十四話 誘い

「ふむ、旦那様。先程から幾度となくわしに視線を送っておるが何か用かの?」

「…………なんでもない」


 ニグラト本人から自身の不利になる情報を聞き出す、叶からの提案に一度は実行を考えた蓮太だったが家に戻っていざニグラトと対峙すると決心は鈍っていた。


 思考の上ではもしかしたらいけるのではと思えていても、実際に彼女の顔を見るとうまくいく気がまるでしないからだ。


「…………」


 だがそれでも今のところ他に方法は無い…………もちろん当初の方針通り図書館などで資料を探し続けるという手段はある。しかしその場合は祀の言う通り有用な情報を見つけてもそれが今も使えるかどうかわからないし、使えるとしてもその道具なり手段なりを手に入れることは難しいだろう。


 つまるところその手段は目的を達するためにとても時間が掛かる…………とは言えそれは堅実な手段でもあるのだ。なにせ危険がない。


 反対にニグラトからうまく情報を聞き出すというのは手っ取り早いが危険が大きい。一度はその危険もどうせ今と変わらないと思えたが、実際に前にするとやはり躊躇ちゅうちょする。


「なあ」

「なにかな、旦那様」

「…………本当に家で大人しくしてたのか?」


 それでも切り出そうとした蓮太は反射的に別のことを尋ねていた。彼女を常に目に届くところに置いておくことはもはや諦めているので、これは単なる逃避だ。


 そもそもこの場に居ても地球の裏側に干渉できそうな存在を見張ることに意味は無い。


「もちろん、わしは旦那様に嘘は付かぬよ」


 つまるところその言葉を信じる以外にはないのだ…………素直に信じられたら蓮太だって胃に穴が開くような気分を味わわなくて済むのだが。


「…………」


 しかし、しかしである。仮に、仮にだがそれが本当だと仮定すると自分に対してニグラトは随分譲歩していると蓮太は思う。彼女の持つ力を考えれば彼の都合に従って大人しくしているというのは異常とも言えるくらいだろう。


 だとすればそれに感謝を示すのはおかしい話ではない…………もちろんニグラトの言葉が全て真実であるという仮定の下になるが。


「お前は俺を…………愛している、んだよな?」

「!」


 躊躇いつつも尋ねるとニグラトは驚いたように夏樹を見る。彼女のそんな表情を見るのは彼も初めてだったように思う。


「もちろんわしは旦那様を愛しておるが…………今更確認することでは無かろう?」


 しかしそんな表情も即座に消えて怪訝けげんそうな顔へと変わる。真偽は置いておいてもそれは常日頃から彼女が口にしている事なのであえて確認するようなことではないからだ。


「俺はそれを信じてない…………信じてないんだが」


 その先を口にするかどうかこの期に及んで蓮太は迷う。


「くふふ、信じてもらえるようわしは待つだけじゃとも」


 そんな様子の彼をいつものようにニグラトは微笑ましく見守る…………それも客観的に見ると彼女は実に寛大だと思える。普通に考えれば真正面から自分の愛情を信じてないと言われて憤らないはずもないのだから。


 だが本気ではないからこそ憤らないという考え方も出来るので、蓮太の疑心暗鬼が晴れることは無いのである。


「それをとりあえずは信じるとして、だ」


 いずれにせよその前提で行動するしか蓮太の未来に救いは無い。


「ほう」


 明らかに言葉にしただけの信用ではあるが、それでも彼が彼女の好意を受け入れたのが初めてだったからかニグラトが意外そうに蓮太を見やる。


「それはつまりわしとまぐわいたいという事かの?」

「…………なんでそうなる」


 どう考えても飛躍ひやくし過ぎだ。


「口では否定しつつも男しての本能はわしの魅力に抗えなくなったのかと思ったのじゃが?」


 蠱惑的こわくてきに微笑みつつニグラトはその肢体に手を這わせてその肉感を強調する。


 相変わらずその容姿だけは絶世の美女という言葉だけでは表せないほど綺麗だし、その豊満な身体は意識しないと蓮太の視線も惹きつけられる…………あの胸とか卑怯だと彼は思う。


「違う!」


 煩悩を振り払うように蓮太はそれを強く否定する。


「…………というか仮にそうだとしてお前はそれでいいのか?」


 その場合蓮太は体目当てで都合よくニグラトを使おうとしていることになる。


「もちろん、構わぬとも」


 くふふ、と彼女は笑う。


「最初は体だけでもいずれ心が繋がればよい…………例え旦那様がわしを道具のように扱おうとも、それが極上のものであればそのうち愛着とて湧こうものじゃろう?」

「…………」


 その可能性は否定できないというか多分高いと蓮太も思う。体の関係だと割り切れるほど彼は達観していないし、そうなれば間違いなく情を抱いてしまうだろう。


 もちろんニグラトから襲ってきた場合はその限りではないが…………だからこそ彼女も誘惑はしてもその一線を踏み越えて来ないのかもしれない。


「話を戻すぞ」


 深みにハマるとまずいので蓮太はさっさと話題を戻すことにする。


「とりあえず、現状お前の愛情を認める以外にないことが俺はよくわかった」

「それは喜ばしいことじゃな」


 嬉しそうにニグラトは目を細める。


「それで、だ」


 前置いて、もはやままよと蓮太は本題を口にする。


「仮にその感情が本当だとしたら俺はかなり不誠実な事をしているし、そうでないにしてもお前がかなりの譲歩をしてくれているのは間違いないよな?」

「わしは尽くす女じゃから特に気にしておらぬよ」


 何の強がりでもなく本当に気にしていない表情だ…………ニグラト曰く蓮太との仲は長い目で見ているからとのことだが、それは超越者の考え方であって人間的な考え方の蓮太が彼女を信用できない要因でもある。


