第10話 許されない恋
榊原は、慶子にとって初めての男だった。こんな自分でも相手をしてくれる男性がいたことが嬉しかった。
彼は口髭を生やしている
その関係は、一人の目立たない事務員の女と、その相手は妻子があり、分別もある部長という肩書きを持った男だった。
初めて経験した人、上司でありしかしその人には妻がいる。
彼と交わりながら、これが『不倫なのね』と自分に言い聞かせていた。そういうことはテレビのドラマなどで見ていたが、まさかその渦中に自分がいることが不思議でならなかった。
その夜、榊原はホテルに備え付けのコンドームで避妊をしていた。キスをして感極まったときに慶子に抱きつきながら中で彼が射精したときには、慶子は本当に嬉しかった。これでやっと自分は本当の女になったような気がした。
しかし、その相手とは、これからも人知れずに逢瀬を重ねることになるかもしれない不安と焦りと、そして密かなる欲望に、思わず胸が熱くなっていた。
しかし、そんな逢瀬を幾度も重ねていればいずれは誰かにそれが分かってしまう。案の定、社内では(へえ、あの慶子さんが、部長と浮気を……)という噂が流れているのを慶子は知ってしまったからだ。
或る夜、いつものようにアパートの自分の部屋で慶子は榊原に抱かれながら、彼に言った。
「あの、部長。わたしたちの関係が会社で噂されています。もうこれ以上……」
慶子は、榊原の胸に抱かれながらシクシク泣いていた。
「そうか……それはわたしの責任だな」
「わたしにはわかりません。でも、これからどうしましょうか?」
言葉では、そう言いながらも好きになってしまった榊原と別れるのは辛い。
「そうだな。人目があることだし、しばらく逢うのを控えようか」
「は、はい……」
その後で二人は激しく燃えて結合し、いつまでも抱き合った。
「じゃあ、またな。慶子」
「はい……」
榊原が見た慶子の顔は、彼が今まで見たことがないような寂しい顔をしていた。後ろ髪を引かれる思いで榊原は慶子の部屋を出て行った。榊原が自分の部屋から出て行ったのを見届けた慶子は急に
(もう、榊原さんとは逢えないかもしれない……)
そう思うと、どこからか胸の奥から湧き上がる寂しさを憶える慶子だった。いつ来たのか自分が風呂場にいるのかさえ憶えていない。(別れ)という言葉が頭の中を駆け巡っていた、遠い時間が過ぎていくような気がした。
そして、風呂場で、無意識で掴んだ剃刀の刃を見つめながら彼女は思った。
(誰からも愛されないで、誰からも誘われたことがないわたしを抱いてくれたのは榊原さんだった。でももう逢えない……これ以上生きていても……)そう思いながら右手で持った剃刀で手首を切っていた。
始めは(痛い!)という感じはしたが、やがて意識が遠くなる気がして意識が
あれから慶子の部屋から出て行った榊原だったが、なぜか慶子が気になっていた。そのときの何とも言えない悲しく、寂しいその顔を……それを虫の知らせというのだろうか。
通りのタクシーに乗りかけたとき、彼はタクシーの運転手に言った。
「あっ、これは失礼。ちょっと忘れ物をしたので……」
「えっ? ではここでお待ちしましょうか」
「いや、結構です」
運転手は(ちぇっ!)と言いながら彼の車と共にどこかへ走り去って行った。
榊原はどうしても慶子が気になっていた。一途な性格の慶子をあのままにして良いのだろうか? もっと優しい言葉をかけてやらなければ……そればかりが気になっていた。
部屋のドアを叩いても慶子の返事がない。気になってドアのノブに手を掛けたときそれが開いた。
「慶子、戻ってきたよ」
さっきまでいた部屋にいるはずの慶子の返事がないのに榊原は焦った。ぐるりと部屋を見渡してもいない。そして風呂場にうずくまっていた慶子をみて榊原は珍しく動転した。
風呂場のタイルには赤い鮮血が流れ、そこに気を失っている慶子を発見したからである。
「慶子! 慶子!」
慶子の手首の傷はそれほど深くないようだった。そこにあったタオルを手首に巻いて、榊原は携帯電話をとりだし「110」を押した。
「救急車をお願いします!」
「どうしましたか?」
「女性がリストカットを……」
「それはいつころですか?」
「いまです。たったいま。五分ほど前です」
「すぐに止血をして処置をしてからでいいです。そこの場所を言って下さい」
「はい」
こうして、慶子は一命をとりとめることができた。
後で、警察からの取り調べがあったとき、榊原は生きた心地がしなかった。これが表沙汰になると慶子も自分もおおごとになるとまずいと思ったからだ。
しかしこれが初めてであり傷が浅かったのでなんとかなったのは不幸中の幸いだった。部長である榊原は総務部長にかけあって慶子を休暇扱いにしてもらった。しかし、その噂はどこからか漏れており、このまま慶子がその会社で仕事をすることが困難だった。数日して、榊原は休暇中の慶子の部屋を訪ねた。
「どうかな、手の傷は……」
「はい。だいぶ良くなってきました。ご迷惑をおかけしました」
「そんなことは良いんだ。でもこのままで会社に出勤できるかな?」
「いえ。これ以上会社にいると皆さんの目に絶えられません。でも辞めてしまいますと、生活が……」
「そうだね。わかった。なんとかしよう。系列の別の会社という手がある。そこを紹介しよう。なに、心配しなくて良いよ。そこは私の同僚が総務部長をしているんだ。話を付けよう」
「はい、有り難うございます」
それから、榊原が奔走して慶子は親会社の事務員として移籍が出来たのである。それ以来、二人が会うことは無かった。
こうして、慶子は、親会社の事務員としてその会社で採用されたのである。それがいま会議室で榊原が見つめている愛川慶子だった。
その慶子が元気な姿を見て榊原康雄はほっとした。榊原が良かったねという意味を目でウインクをすると、慶子は微笑みながら頷いた。そして彼は思った。
(慶子はこの部署でうまくやっているようでわたしも安心した。これで今は良かったのかもしれない)
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