宿命のブラッドバーン

稲妻仔猫

第1話 若き伯爵との出会い

 夢を見た。


 懐かしい夢だ。


 永劫の時が流れたかと思うほどの過去の夢。そこは見慣れたとある館の一室。私は、その部屋にある小さく小奇麗なテーブルに頬杖をつく男を眺めていた。


「どうした、友よ。何か考え事か?」


 私はあの時と同じように……いや、あの時の言葉をなぞるように、目の前の男に問いかける。


 懐かしい顔だ。


 私はそう思ったが、恐らくこれは夢の中の私ではなく、現在の私だろう。そして、およそ300年も前に苦楽を共にした、そして私が唯一罪を犯した、その目の前の懐かしい顔を見て、これが夢の中であることを認識したのだろう。


「ああ……いや、何でもない」


 目の前の男は、まるで恋人に告白する前の思春期の青年のようにそう言い淀んだ。残念ながら私は男であり、目の前の彼も確か当時40を過ぎた中年であったから、その例えは現実のものとはならないだろうが。


「おいおい、いつも歯切れの良い君らしくないな。考え込むのはチェス盤と睨めっこする時だけにしてくれよ」


 私はそう返す。300年前のあの時と同じように……。そしてやはり、あの時と同じように、彼は黙ったままだった。


「おい、本当にどうしたんだ? 隠れて生きてきた私に、君は男爵位まで授けてくれた。君のためならどんなことでも力を貸すぞ。初代ロチェスター伯爵、アーサー・ロチェスターよ。」


 ふと飛び出した夢の中の私の言葉に、改めて心が揺れる。もちろん現在の私の、だ。


 彼の名はアーサー・ロチェスター。今も私が暮らしているロチェスター伯爵領。その初代伯爵であり、私にできた初めての「友」と呼べる人間だった。


「本当か?」

「ああ。君の片腕として、友として、ロチェスター家を支えてきた私を信じろ。」


 目を輝かせるアーサーに向かって言う誇らしげな私に、現在の私は、感じていた懐かしさを塗りつぶしていく焦燥感に囚われていた。


 私は知っている。この話の結末を。


 この後してくるアーサーの頼み事は聞いてはいけない。たとえ過去は変えられないとしても、せめて夢の中くらいは……。


「ああ、そうだな。一つ頼みたいのだが……」

「ああ」


 現在の私の心配などよそに、夢の中の私は相づちを打つ。自分の言葉が、自分の思い通りにならないことがこんなに歯がゆいことだとは思わなかった。

 私はそう思ったが、「懐かしい夢」と感じている以上、同じような体験を何度もしているはずで、そうなると初めての経験では無いはずなのだが、そこはそれ。夢というものは得てしてそういうものである。


「……両親から昔な」

「ん? ああ。」

「恐ろしいおとぎ話として沢山聞かされて育った。」


 私が、夢と初体験の不思議に思いをはせている隙に、アーサーは夢の中の私に昔話を始めていた。そう言えばそんな話を聞いた気もするが、何分大昔の事過ぎて記憶があやふやだ。このあやふやな記憶を、夢の中で明確に再現できるなんて、人間の脳と言うものはなかなかどうして優れた性能である。


「アーサー、何の話だ。」

「ヴァンパイアさ。」

「ああ、この地域発祥はっしょうの伝説だからな。」


 私が、夢と人間の脳の不思議に思いをはせている間に、夢の中の私とアーサーは更に会話を進める。どうも私の思考回路は、すぐに何かに想いを馳せ、横道にそれる傾向にあるようだ。


 ここで少し、この地域の説明を軽くしておこう。誰に、とも思ったが、夢なんて大概そんなものである。説明のつかない行動を取ってしまうのが夢の醍醐味だいごみだ。


 我々が、つまり、現在の私も、夢の中の私も、そしてアーサーも含めた我々が住んでいるこの「アトエクリフ島」には二つの領地があった。

 一つをこの目の前の男アーサーが治めるロチェスター伯爵領、そしてもう一つをフィルモア伯爵領という。

 島の北方に位置する大陸における最大の国家、レブナント王国の領地であるこのアトエクリフ島であるが、この島には様々な「いわく」がついていた。


 このアトエクリフ島は、大昔は「死の島」と呼ばれていたらしい。

 その一つの原因は、島の各地に咲いているロチェストの花が原因である。ロチェストの花の花粉には、毒性の強い幻覚作用があり、吸い込めば幻覚が現れ、後に簡単に死に至る。そのため、誰も住み着こうとはしない死の島であった。