「俺は気にするんだ」


 気にしなくてはいけないのだと蓮太は思う。

 例えそれが別の目的の為の建前であっても、だ。


「ふむ、それで旦那様は結局のところ何が言いたいのじゃ?」

「あー、つまりだな」


 この期に及んで躊躇すべきではないのだがそれでも蓮太は言い淀んでしまう。


「俺はお前に感謝、というか何かしら好意に対する返礼が必要なんじゃないかと思うんだ」

「旦那様がわしに返礼…………じゃと?」

「ああ」


 もはや引き返せないと蓮太は頷く。


「それはつまりわしとまぐわうということでは?」

「だからなんでそうなる」

「旦那様のお情けを頂ければわしとしてはこの上ない返礼になるのじゃが」


 くふふ、とまたニグラトが笑う。それが蓮太をからかっているのかそうでないのか彼にはやはり判別できなかった。


「そういう方向じゃなくてだな…………こう、普通にどこかに行ったりとか。常識の範囲内で俺にして欲しいことがあったらそれをするとかだ」


 物を贈っても喜ぶようなものは無いだろうし、そうなると返礼になるのはやはり蓮太が絡んだ何かでしかないだろう…………もちろん、さっきのような返答が無いよう改めて常識の範囲内という釘は刺すが。


「それはつまりデートの誘いと捉えても良いのかの?」

「お前がそれで返礼になると思うならそれで構わないけど」


 提案しておいてなんだが蓮太には疑問が浮かぶ。


「出かけるにしたって普通のところだが、お前は満足できるのか?」


 なにせニグラトは堕ちたとはいえ神の如き存在だ。人間の女性が喜ぶ場所なら蓮太だって幾つか思い浮かぶが、そんな存在が喜ぶようなところは思いつかない…………例えばだが火星を見に行きたいとか言われても困るだけだ。


「構わぬとも」


 しかしニグラトは全く気にした様子を見せない。


「旦那様と共に過ごすのならばいかにゴミ溜めのような場所であろうとも宝に囲まれているようなものじゃ。いかなる不快を覚えようとも寛大に対処できるとも」


 うむうむ、と頷くニグラトだが蓮太としては疑う気持ちはやはりある…………けれど学校で大人しくしていることを考えれば信用できるのだろうかとも迷う。


 そもそもこの件の目的としては彼女が不利な情報をうっかり口を滑らすくらい喜んで貰うことにあるわけで、我慢させるような状況は出来れば避けるべきだ。念入りな場所の検討は必要だろう。


「どこへ行くかに関しては検討するけど…………デートでいいんだな?」

「うむ」


 ニグラトは頷く。


「常識の範囲内で旦那様に頼みごとをするのも心躍るが、わしもやはり女として旦那様にリードされたいという気持ちはあるからの…………楽しみにしておるぞ?」

「…………」


 仮にニグラトが極普通の恋する乙女だったとしてもハードルは物凄く高くなったと蓮太は感じた。


「しかし旦那様」


 ふと話題を変えるようにニグラトが口を開く。


「なんだよ」

「いや、わしとしては旦那様の突然の提案に随分と驚いたのでな…………誰かしらのアドバイスがあったのかと思っただけじゃ」

「…………」


 それに蓮太は押し黙る。よくよく考えてみれば祀からのアドバイスから何もかもニグラトにばれている可能性もある…………というか読もうと思えば目の前の存在は彼の心だって読めるのだから。


「お前なら、別に聞かなくたってわかるだろ?」

「無論、やろうと思えばやれるとも」


 誤魔化すことなくニグラトは頷く。


「しかしわしもそれが旦那様のわしを恐れる要因の一つであることは理解しておる。故に旦那様の心を直接読むような真似を最近は控えておるし…………そもそも旦那様の調べものに関しては同席するのはフェアじゃなかろうと席を外しておるじゃろ?」


 その上で覗き見をするような愚かな真似はせぬとニグラトは続けた。


「それはまあ…………信じる」


 信じるというかやはり信じるしかないのだ。なぜならニグラトがその言葉に反してこちらの考えを読んでいるなら破滅に一直線だ。


「別に隠すようなことじゃないから言うけど、祀からのアドバイスだよ」

「ふむ、やはりあの娘か」

「…………変な真似はするなよ」


 納得したようなニグラトに蓮太が釘をさすと、彼女は心外なという表情を浮かべる。


「なぜわしがあの娘にそのような真似をしなくてはいかんのじゃ…………むしろあの娘に何か礼をしてやるべきかと考えていたくらいじゃぞ?」


 くふふ、とニグラトは笑う。


「何せそのおかげでわしは旦那様とデートに行けるのじゃからな」


 それはこの上なく満足げな表情だった。


 それをそのまま信じられるなら、蓮太には本当に何の苦労も無いのだけれど。

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