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「信永さま! 信永さま!」
声だ。
「信永さま。いけません。悪夢に囚われてはいけません。目をお覚まし下さい」
蘇芳エルザの声だ。
彼女は、俺の前から消えたんじゃないのか。
「信永さま」
悲しそうな声だ。
「信永さま」
それでも必死に俺の名前を呼んでくれている。
異世界から俺を守る為に転生を選び、自ら命を断ったらしい金髪の少女は、何故そこまで俺のことを想うのだろうか。俺が彼女にしてやったことなど、何もない。どういう経緯があるのか知らないが、俺をマイロードと呼び、命を懸けて守ろうとする。そんな風に自分が誰かに想われたことなど、今までに一度もない。親ですら、そんな表情を見せたことはないのだ。
分からなかった。
「信永、さま……」
けれど、俺を呼び続けるその声に応える気力は残っていた。俺は拳を握り締め、自分が自分であることを確かめる。呼吸はできる。皮膚も感覚が戻ってきた。鼓動は大丈夫だ。
徐々に表情筋に力が入っていく。頬筋、
俺の視界に光が戻った。
「信永さま!」
「蘇芳さん」
ふわりとした金髪が俺の胸元に飛び込んできて抱きつく。
「よかった」
「俺は……」
自分の周囲を確認する。そこは元の教室だった。涙を浮かべた蘇芳エルザが俺の胸元に顔を寄せている。
教室の前の方の入口にはビルギットが立っているが、顔は青ざめ、胸元に血が付いていた。
そうだ。蘇芳エルザの姉。
振り返ると彼女の姿は見当たらない。
「君のお姉さんは?」
「たぶん、転生から漏れたのかと」
「漏れる?」
「ここはつい先程、信永さまが作られた異世界。似ているようですが、死ななかった世界です」
「ああ。蘇芳さんが説明してくれたやつか。本当に転生を? 俺が?」
「はい」
「じゃあ、俺にとって障害となる人物だからこの世界から排除された、ということか?」
「おそらくは。ただわたしたちも転生による異世界構築については、まだまだ未知なところがあり、本当に排除され、存在しなくなるのか、それともただ死の危険を遠ざける為に目の前からいなくなっただけなのか、よく分かりません」
「ここが転生した世界だというのなら、何故蘇芳さんは記憶を共有しているんだ?」
「それはわたしが王族だからです。メモワールの一族はかつて始祖の転生族から十三に分かれた血族の一つなのです。ですから、いくらかは転生族のような力が残されています。メモワールの血は特に記憶に関して、その能力をより強く残している一族なのです」
「そうか。つまり、蘇芳さんたちは転生族の血を引いているから、転生して俺の世界にやってこられた、という訳なんだ」
「厳密には違うのですが、今はそういう理解で構いません」
転生については分からないことが多い。彼女からいくつか説明されたものの、実際に転生した本人ですら違和感ということでしか表現できない。それに彼女たちもまだ分かっていない部分が多いと言うのだから、そういうものなのだろう。
「ところで蘇芳さん。何故君の姉は、いや姉たちは俺を殺そうとするんだ? 俺の力が欲しいなら仲間に引き入れるなど、他にも方法があるだろう?」
そう。殺しても死なないという俺を殺す。それも何度も殺すということが、一体彼女たちの利益になっているのかどうか、それがよく理解できない。無意味な行為なんじゃないかとすら思えるが、彼女と姉の会話の内容からするとどうもそうではなさそうだ。
「殺すことが目的ではないのです。精神を破壊してしまうことこそ、姉たちの狙い」
「つまり俺の人格は不要で、この能力だけが欲しいと、そういうことだな?」
「はい」
「転生することの副作用なのだろうが、俺の精神は前の世界と新しく作られた異世界との間を埋める為にいつも僅かな混乱を抱えていた。それは短期間に何度も転生することでより大きくなり、それに加えて君たちの記憶の操作が加わり、正常を保てなくなりつつあった」
だから、未央の部屋を作ったのだ。幼い頃に、未央によく作ってやった。もうそんな記憶すら失われていたが、最近は未央にとっても俺にとってもあの外界から隔離された自分たちだけの世界が必要なくなっていた、ということなのだろう。
あれを俺は一種の夢だと思い込んでいた。
しかし本当に自分たちだけの世界を創ってしまっていたのだ。
「それでもいまいち分からないな。何故もっと強引な手法で俺の異世界転生能力を使わないんだ? 例えば未央を人質にするとか、何でも方法はあるはずだ」
「その能力を利用したいが故です。自発的に信永さまが能力を用いた場合、やはりそこには信永さまの意思が濃く反映されます。例えばこの世界を破壊し、全く新しい、わたしたちの暮らしている世界を作る、ということになったとしても、それはこの世界に非常によく似たものとなってしまうでしょう。無意識の力というのは想像以上に影響が大きいのです」
「それじゃあ君たちは俺が廃人になってしまった後に、能力だけを使う方法を確立している、ということだな?」
「そうですね」
だから俺が死ななくてもいいし、もっと言えば俺の能力だけあればいいから俺の情に訴えるとか、そういう面倒な手段を持ち込む必要がない訳だ。とにかく俺を殺して殺して殺しまくれば自然と精神が破壊される。奴らの目的はただそれだけだった。
だから一緒にいた蘇芳エルザやビルギットには目もくれず、俺をいつも狙っていたのだ。
「分かったよ。じゃあ、そろそろこちらの反撃といこうか。なあ、蘇芳さん。いや……エルザ」
名を口にした俺を、彼女は驚きながらも頷いて、それから十秒ほど経ってからリトマス試験紙が変化するように、頬を朱に染めたのだった。
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