 しかし、王国が島を領地とし、伯爵という高い爵位の代わりに、島の開拓を命じられたのが若き日のアーサー・ロチェスターであった。


 そしてもう一つの原因は、良くおとぎ話として語られる「ヴァンパイア」の伝説だ。

 死ぬこともなく、寿命もない、永久に生きる恐ろしい化け物ヴァンパイア。その伝説の発祥の地がこのアトエクリフ島だったからである。


 「伝説って、他人事のように言うなよ。君の事だろう?」


 もったいぶって語ったが、夢の中のアーサーがあっさりばらしてしまう。


 そう。私はヴァンパイアだ。死ぬこともなく、永劫に生きる存在。


 そして、今まさに見ているこの夢の中の出来事は、およそ300年前に実際にあった一幕であった。古き親友に再び会えた嬉しさと、そしてこの後に待ち受けるあの事件に、心が掻きむしられる、そんな感情が入り混じりながら私は、夢の、いや、過去の私とアーサーとの会話に耳を傾けていた。


「アーサー、おとぎ話の中の恐ろしいヴァンパイアの話なら私とは違う、他人事さ。」

「そこなんだ。」

「うん?」


 二人の話は進んでいく。それにしても、たかが悩み事を打ち明けるのに随分遠回しな物言いをする男である。……いや、たかが、ではなかったか。これは失言だった。


「アルクアード、君はヴァンパイアだ。」


 今更だが、私の名だ。


 アルクアード・ブラッドバーン。

 現在の私はそう名乗っているが、まだこの時は「ブラッドバーン家」を名乗ってはいなかった。つまり、ただの「アルクアード」それが当時の私の名だった。


「ああ、そうだな。」


 こともなげに答える過去の私。


「しかし君は、非常に理知的で理性的だ。そして紳士的でもある」

「おいおい、気持ち悪いな」

「いいから、まじめな話だ。人間を襲って血を吸う様なこともしない」

「豚肉やワインで十分だからな」


 こうして改めて聞いてみると、遠回しの様だがあの時のアーサーの言いたいことは分かる。

 いや、気持ちが分かる、と言う方が正しいか。


 彼は説得しているのだ、自分自身を。


 人は、自身の行い、自分の考えが正しいかわからない時、特に正しい自信が無い時には、こうして自分を説得させるものである。

 が、当時の私は、アーサーのそんな気持ちに気づくことは出来なかった。そして現在の私は、そんなアーサーをただただ歯がゆい気持ちで眺めていた。


「君はヴァンパイアを増やして、君たちの世界を築こうともしない」

「人間をヴァンパイア化することは出来るらしいが、別に興味ないからな。やったこともない」

「ただただ、長く生きる。半永久的に。朽ちることなく……」

「アーサー、君は何が言いたんだ?」


 要領を得ない過去の私が、そうアーサーに問いかける。話が核心に近づき、私は少し戦慄せんりつした。



 その願いを、言葉を聞いてはいけない。



 現在の私が、夢の中の私に語り掛けることが出来るのなら、そう伝えただろう。


「つまり……うん、つまりだ……。私は、私の代でロチェスター伯爵として領地を治めるまでになった。この先、我がロチェスター家は栄えるのか、没落していくのか……」

「なるほど。初代、というものは、津々浦々つつうらうらそういう考えを持つものかもしれないな。

 そうか、代々君の息子、孫その先まで私に面倒を見ろ、というのだな。はっはっは、安心したまえ、君の子孫は私がずっと支えてやろうじゃないか」


 そうじゃない。

 アーサーの心はそうじゃない。


 何故わからないんだ、過去の私よ。


「……ああ。……そうだな。それは安心だ」

「そうとも」


 嘘をつくアーサーと、微笑む過去の私。ここで話は終わり、二人で食事にでも行ってしまえばいい。私はそう願った。繰り返しになるが、夢の中でくらい、そんな結末を見せてくれても良いものではないか。


