十九話 道程
「くふふ」
特に理由も無くニグラトの表情がほころぶ。笑い方そのものはあんまり可愛くないのにその容姿も相まって綺麗だという感想しか浮かんでこない。
相変わらず彼女の素性を知らなければそれだけで心を奪われそうだと蓮太は思う。
「機嫌、良さそうだな」
「良いに決まっておろう」
くふふ、とまたニグラトが笑う。
「何せ旦那様とのデートなのじゃからな」
「…………」
それを口にするその表情は
彼らはきっとなぜ自分がそんな状態になっているのか理解すらできていないはずだ…………はた迷惑だが蓮太にはどうしようもない。
今のニグラトに自重しろというのは流石に難しいと誰でもわかる。もちろん機嫌自体がいいのは間違いないが、だからこそそこに水を差されれば激しい怒りに変わることだろう。
なにせ今は以前ニグラトに約束したデートの当日だ。家を出る前どころかその前日から彼女は嬉しそうな雰囲気をずっと
「デートって言ってもそんな期待するようなもんじゃないからな」
そもそもニグラトという存在自体が規格外なのだ。普通のデートコースに誘ったところで彼女が満足できるはずもない。
「くふふ、わかっておるとも」
しかしそんなことは承知だというようにニグラトは蓮太を見る。
「重要なのは旦那様がわしを気遣ってもてなそうとしてくれておるというその事実…………それさえあれば例え行く先がゴミ溜めであったとしてもわしは楽しめるとも」
そう言ってニグラトはにぃっと嗤う。
「まあ、元々この地はわしにとってゴミ溜めのようなものではあるがな」
「そのゴミ溜めに住む人間をお前は好きになったんだろ」
「その通りじゃな」
くふふ、とまたニグラトは笑う。
「旦那様は中々痛いところを突く」
その表情は実に楽し気だ。
「しかしわしも流石に旦那様の特別な場所までゴミとは言わぬよ」
「…………別に大した場所じゃない」
小さい頃に両親に連れられて行った山奥のあまり人気のないキャンプ地というだけだ。けれど子供ながらに大自然の荘厳さに感動して、何か大きなものに触れられたような気分になった記憶がある。
そんな思い出の場所にニグラトを連れて行く理由は唯一つ…………
神無と協力することになった蓮太はニグラトを情報を引き出す目的でデートに誘ったことも伝えた。そして神無はそれを利用してニグラトを人気のない場所におびき出すことを考えたのだ…………下手に人の居る場所で争いになれば被害が大きいからと。
そんなことを言われては蓮太に断れるわけもなく承諾するしかない。けれど人気も無くニグラトにデート先としておかしいと思われない場所というのは難しい…………その条件に当てはまりそうなのが蓮太の思い出の場所くらいしかなかったのだ。
ニグラト自身が口にした通り彼の思い入れのある場所ならば、彼女にとってデート先としては楽しめるのだから。
「くふふ、
心を読んではいないという癖に確信めいてニグラトは口にする。
「その土地に旦那様がかなりの思い入れがあるのは見ればわかる…………本当ならわしを連れて行きたくは無かったのじゃろう?」
「…………」
その通りだ。他に当てがなかったとはいえ思い出の場所にニグラトを連れて行きたくなんてなかった…………なにせ神無と彼女の争いの結果ではその場所が無残なことになる可能性だってあるのだ。
しかし幸いというかニグラトはそんな蓮太の心情を単純に捉えてくれているようで、彼女を陥れようとしているとは思っていないようだ…………まあ、彼に読み取れるのは表面的なもので内心がどうなのかは相変わらずさっぱりだが。
「お前に礼をするって約束だ」
いずれにせよ蓮太が出来ることはその建前を押し通すことだけだ。
「わかっておるとも」
それに鷹揚にニグラトは頷く。
「近くまでは電車で行くから…………あー、周囲に人が来ないようにしてくれるか?」
考えてみればニグラトを電車に乗せるのは初めてだ。認識阻害で注目はされないかもしれないが賑わう電車で人々に密集されて彼女が何をするかはわからない…………もちろん本能的に避けられる可能性もあるが予め頼んだ方が確実だ。
「了解じゃ」
ニグラトは頷く。蓮太が失礼な想像をしているのはわかっているだろうに気分を害したような様子はない。相変わらず表面上は蓮太に対して彼女はどこまでも寛大に見える。
だが、その寛大さは果たしてこれがデートなどではなくニグラトを陥れるための策略だと知った後でも維持されるのだろうか…………もちろん神無による彼女の追放が成功すればそれは悩む必要もない。
ただそれが失敗したならば……………考えるのは良そうと蓮太は思考を打ち切った。
◇
「ここからしばらく歩く」
「うむ」
何事も無く電車を乗り終えてバスに乗り換え、ほとんど乗客のいない車内に揺られながら目的地近くに到着した。ここからしばらくは殆ど民家も無く塗装もされていない道を山に向かって歩いて行くだけだ。
昔家族で来た時は車だったのであっという間だったが、流石に学生の蓮太の身の上では徒歩以外選択肢はない。
「…………」
「…………」
特に反対することもなくニグラトはニコニコしたまま蓮太に続いて歩き出した。
「あの、さ」
それになんとなく耐えきれなくなって蓮太はこれまで抱いていた疑問を口にする。
「さっきから文句も言わないけど力使って移動しようとかは思わないのか?」
これまでですでに移動に2時間弱かけているが、それは蓮太の提案した目的地までの移動方法が人間の常識の範疇にあるものだからだ。
しかしニグラトが移動しようと思えば恐らく一瞬で目的地には到達できるだろう。
