十話 埋伏
環が蓮太に感謝することが一つだけあるとするなら、それは今目の目にいる女を見て失禁しなかったことだろう。
彼という前例を見ていたからこそ恐怖に呑み込まれないではすんだ…………それでも女の蓮太以上に得体の知れない気配に、本能がこれ以上ないくらいの恐怖を訴えていた。
「あんた、なに?」
震えながらもそう口にする。
「ほう」
それにニグラトは少しだけ感心したような表情を浮かべる。抑えているとはいえ並の人間であれば彼女を見た瞬間に恐慌に襲われていてもおかしくない。それをギリギリであるとはいえ堪えて口を開けるというのはそこらの凡俗とは違う証だ。
「やはり旦那様の知り合いであるからかの」
もちろん理屈で言えばそんなことは関係ないはずだが、そう考えたほうがしっくりくる。
「おお、すまぬの…………わしが何者なのかじゃったか?」
欠片も済まないとなど思っていないが、一応答えが遅れたことを謝罪する。ニグラトの目的の為にも会話するという
「わしはな、わかりやすくいえば神のようなものじゃ」
「っ!?」
聞いた途端に環の表情には戸惑いが浮かぶ。彼女の中の常識はそれを否定するが、その本能がそれを否定するべきではないと訴えていた。
「くふふ、別に否定しても良いのじゃぞ?」
「否定…………しないわよ」
楽し気に自分を見るニグラトに、何とか環は声を絞り出す。
「さっきから人の往来の多いところに立ってるのに誰も注目してこないし…………それもあんたがやってるんでしょ?」
「その通りじゃ」
自分と環に対する認識をニグラトはずらしているので、生徒は二人に注意を向けることなく通り過ぎ得ていくだけだ。その会話も聞こえてはいるがその脳が認識することは無い。
「こんなことが出来るんだから、神様だって言われも納得するわよ」
それに何よりも前の前の存在から受ける圧力がそうだと訴えかけている。
「ふむ、否定するようならばもう少し派手な演出も必要かと思うたが、その必要も無かったようで何よりじゃ」
「…………なにするつもりだったのよ」
「なに、少しばかり校舎を砕いて見せる程度じゃ…………わかりやすく雷雨や竜巻などをそこらに発生させるのもよいかもしれぬな」
もちろんその場合も蓮太との約束があるから生徒に危害が及ばぬよう配慮はするが、それを環に伝える必要もない。
「一つ、訂正」
脂汗を額に浮かべながら、環はそれでも口にする。
「あんたはただの神じゃなくて邪神よ」
「かかっ」
それでも吠える
「それで、邪神様がわざわざ私に何の用よ」
気勢を張るように環は自分の方から質問を口にする。固く握るその手の平には爪が食い込んでいたがその痛みもまるで気にならなかった。
「大方予想は付いておるのではないか?」
「…………八月のことね」
他に思い当たることなんてない。
「うむうむ、わしの愛しい旦那様に関しての話じゃとも」
「旦那、様…………!?」
戸惑うが、同時に理解もする。あの蓮太の変わりようは目の前の存在が原因なのだと。
「つまり、あんたが全ての元凶ってこと?」
尋ねながら固く握った右手の拳をほぐし、左肩にかけた鞄を意識する。目の前の存在がそこに入ってるものでどうにかなるとは思わないが、万に一つの可能性でも懸けるだけの思いが環にはある。
「まあ、元凶と言えば元凶ではあるが…………わしを殺したところでお主の友人は元には戻らぬぞ? 何せそちらに関してはわしではなく旦那様が直接的な原因じゃからな」
それは紛れもない事実だ。現状では多少の興味を抱いてはいるが、あの時点では祀はニグラトにとって何の価値もない存在だった。その他の有象無象と同じく気に留めてもいなかったし、彼女の方も蓮太と接触して位階が上がらなかったらニグラトの存在に気付く事すらなかったはずだ。
「つまりお主の目的が変わりはせんよ」
「…………!」
半ば環にもわかっていたが、やはり自分の蓮太への殺意は気づかれていたらしい。