 そんな私の願いも空しく、しばしの沈黙の後アーサーが口を開く。もちろん食事の誘いなどでは無かった。


「……アルクアード、君のように」

「ん?」

「君のように、朽ちることなく、永く、永く存在できる。……そんな人間が、領地を治めるべきだと思わないか?」


 やめろ、アーサー、それ以上は。


「おいおい、私に領地を治めることなんて出来ないぞ」

「ははは、確かに君には向いていないだろうな」


 ――沈黙。長い、長い沈黙。


 思い出した。

 何度も何度も夢に見て、そして何度も何度も忘れて、そしてここで、この嫌な沈黙で、この嫌な感情で必ず思い出す。何度も夢見ていたことを。


 例えるなら、絞首刑の現場を目の前にして、目を背けたいのに、実際に死刑囚の足元に板が外れ、ぶら下がる瞬間まで目を背けられない。そんな感情で、私はただただ目の前の二人を眺めていた。


「アーサー?」


 様子のおかしいアーサーを心配し、怪訝けげんそうにのぞき込む過去の私。


 やめろ過去の私。それ以上は聞くな。


「……私を」

「……ん?」


 やめろアーサー。それ以上は言うな。


「私を、ヴァンパイアにしてくれないか」




 * * *




 目を開けると、見慣れた天井が飛び込んできた。


 ヴァンパイアになってからと言うもの、余り暑さや寒さなどを感じないのだが、珍しくじっとりとした汗をかいている。あまり思い出せないが、なんとなくうっすらとアーサーの面影が脳裏に残っている。彼との思い出は楽しいことの方が多かったが……きっと、嫌な夢を見たのだろう。


 それにしても、夢と言う奴はどうしてこう、起きたらすぐに忘れてしまうのだろうか。

 そもそも夢と言う奴は、一説には、心の奥底で無意識に引っかかっていることを意識下に掘り起こしてくることで、整理や掃除をするものだとかなんとか、とかいう話を聞いたことがある。

 例えるなら、いつしまったのかも、何をしまったのかも分からない倉庫の奥底に眠っている木箱をこじ開けるようなものだろう。

 だから夢という奴は、悪いものが多いのか。心の奥底に引っかかるような出来事って奴は、基本的に嫌な思いや後悔と相場が決まっている。


「であれば、忘れる、と言うのも一つの防衛本能なのかもしれないな」


 コンコン。

 私が、夢と心のシステムに思いをはせ、一つの納得を得たところで、扉をノックする音がした。


「おはようございます、ご主人様。やっと、ようやく、永久とわの眠りからお目覚めですか」


 扉が開き、そう口にしながら、大きなヘッドドレスを身に着け、膝までのスカートがふんわりと広がった黒のゴシックなドレスを身に纏った少女が入ってくる。彼女の名はメル。私のメイド、兼使い魔、といったところか。


 使い魔、と言ったが、ほとんど人間と同様に見える彼女の造形は、人間のそれとは少し違っていた。彼女は、人間で言うところの頭から、まるで猫の様な三角形の耳を生やしており、臀部でんぶからは、まるで猫の様な尻尾が生えていた。

 というか、彼女は猫だった。

 昔私が飼っていた黒猫なのだが、諸事情で使い魔にするためにヴァンパイア化したらこんなことになってしまった。ちなみにこの衣装は、本人談ではそれらを隠すためのチョイス、ということだったが、本当は、本人の趣味なのではないか、と前々から思っていた。


 一見すると丁寧な口調と言葉の内容が、入室を許可する前に扉を開ける行為と小悪魔のような笑みのせいで完全に矛盾していたが、そんなことよりも、彼女の発言に引っかかった。


「ああ、おはよう、メル。すまないが、私は何か月ほど眠っていたのだろうか?」


 ヴァンパイアになってからと言うもの、睡眠時間というものに執着が無くなってしまった。執着、という文言で正しいのかはさておいて、ともかく、忙しい時などは二時間しか寝ないこともあれば、ぐっすりと一か月眠ってしまうこともある。この「永久とわの眠り」とまで言わしめたメルの口調からすると、ひょっとして、年単位でやってしまったか。


「はい。およそ一〇九五分の一年、お休みになられておりました」


 突然降りかかった数字にフリーズしていると、メルが楽しそうに続ける。


「時間に直すと八時間。極めて健康的な睡眠時間とされております。人間においての場合ですが」


 こいつは丁寧な口調で主人をからかうのが趣味なのだ。とはいえ、彼女は掃除も洗濯も料理も使いも接客も全てが完璧。それらをこなし、かつ余ったエネルギーで主人をからかっているようなので、私にはあまり強く言えない。