「くふふ、そんな無粋な真似はせぬよ」
もったいないというように彼女は肩を竦める。
「デートは目的地にたどり着く事ではなく二人で行動する全てを楽しむ物であろう? それなのに二人で移動するという貴重な過程を省略してしまうのはもったいないではないか」
そう言って同意を求めるように視線を向けられるが、そもそも蓮太にはこのデートを楽しもうという気持ちは無いので求められても困る。
「…………お前がそれでいいならいいさ」
しかし建前とは言え今回の目的は蓮太に様々な譲歩をしてくれているニグラトを喜ばせる事だ。彼女がそれでいいと言っているなら彼が何か言う必要もない。
「ところで旦那様」
改めて歩き出したところでニグラトが口を開く。
「なんだよ」
「旦那様の両親はどういう方なのじゃ?」
「…………いきなりなんだよ」
いきなりすぎて思わず警戒した声が出た。
「くふふ、別に警戒の必要はないのじゃぞ?」
「…………するなって方が無理だろ」
開き直って蓮太は答える。そもそもニグラトが普通の人間である蓮太の両親に興味を持つことなどありえないのだから、何か裏があると勘ぐっても仕方ない。
例えばこれから起こることの全てをすでに彼女は把握していて、彼の両親を人質にする形で牽制しようとしているのかもしれない…………まあ、それは勘繰り過ぎだろうとも思う。
蓮太相手に人質を取って対抗しようなどニグラトという存在の強大さからすればあまりにも小者すぎる行動だ。
「愛する相手の親族に興味を抱くのは当然のことじゃろう?」
「それがごく普通の人間でもか?」
百歩譲って蓮太が普通の人間でなくなっていることを認めたとしても、それは両親には全く関係ないところで起こった話だ。
いくら二人から彼が生まれたといっても遡って影響を与えるような類のものではない。
「確かにわしは普通の人間など潰しても構わぬ玩具程度にしか思っておらん」
それは先日に蓮太が改めてニグラトに確認したことだ。
「しかしこのデートを楽しんで居るようにわしは旦那様の大切なものは尊重する…………ましてや二人は旦那様を生み出した張本人じゃぞ? わしの旦那様への愛情を除いても興味を抱かぬはずが無かろう?」
蓮太の現状はまさしく彼の起こした奇跡によるものと言っていい状況ではあるが、それでもそれはどれだけ低くとも起こり得る可能性の中から起こった結果に過ぎない。
そしてその要因は間違いなく彼を生み出した両親にも含まれているのだ。
「手を出すなよ」
興味と言われて二人を解体するニグラトの姿が想像できた。
「今しがた尊重すると言うたばかりではないか」
本当に可愛らしい旦那様だとニグラトは笑う。
「それで?」
そして首を僅かに捻って彼を見た。
「それでってなんだよ」
「まだわしの質問に答えて貰っておらぬじゃろう?」
「質問って…………」
両親がどういう人間か、だったかと蓮太は思い出す。
「そんなのお前なら俺に聞かなくても…………そもそも母さんの朝食再現してなかったか?」
ニグラトと出会って間もない頃に、いきなり実家の味を出されて蓮太は背筋が凍った記憶がある。
「あれは旦那様の食事に関する記憶を読んだだけじゃ…………今は旦那様に配慮してそう言った真似はしておらぬしの」
「…………」
つまりは蓮太の両親のこともそれ以上は知らないということらしい。
「別に、普通の親だよ…………いや世間一般の普通とはちょっと違うかもしれないけどな」
諦めたように蓮太は話し始める。
「普通に愛されて育ったとは思うし、今は離れてるけど気にかけてはもらってる」
もう高校生だから自立できるだろと両親揃って海外出張に行ってしまいはしたが、その代わりに高校から近いアパートは借りてくれたし高校生には不相応な小遣いが残るような生活費も振り込まれている。
そして金を与えたから後は勝手にという放任でもなく、それなりの頻度で電話は掛かって来るし休暇には一時帰国の計画も立てているようだ。
「変わった人たちではあると思うけどな」
両親ともに仕事人間であり同じ会社で実に楽しく仕事をしているらしい。それでも蓮太が高校に上がるまではこちらを優先してくれており、授業参観などのイベントごとにはきっちり顔を出したしご飯もきっちり手作りだった。
しかし高校入学が決まった途端、蓮太に後は頑張れと告げて海外出張を会社に願い出たのだから変わった両親ではあると思う。
「違う、というのは良いことじゃ」
なぜなら新しいものとは多くの場合違うものから生まれる。
「まあ、悪くは思ってないさ」
思えば今から向かう場所だって蓮太の思いで作りの為に両親が時間を割いてくれたのだ。なんというかそういう所はきっちりしている両親で、ちゃんと彼だってその愛情を返したいとは思っている。
「ところで」
しかしそれを口にするのは気恥ずかしいので蓮太は話をニグラトへと向ける。
「お前の方はどうなんだ?」
「わしかの?」
それに彼女は首を傾げる。
「いや、お前に両親的な存在が…………いるのか?」
思わず疑問形になってしまったのはそんな想像が出来なかったからだ。
「ふむ、今となっては何も思い出せぬようなものじゃが…………最初からわしは一つの存在であったはずじゃ」
「そうか」
なんだか悪いことを聞いたような気分に蓮太はなるが…………当のニグラトは笑みを崩さなかった。
「じゃからこそ、わしは伴侶を求めるのかもしれぬな」
その代わりにただその頬を赤く染めて、艶のある表情で蓮太を見た。
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