のためにな。」

「用意周到だな。」

「長生きしているだけさ。では、よろしく頼むよ。趣味は君に任せる。」


 再び歩きだそうとしたアルクアードの腕を再び掴むローガン。先ほどよりもいささか強めである。


「ちょっと待て、私が持っていくのか?」


 アルクアードは振り向き、にやりと笑った。そして、ずっと握っていたローガンのクイーンの駒を彼に向かって放り投げた。


「……時間切れ、君の負けだ。」



******



懐かしい夢を見た。


 フィルモア伯爵領。その一部に、今は「クローデット子爵領」と呼ばれる土地がある。隣のロチェスター領から最も離れた、高台の海岸沿いのその一角は、海沿いにも関わらず、満開の花が咲き誇っていた。


 フィルマの花。


 その、領民の居ない、花が咲き誇っているそのささやかな一帯だけが、クローデット子爵領であった。ブラッドバーン男爵領である森と同様に、ここがクローデット子爵領である事実を知っている領民はほとんどおらず、ほとんど実際には領地無しの貴族も同様であった。


(まあ、人に住まれても困るけどね。)


 その眼下に咲き誇る白い花畑を、屋敷の自室の窓から眺めながら、夢から目覚めたレーリア・クローデット子爵はそう心の中で呟いた。そして、きっとアルクアードなら同じことを言いそうね、と、そうも思ったが、その考えを頭の中から追い出した。彼の事を考えてはいけない。


 そういう約束だったから。


 コンコン。


 レーリアの部屋の扉がノックされる。どうぞ、と答えると、一人の元気な少年が飛び込んできた。


「レーリア様、おはよう!」

「おはよう、フィオ。」


 レーリアは少年の頭を撫でた。フィオと呼ばれた少年は、嬉しそうに尻尾を振った。

 尻尾。そう、彼は人の造形とは少し違っていた。

 頭には、まるで犬を思わせるようなちょっと垂れた耳がくっついており、そして臀部からはまるで犬を思わせるようなふさふさとした尻尾が生えていた。と言うか、彼は犬だった。このフィルモアに来てから彼女が飼った犬なのだが、諸事情で使い魔にするためにヴァンパイア化したらこんなことになってしまった。


(こうなってしまった以上、使い魔を作らなくてはいけない。絶対にだ。)


 前述の「諸事情」が、幾度となく、彼の、アルクアードの声色で脳内再生された。しかし、その言葉も、その度に、頭から追い払わなくてはならなかった。


 そういう約束だったから。


 普段なら、使い魔の彼の頭を撫でてもそんなことを思い出さないのだが、今日はなぜかロチェスター領の彼の、彼らの顔がよぎる。昨晩、懐かしい夢を見たからだろうか。


「レーリア様、どうかしたの?」


 主人に忠義な子が、敏感に察知して聞いてくる。本当にこの子は良く出来た子だ。


「いいえ、何でもないわ。少し懐かしい夢を見たのよ。それより、何か用事があったのではなくて?」


 普段主の部屋にあまり来ることのないフィオが、わざわざ寝室まで来たのだ。恐らく何かしらの伝達事項があったのだろう。

 レーリアがそう聞くと、フィオは思い出したように答えた。


「そうだった。昨晩、レーリア様がお出かけになられていた時に、伯爵が尋ねて来て、『最近、大陸でヴァンパイアが殺人を犯しているという事件が多発している』って。で、『もしかしたらその犯人が、この島に渡ってきているかもしれない』って。」


 昨晩の光景が目に浮かんだ。

 ヴァンパイアは人を殺さない。これはルールである。だから、それ自体はありえない話である。しかし、ただの殺人鬼、と言うことであれば、そいつはもう渡って来ているようだった。それは、昨晩の事件が雄弁に物語っていた。

 彼女はそう思ったが、口に出さなかった。フィオに言ってもどうなるものでもない。

 因みに昨晩のあの後、伯爵邸か警備隊にでも連絡しようかと思ったが、あんだけ『恐ろしいヴァンパイアの演技』をぶちかました手前、詰め所でその第一発見者達と鉢合わせしても都合が悪いので、報告は彼らに任せる事にしたのであった。


(そう言えば昨日の男、カーティス・レインとか言ったかしら。あの男が犯人、と言う可能性は……。)


 そうも考えたが、やはり、昨晩対峙した時に感じた直観と同じであった。あの男は、そう言うたぐいの悪行をするような男には見えなかった。あの時の彼の瞳の奥にあったのは、亡骸を前に燃える「正義」と、ヴァンパイアを前に湧き上がる「恐怖」だった。


「……そう。」

「それだけ?」

「だって、そんなことあり得ないもの。気にしなくていいわ。伯爵は他には?」


 まああれだけ脅したのだ、もうあの男に会うこともないでしょう。もう大陸に尻尾をまいて逃げ帰っているかもしれない。ただ、殺人鬼の方は伯爵に言って、警備を厳重にしてもらう必要がありそうだった。


「えっと、後は、つい先週。お隣のロチェスターで領主のローガン・ロチェスター伯が亡くなったって。」

「……え?!」

「息子のファリス・ロチェスターが伯爵位を継いだってさ。」


 頭の中で、昨晩の事件の考えをまとめていたレーリアだったが、その全ての思考が吹き飛んだ。


 そんな……。ローガンが……。

 ローガンが亡くなった……。


 レーリアは思わず、その場に崩れ落ちた。

 昨晩見た夢は、虫の知らせかなんかだったのだろうか。

 あの、優しく、豪胆な、あのローガンが亡くなった。


 レーリアは完全に言葉を失っていた。


「レーリア様?」


 愛犬の言葉で我に返る。駄目だ駄目だ、考えてはいけない。

 彼女は無理やり、古き友人の顔を頭の中から追い出そうとした。


「……いえ。昔ね、ローガンにもいろいろ世話になったから。」

「にも?」

「ええ、ローガンにも……アルクアードにもね。」


 しかし、出来なかった。出来るはずもなかった。

 あのローガン・ロチェスターが亡くなったのだ。そして、一人残された大親友……。彼の気持ちを考えると、レーリアは今にも声を上げて泣き出してしまいそうだった。


 でも、それは出来ない。

 思い出してはいけない。

 彼の事を考えてはいけない。

 そういう約束だから。


「そんなに会いたいのなら会いに行っては?」

「駄目よ。それは……駄目。」


 そういう約束だから。

 彼の事を考えてはいけない。

 彼の事を思い出してはいけない。


 しかし、レーリア・クローデットにとって、ローガン・ロチェスターの訃報はあまりにもショックが大き過ぎた。

 

 その後。


 彼女を心配するフィオを部屋から出し、ベッドに横たわり、目を瞑った。


 思い出されるあの日々の景色があまりにも多く、あまりにも鮮明で、あまりにも眩しかった。


 そして、彼女は口にした。


「アルクアード……。ローガンが亡くなって、落ち込んでいるかしら。……会いたいわ……アルクアード。」


 彼女は、ドアの外で、心配のあまり待機していた使い魔が、その言葉を聞いてしまっていたことなど、知る由も無かった。


(つづく)

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