「……そうか。どうも夢を見ると、睡眠の体感時間が分からなくなる」

「夢、ですか。どのような?」


 メルの言葉を華麗にスルーした私だったが、何も気にせずに話を続けてくる。私はこの優秀過ぎるメイド兼使い魔に心の中で白旗を上げた。


「ああ。初代ロチェスター伯爵の夢だ」

「ご主人様を男爵に取り立ててくださったアーサー様ですね。お懐かしいことでしょう。メルもたまに夢を見ます。まだこのような姿でご主人様にお仕えする以前の……」


 くるりと身をひるがえして、スカートの裾をふわりと広げるメル。やはり趣味なのだろう。


「ああ、懐かしいな。普通の猫だった頃、お前は良く私の膝の上で眠っていたな」


 今のメルは、あまり猫であった時代の話をされるのが好きではないらしい。しかし、私にとっては、あの時のメルは、あれはあれでとても可愛がっていたものだし、話題に出したくもなるというものだ。まあ、この話をするたびに、その話はするな、と叱られるのだが。


「ご主人様の気高き眷属けんぞくでは無く、ただただ惰眠だみんを貪る畜生であった頃の記憶です。今の自分の姿と比べるとあの頃の自分には吐き気をもよおします」


 メルは落ち着いた口調でそう言いつつ、またしてもくるりと身を翻して、スカートの裾をふわりと広げる。確定だ。趣味だ。


「……そ、そうか。まあ、仕事に対するパラダイムシフトが起こったのなら、それでいいか。それで、メル、何か用事では無かったかな?」

「左様でございました。ご主人様への伝達事項をも忘れ、畜生の夢の話などを漏らしてしまい、このメル、この姿でお仕えする誇り高き眷属として一生の不覚にございます」


 そう言ってまた身を翻し……たところで気がついた。スカートの刺しゅうがいつもと違う。なるほど今日はワンピースを新調したのか。


「わかったわかった。新しいドレス、とても良く似合っている。可愛いぞ、メル」


 そう言うとメルは、三秒硬直し、ありがとうございます、と少し早口で言った。

 恐らく、この朴念仁ぼくねんじんの主人は完全に気づかないだろう、と決めてかかっていたところに、不意打ちで褒められたのだろう。普段何事にも動じないメルからしたら、それは最大限の照れの表現だった。


「で、用件はなんだい?」

「はい。ロチェスター伯がお見えになっておいでです。勿論、アーサー様は200年以上前にお亡くなりになっておりますから、アーサー様ではございません。現ロチェスター伯爵様でございます」

「いや、さすがに、わかっているよ」


 本題に戻したら戻したで、先ほどの照れなど微塵みじんも感じさせずに対応してくる。本当に良く出来た使い魔である。


 現在のロチェスター伯爵は七代目にあたる「ローガン・ロチェスター」である。


 初代ロチェスター伯爵であったアーサーとの約束通り、私は彼の子も、孫も、そしてその先も、代々のロチェスター伯爵と共に歩んできた。

 そして特に現七代目ロチェスター伯爵であるローガンとは、本当に馬が合い、大親友として共に領地を盛り立ててきた。


「そうでしたか。寝ぼけていらっしゃると思いましたが私の杞憂でしたら結構です。それで、いつお目覚めになるか分かりませんとお伝えしましたが、目覚めるまで待つと。朝まで待って起きなければそれはそれで仕方ない、と」

「そうか、分かった。直ぐに行こう。ローガンが体調を崩したと聞いて心配していたが、何よりだ。メル。お茶をお出ししろ」

「はい。ご主人様には新しいものを、ロチェスター伯には『お、か、わ、り』をご用意いたします」


 ニッコリと笑うそのメルの笑顔には明らかに棘が含まれていた。そりゃあそうか。

 メルのメイドとしての優秀さを再確認したと思ったが、どうやらその認識が足りていないのは私の方だったようだ。

 私はそんな反省をしつつ、急いで身支度を整え、応接室へ向かった。




 廊下を歩きながら、窓の外を眺める。もう間もなく日が沈むくらいの頃合いだろうか。遥かに見える海に沈む夕焼けがとても眩しく映る。

 そして逆側の窓に目を向ける。こちらは真っ暗で何も見えない。それもそのはず。この窓の方角、つまり館の裏側には広大な森林地帯が広がっている。奥に進めば、自然のわざで作られた一面の花畑や、美しい泉なんかもあるが、入り口であるこの館付近からは、まるで入ったものは二度と出られない、そんな錯覚さえ起こさせるような深い闇しか拝むことは出来なかった。