「なるほど、愛しい旦那を守りに来たってわけね」
観念したように環は息を吐く。しかし諦めたわけではなく内心でこの場を脱するための思考を巡らせていた。
「くふふ、それは違う」
だがそれにニグラトは首を振る。
「わしはな、お主へ助言をしに来たのじゃ」
「助言ですって…………?」
助言というのは文字通り相手を助ける言葉を伝えるものだ。それを自身の愛する存在を害そうとする相手に送るというのは意味が分からない。
ならば自分を騙そうとしているのかと環は思うが、それにしてやり方がお粗末すぎる。わざわざ自分の立場を明らかにしたうえでそんなことを言っても疑われるだけなのはわかるはずだ。
「その理由も、
「…………ほんと、意味が分からないわ」
まるで目的が分からない。これで疑うなという方が無理だ。
「まあ別に疑うというのなら構わぬ」
ニグラトは肩を竦めて見せるが、その表情は環をせせら笑うように見える。
「その場合お主は何の望みも果たすことはできず、救うはずだった友人の手で惨めに散ることじゃろうな」
「祀がそんなことするはずないでしょうがっ!」
嘲笑う言葉に環は思わず怒鳴り返すが、相変わらず誰も彼女に注目は示さない。その事にはほっとするが、ニグラトはその怒鳴り声に表情一つ変えなかった。
「本当にそう思うのか?」
ただ冷淡な声でそう返して来ただけだ。
「っ」
それに環は押し黙る…………正直に言えば否定しきれないからだ。変わってしまった祀は時々彼女に対しても無機質な物を見るような視線を向けて来る…………そういった時は、裏で冷静に環をどうするかを判断しているように思えた。
「くふふ、正解じゃ。お主は上手いこと踏み込まぬようにしておるようじゃの」
そこで踏み込んでいれば目の前に環はいなかったことだろう。
「一つ、教えて」
環は感情を抑えて口を開く。
「蓮太がいなくなれば、祀は元に戻るの?」
「可能性は生まれる、と答えておこうかの」
今の蓮太は祀にとっての信仰対象だ。それが存在する限りはいかなる説得も聞きはしないだろうが、いなくなれば耳を傾ける可能性は出来るだろう…………もちろん、そのいなくなる理由によっても話は変わる。
それが悲劇的なものであれば語り継がれて偶像崇拝へと移り変わる可能性もあるし、喜劇的であれば幻滅して信仰が失われる可能性もゼロではない。
「わかった、聞くわ」
「よいのか?」
「…………どうせあんたがこの場にいる時点で逆らっても無駄でしょ」
神自称し、それを否定できない存在感を持つ相手なのだ。元々環がわめいたところで石を変えるような相手ではないだろう…………どうせ何を言っても無駄なら従った方が被害は少なく済む理屈だ。
「まあ、その通りじゃ。お主が断ったところで承諾したと改変するのは造作もない」
もちろんできる、というだけであって実行するかはまた別の話ではあるが。
「それで、どんな助言をくれるって言うのよ」
「なに、実を言えばそれほど大した話でもない」
答えつつニグラトがひょいっと手を振るとそこに一本の包丁が現れる。それに思わず環が顔をしかめてしまったのは、それが彼女の鞄の中に入っているはずのものだからだ。
念の為に外から鞄の中を探ってみるがそこにあったはずの鉄の塊は感じられない。
「まず、わかっているとは思うがこのようなものでわしらは殺せん」
話ながらニグラトはその手の包丁を自身の首筋へと突き立てる。もちろん環もそれがそのまま刺さるとは思っていなかったが、包丁は折れることなく触れる直前で粉へと変わって溶けるように消えていった。
「ほれ、返すぞ」
そして次の瞬間にはその手に元の形で現れ、ひょいっと環へと放り投げられる。反射的に彼女はキャッチしてしまうが、幸いそれで怪我をすることは無かった。
「八月も同じようなことが出来るってわけ?」
「いや、出来んじゃろうな…………なにせそうあるように旦那様は望んでいるがゆえに」
「?」
尋ねた答えの意味が分からず環は怪訝な表情を浮かべる。
