転生5
1
「信永。おい、信永」
猛田の声だ。次いで背中を揺すられる。
「何だよ、猛田」
「私は猛田ではない。高峰玲奈だが」
「せ、先生」
古文の授業中だったらしい。俺は慌てて教科書を手に取ろうとしたが、机の上には教科書どころかノートすら出ていなかった。
「凰寺。君は学校に何をしに来ているんだ? 蘇芳エルザといちゃつく為に来ているのか?」
「蘇芳さん?」
叱られるのは仕方ないとして、何故突然蘇芳エルザの名が出てくるのだろうと俺の隣を見ると、彼女が口元を隠して笑っていた。確か猛田の隣だったはずだが、そこには褐色の肌をした赤茶のショートヘアの女性が座っている。ビルギットだ。
「いつまでもぼーっとしてない。では凰寺。枕草子を書いた清少納言とは何者だ?」
「平安時代、中宮の藤原定子に使えた女官。歌人であり、枕草子は後に日本三大随筆の一つと呼ばれる平安時代を代表する文学である」
「相変わらずだな。では、次のページ」
口元に笑みを浮かべ、高峰先生は前の方へと歩いていく。教科書を読む役を与えられたのは俺ではなく、前の方の席に座る生徒だった。
後ろでくすくすと猛田が笑っているが、俺は彼の笑い声よりも何度も視線を俺に向け、一人ほくそ笑んでいる蘇芳エルザと、その後ろの席からやはり俺を睨みつけている紅石ビルギットの二人の方がずっと気になっていた。
それから残り四十三分ほどの授業時間を終えるのを待ってから、俺は席を立ち、蘇芳エルザの机の上で両手を突いた。
「蘇芳さん、単刀直入に尋ねる。君が何かしたのか?」
最初は俺の顔を見て微笑を浮かべていた蘇芳エルザだったが、その質問に金色の眉を寄せ、小首を傾げた。
「俺の記憶の中では君の席はこの一つ後ろ側、猛田の隣だった。けれど今そこに座っているのは紅石さんの方で、しかも彼女は何故かうちの学校の制服を着ている。このことに違和感を抱いているのは俺だけらしいが、もし何かしたのなら告白してもらいたい。君の言動いかんによっては、俺も考えがある」
今までは微妙な記憶の差を自分の思い違いや勘違い、時々ある記憶と夢の混濁だと考えていた。
けれど今回は明らかに状況が異なっている。しかも、それを感じてるのは俺だけなのだ。
「ビル。次の授業は何でしたかしら」
「英語です」
「分かりました。それでは信永さま、少し席を外しましょう。宜しいですね?」
ああ、と頷き、俺は立ち上がった蘇芳エルザに続いて教室を出た。
生徒たちの視線は「何が起こるのだろう」という期待に満ちた眼差しだったが、未央だけが心配そうにこちらを見つめていた。
廊下を歩いていても蘇芳エルザは常に生徒たちから注目を浴びる存在だ。一緒に歩いている俺も、背後霊のように付き添って、足音もなくついてくるビルギットも、それを一緒に浴びてしまう。
普段ならそういうものだと思って気にしないようにしていたのだが、階段を一つ上ったところで急に空気が重く冷たくなったのを感じた。休み時間で生徒がいない、という訳ではない。けれど踊り場から上、三階部分に上がると、廊下には一人として生徒の姿が見えなかった。
「こちらを使わせていただきましょう」
そこは三年一組と書かれていたが中には誰もいない。移動教室で全員が出ている、という可能性以外に、誰もいない理由が思い浮かばなかった。
蘇芳エルザは中央の教壇に立ち、俺は一番前の席に座った。ビルギットは教室の入口で廊下側に立ち、何かを警戒している。
「あまりこういうことはしたくなかったのですが、少し人払いをしました」
「どういう仕組みだ?」
「話しても信じられないでしょうが、人間も野生ではなくなったとはいえ動物です。理性を持っていますから全てが本能のままに、とはいきませんが、それでも何となく嫌な感じがする場所には近づかないものでしょう? そういう無意識を利用して、この階の生徒の方々には他所に避難していただきました」
「それを信じろ、と言われてもにわかには難しいが、少なくとも君が何かしたことで教室が空っぽになった、ということだな」
「それで構いません」
「つまりそれは、君には俺の知り得ない能力があるということでもある」
「はい」
蘇芳エルザの受け答えは淡々としていた。それは事務的なのか、それとも俺の動向を探っているのか、相変わらず感情を読み取ることができない。
「じゃあ、その前提でもう一度同じ質問をする。この状況、というのは蘇芳さんたちが現れてからの全ての変化だ。それは全部ではないにしてもそのほとんどが蘇芳さん、君が何かしたことによって起こった変化なのか?」
奇妙な転校生。
割れていた窓ガラス。
いつの間にか俺と同棲し、それを周囲の誰も疑問に思っていない。
よく夢に見る黒尽くめの女と、謎の鉄製の武器。
それに、蘇芳エルザが取り出す光の剣。
最近夢なのか現実なのか、よく分からなくなる瞬間が増えていた。それに加えてその夢と地続きなようで、整合性の取れていない現実は、自分がついさっきまで知っていたものと異なっている。敢えて呼ぶならそれは“異世界”だった。大きく違う訳ではない。けれど僅かな差が、俺自身にはすごい違和感として認識されるのだ。
「わたしは最初に言いました。世界を知ることは世界が広がることでもありますが、それはとても危険なことでもあるのです。そして信永さまはご自身がマイロードであるということを、いえ、少なくともこの世界の人間ではないということを知られました」
それは最初の夢の中の話だ。俺は彼女から自分がマイロードと言われ、この世界の生まれでないと言われ、転生してここにやってきたと教えられた。
「知ることによって、信永さまの世界は変容したのです。ですから直接ではないにしろ、わたしが関与していなかったとは言えません」
「言いたいことは分かるが、俺が知りたいのはそういうことじゃない。君たちが直接何かをしたから、俺の生きている世界に変化があったんだろうと尋ねているんだ」
「世界は常に変化しています。その変化を生み出しているのは一体何でしょう」
「そういう哲学的な問答をしている訳じゃない」
「哲学ではありません。認識の問題なのです。信永さまは勘違いをされています。今この瞬間、目の前で感じるものこそが現実ではございませんか? わたしがいて、信永さまがいて。黒板に文字を書けばそれを互いに読むことができる」
そう話しながら蘇芳エルザはチョークを手に取り『世界』と書いた。丁寧な、印字されたようにも思える楷書だ。
「世界というものをわたしたちが知ることができるのは、認識によってです。目を、耳を、鼻を、口を、肌を使い、世界を感じることが認識の第一歩ですが、それらの情報は一旦脳によって処理されます。この脳による認識により、わたしたちの世界は作られています」
世界に続き『脳』と『認識』が書かれる。
「これは認識されないものは世界ではない、ということでもあります。例えば今信永さまはわたしのことを認識されていますが、見ていても認識してなければ、わたしはこの世界には存在しません」
「幽霊のようなもの、という訳か?」
「いえ。幽霊ですら、感知する人にとっては存在しています。存在しないというのは、その世界にとって未来永劫、無と同等だということです」
「死んでいる、ということか?」
「死すらありません。無とはそういうものです」
右のこめかみがチリチリと痛んだ。
俺は彼女の手によって新たに書かれた『無』という文字を睨むようにして見つめた。
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