 そして、この人の住まぬ森林地帯こそが、この島で唯一のブラッドバーン男爵領、つまり私の領地であった。


(まあ、人が住まれても困るけどな)


 別に人目につきたくないわけでは無い。このアルクアード・ブラッドバーン男爵がヴァンパイアであることは、ロチェスターに住む人間ならみんな知っているし、酒場のマックスや、花屋のカミラ、布屋のプリスなどは彼らのひいひいひいお爺さんの頃からの付き合いだ。


 それとは別に、この森に人が住みつかないように、もっと言えば、人が入り込まないように管理する必要があった。


 この島は、大昔は「死の島」と呼ばれていたが、その呼称が消えたわけでもなく、今でも大陸からは「呪われた島」と呼ばれている。そして、その原因の一つとなった毒の花「ロチェスト」が、この森の奥で栽培▪▪されているのだ。

 ひとたび見ればその美しさに心奪われるその花畑も、たわむれにその中に入り込めば、心どころか命をも奪われてしまう大変危険な代物だ。従ってこうして、命の危険の無いヴァンパイアである私が、管理している、という訳だった。


「さて、ローガンは息災そくさいかな」


 私は応接室の扉の前に到着した。しばらく会っていなかったが、もしも彼の体調が良いようなら久しぶりにチェスを一局お願いしても良いかもしれない。


 ロチェスター伯爵と私は、事あるごとにチェスをたしなむのが代々の習わしだった。理由は様々あるが、それ以上に、私はこの遊戯の時間が好きだった。時に語り合いながら、時に闘争本能をむき出しにしながら、友と過ごしてきた時間はかけがえのないものだ。


 私はドアノブに手をかける。

 ドア越しに、メルと話す溌溂はつらつとした男の声が聞こえてくる。その時、瞬時に沸いた、ほんの少しの違和感に思考を及ぼすこともなく扉を開いた。

 目の前で私の背中越しに腰掛けていた男が、その扉の開く音に反応し立ち上がる。見たことのない若い男だ。


「待たせてしまってすまない。……ん、君は?」


 私の問いかけに、その礼儀正しく襟を正した。


「お初にお目にかかります、アルクアード・ブラッドバーン男爵。ローガン・ロチェスターの息子、ファリス・ロチェスターと申します」


 訂正しよう。見たこともない男、では無かった。そうか、あの幼子おさなごがもうこんなに立派になったのか。


 ぺこりと一礼をして、メルが席を外す。その気配が部屋から消えるのをなんとなく待ってから、私は言葉を発した。


「残念ながら、初めましてというのは正確ではないな。君が幼少の頃に一度会っているのだが、覚えてはいないかね」

「なにぶん、小さかったもので。しかし、父から良く男爵のお話を伺っておりました」

「あの頃の子供が、もうこんな立派になったのか、……そうか。永劫の時間を生きる我々ヴァンパイアからすれば、人の成長の時間という物は、本当に昨日の事の様に一瞬だな」

「お察しいたします」


 一つ引っかかったことがあった。


 メルは、先ほど「現ロチェスター伯爵」と言った。あの優秀な娘が、言い間違いなどしようはずもない。

 そうか……つまりは、そういうことなのか。


「体調を崩されたと聞いて心配していたが、ローガンは健在かい」

「……」


 私の質問に重苦しい沈黙で答えるファリス。その沈黙が、この後の答えをもう十二分に物語っていた。


「……亡くなったのか? ローガンは」

「はい。手を尽くしましたが、甲斐も無く」

「……そうか。心から……心から……お悔み申し上げる」

「……はい」


 覚悟はしていたつもりだった。


 もう何度も味わってきたこの苦しみ。


 暇さえあれば、毎晩のようにチェスにいそしんできた私と代々のロチェスター伯爵だが、その時間が止まる時がある。


 それは、伯爵が体調を崩された時だ。


 私はそのたびに、孤独な遊戯ゆうぎ室で、伯爵の体調を気に病み続けてきたものだった。もしも扉を開けた数秒前のこの場に、回復したローガンが立っていたならば、年甲斐としがいもなく抱き合い、泣いてしまっていたかもしれない。