「つまり、じゃ。例えばそれを旦那様に突き立てたなら普通の人間と同じように傷つくじゃろうという話じゃ」
「今、殺せないって言ったばっかじゃない」
「殺せぬよ? わしは傷つくじゃろうといっただけじゃ…………見た目はまあ派手じゃろうが、そんなものは表面上の薄皮一枚傷ついた程度でしかないという話じゃ」
本質的に包丁で刺された程度で死ぬような存在ではないのだから。
「つまりお主の大事な親友を怒らせるだけの結果にしかならん」
死なないと言っても傷つけたのは事実だ。それは今の祀にとって相手が親友だからと我慢できるラインを超えてしまっている…………むしろ親友だからこそ蓮太への謝罪を込めて過激な対応をして見せることだろう。
「なら、どうしろっていうのよ」
ただの人間である環に取れる手段などそう多くはない。けれどあの友人の姿に我慢できず半ば特攻するつもりで蓮太を襲おうとしていたのだ…………そんな結末、言われずとも予想はしていた。
「簡単じゃ、その為の方法を調べるが良い」
「調べるって…………」
何を調べるのかと戸惑う環をニグラトは鼻で笑う。
「肝心なところで察しの悪い娘じゃの…………お主はもうわしや旦那様がどういう存在なのかを理解したじゃろう? そういうものが存在すると理解した上で調べれば見つかるものもあろうて」
これまで環にとって蓮太は得体の知れない恐怖を与える存在でしかなかった。しかしニグラトに出会ったことで二人が神やそれに類する存在であることを理解した…………そしてそれはそういったオカルト的なものが実在するという事実の認識にもなるのだ。
古今東西オカルト的な伝説や伝承には事欠かない。これまでの環であればそんなものは
「なるほどね、確かにその方が可能性はありそうだわ」
その助言を受けなかったら失敗して次があっても、単純に火力を求めて爆弾の作り方でも調べるところだった。しかしそれでも目的が果たせる気はしないし、何よりも実行の前に自身が犯罪者として捕まるリスクも大きい…………しかしそういったオカルト的な方法を探すのならばそういったリスクもない。
「せいぜい頑張ることじゃな」
そんな環を満足げに見てニグラトは背を向ける。その後ろ姿に思わず包丁を振りかぶりそうになるが、無意味なのわかっているのでさっさと鞄に仕舞った。ニグラトが離れたことでその力が解除されれば包丁を持った環の姿は大騒ぎになりかねない。
「しかし、本当にどういうつもりなのかしら」
ニグラトが去ってもわざわざ自分に助言を与えに来た理由が環にはわからない。その助言が正しいのだとしたら自分や彼女が旦那様と称する蓮太に危害が及ぶ可能性が増すだけだ。
「…………それが狙いってこと?」
わざわざ不利益を得るために行動するなんて道理に合わない。しかしその不利益自体が目的であれば話は別だ。その助言で事がうまく運べば環は蓮太を殺すことになるだろう…………それがニグラトの目的であれば理由は何だろうかと彼女は想像し、すぐに思い当たる。
環は伝説や伝承なんかに詳しいわけではないが、それでもこの状況に当てはまるような話はすぐに頭に浮かんだ。
不利な契約を結んでしまった相手を出し抜き殺そうとする悪魔の話。
そんな話は珍しくもないのだから。
◇
「ひとまずはこれでよかろう」
環のもとを去ってニグラトは足早に蓮太の居る場所へと足を向ける。その瞬間に空間すらも超越して屋上への扉の目に辿り着いていた…………きっと彼は自分がいなかったことについて尋ねて来ることだろう。
それを嘘を交えずにどうかわしていくかを想像すると、ニグラトは楽しくて仕方なかった。
「くふふ」
種は撒いた…………確かにニグラトは蓮太との仲を急いではいない。
けれどその進展のために何もしないとは彼に約束もしていなかった。
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