「ローガンとは、昔は良く毎晩のようにみ交わしたものだった。時には彼の語る未来を肴に。時には、息子の自慢話を聞きながら。……そうか、本当に残念だ。また一人、私の友が、私の元から去って行ったか」

「父の葬儀は、先日、血縁のもののみで執り行われました。近々領民の皆に発表される手はずとなっております」

「……ああ。代々の君たちを見送ってきたんだ。知っているよ」


 彼の父親でもあったローガンは七代目のロチェスター伯爵にあたる。代々の伯爵ともとても懇意にしてきたものだったが、ローガンとは特に馬が合った。彼は数百年も生きている私などよりも、よっぽど博識で、聡明そうめいだった。そして男気にあふれ豪胆ごうたんでもあった。数百年の年の差など感じさせないようなその人柄に、私は彼をまるで兄のように頼り、したっていた。


 しかし、本当に世話になったのはそんなことではない。あのひとの時には本当に世話になった。私が過去に、生涯でたった一人愛したあのひと


「アルクアード男爵」


 私の苦しそうな表情を見かねてか、ファリスが沈黙を打ち破った。

 いかんいかん。実の、しかもあんなに素晴らしい人格者の父親が亡くなったのだ。私などよりも、彼の方がよほど辛く苦しいはずである。


「ああ、すまなかった、少し取り乱した」

「いえ。私も、男爵と過ごす楽しそうな父上を見て育ちましたので、心中お察しいたします」


 良く出来た青年である。流石はローガンの息子といったところか。私の関心をよそに、ファリスは言葉を続けた。


「……私が、幼き頃より父から言われ続けてきたことがございます。アルクアード・ブラッドバーン男爵と、若き頃は兄として、歳を重ねたときは友として、男爵に助けを請い、そして男爵を支えてあげるように、と」

「ローガンだけではない。その前の代も、またその前の代も、初代ロチェスター伯爵であり、私を男爵にして取り立ててくれたアーサーも私の友だった」


 そうだ。代々のロチェスター伯爵との約束の為にも、我が親友ローガンの為にも、私は、この目の前の若き伯爵を導かねばならない。ローガンの死をいたむのはいつでも出来る。今は、ファリスの兄として、しっかりと絆を深めようではないか。


 私のそんな決意をよそに、ファリスは目を丸くしていた。


「初代ロチェスター伯爵、アーサー様?」

「ああ」

「そうか、じかにご存じなのですね。屋敷の肖像画でしか見たことありませんが」


 例え父親からヴァンパイアであることを教えられていたとしても、その具体的な真実に突き当たると驚くものらしい。

 確かに、ファリスからすればアーサーはこの伯爵領を作り開拓した、いわば歴史上の人物だ。その人物を名指しし「俺、トモダチ」と言われるその驚きは、確かに計り知れないかもしれない。


「いつも思うよ。何故彼らの様に私の理解者であり、友が、私と共に時間を歩んで行ってくれないのだろうと。……すまない、不謹慎な発言をした」

「……いえ」


 バタンと大きな扉を開ける音がした。トレイにお茶とカップを載せたメルが入ってくる。そうか、先ほどはお茶をれに台所へ向かったわけだったか。


「私はこの先、永遠にご主人様の使い魔でございます。左様な悲しい発言は心外でございます」


 入って来るなり、メルが全く悲しく無さそうな表情で言う。いやむしろ少し微笑んでさえいる。何か面白そうなからかい方でも思いついたか?


「そうか、ではお前は私の友人になってくれるのか」

「はい。努力次第かと」

「ではそのお茶を、女友達のように『たまにはあなたが淹れなさいよ、アルクアード!』と言って机に置いて見なさい」


 メルの挑発にちょっとだけ乗っかってみる。ここでこいつを手玉に取れれば、二人の正しい関係値をファリスに対して示せるというものだ。


「ロチェスター伯、ご主人様、お茶とお替りが入りました。お熱いうちにどうぞ」

「挑戦くらいしろよ」


 一瞬の逡巡しゅんじゅんもなく完全にスルーされた。これでは少し女の子の声色まで使ったこちらが道化である。


「努力次第、と申し上げました。まだあるじの呼び捨てに挑戦する程の努力を積み重ねておりませんので。それよりもご主人様、このようなお話をしていてよろしいのですか?」


 ファリスを見る。……何やら生暖かい笑みを浮かべている。完全に、私とメルの関係値を誤解されてしまったようである。しかし、確かにこのクソ猫の言う通り、そんな話をしている場合ではない。


「……全く、誰のせいだ。すまない、ファリス。あ、いや失敬。君が正式に伯爵なのであったな。大変失礼申し上げました。ファリス・ロチェスター伯」


 これは長年、つちかわれた私なりの作戦だ。初めてのロチェスター伯爵を探るには、相手の立場を再認識させるのが一番。私よりも上の爵位であるロチェスター伯爵が、私相手にどのように振舞うのか、これで大抵、その人の本心は見えるものである。


「ファリスと呼んでください、ブラッドバーン男爵。あなたにそのようにかしこまられると恐れ多い」

「そうか、では私もアルクアードと呼んで下さい」

「いや、それは……流石に父の友人でもあり年上の方に対しては出来ません」


 余計な心配だったようだ。ローガンの素晴らしい人柄の教育は、しっかりファリスにも受け継がれているようだ。

 嬉しかった。

 まるで若かりし頃のローガンを見ているようだった。まあ、ファリスは、父ローガンに比べれば圧倒的に美青年ではあったが。しかし、友人となる以上、ここはクリアしてもらわねばならない。


「いつかは君も歳を取り、私と見た目が変わらぬ私の友になる。ローガンの言葉を無視するのかい?」

「しかし……」


 口ごもるファリス。思った以上に頑固なようだ。でも、私にも、アルクアードと呼んでもらわねばならない理由があった。


「それにね、自分でつけた名だが、ブラッドバーンと呼ばれるのは好きではないのだ」

「何故です?」


「その名は……私の罪だからな」


 罪、と言う単語に、すっと表情が重くなる。そして少し考え込むファリス。その言葉の真意をここで尋ねられたらどうしようかとも思ったが、この聡明な青年の事だ。恐らく大丈夫だろう。

 残念ながら、それを語るのは今ではない。

 少なくともそれが、代々のロチェスター伯爵との約束▪▪でもあり、取り決め▪▪▪▪である。


 しばしの沈黙の後、ファリスが口を開いた。


「……わかりました、それでは、無礼を承知で、ご意向に添い、アルクアードと呼ばせて頂きます。」


 そう言いながらも、優しい笑みを浮かべている。良かった。本当にこの青年はローガンか、それ以上の人物になるかもしれない。


「ああ、そうしてくれ。それに親友の息子にそう呼んで貰えなければ、誰が私をファーストネームで呼ぶというんだい?」

「アルクアード」


 おい、猫。どういうつもりだ? 今、とっても良い雰囲気だっただろうが。

 唐突に私を呼び捨てにした猫に、私は思わず心の中でツッコミを入れた。


「ふむ、お前のこの十数秒での努力の内容を聞きたい」

「心の準備です」

「……なるほど」


 なんで納得した、私。

 ……もう、こいつに口でいどむのはやめよう。


「……分かりました。では、アルクアード。今後ともよろしくお願いいたします」


 メルのせいで生まれてしまった変な間を、しっかりと埋めてくれるファリス。ありがとう、未来のわが友よ。


「ああ、こちらこそ。それで、ファリス。今日ここに来たのは御父上の報告だけ、と言う訳でも無いのだろう?」


 私は知っていた。代々のロチェスター伯爵がそうだったように。初めてローガンがここに来た時もそうだったように。

 今日は、ファリス・ロチェスター伯爵がロチェスター家の罪と、私の罪、そしてヴァンパイアの秘密の謎、それらを解きあかす、その始まりの日だ。

 代々のロチェスター伯爵との取り決め、ヴァンパイアの秘密、何を伝えて、何を伝えないか。それは、毎回同じなのだ。


「はい。私は、生前の父に、ヴァンパイアの秘密を聞くように言われて、ここに参りました」


 そう、そうだ、それでいい。


 私とファリスの戦いはここから始まる。


「わかった。では代々のロチェスター伯爵との取り決めに従い、先にこれだけ教えよう」

「なんです?」


 私は、代々のロチェスター伯爵と同じように、今まで、始まりに何度となく伝えてきた、この「最初の言葉」を彼に伝えた。



「ヴァンパイアは人には殺せない。


ヴァンパイアは人を殺さない。


ヴァンパイアは増えない。


これが我々ヴァンパイアのルールだ」




(つづく)

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