晩夏、修羅街。または、Bloodthirsty Birthday

今日もしつけと称した先輩方の食い残しの処理で、狭い地下道を進んだ。古い金属の扉を開くと、中には中年男と思わしき腫れた肉と、競艇場にいるおっさんが着ていそうな野暮ったいウインドブレーカーを羽織った指南役の松乃さんがいた。松乃さんにこうなるまでの過程を聞き、仕上げをするのが僕の役目だった。

「これ?短くないですか?」

「頭を使えばなんとでも出来るさ。パズルだと思えばいい、さっきまでいた奴らはそれでちんこの穴塞いでたぞ」

転がった男をよく見ると確かに釘の先が場違いに光っていて、僕は思わず息を飲んだ。

「あんまり見てやるな、こっちまで痛くなる」

「はぁい」

といっても色んなところが笑うほど腫れ上がっているせいで、刺しても奥まった臓器には届かないだろうことは僕にも解っていた。

「三波、穴だよ、穴」

「穴なんかもうないよ?」

「よく探せ」

そう言われて僕は腕を組む。口からは喉を突き破ればいいけどこんな釘で出来ないし、目なんて今更潰したところで……いや、もう潰れているかもしれない。そうして自分の顔をすりすりと撫でていた時だ。

「松乃さん!僕、解ったかも!」

振り返ると松乃さんはなにも言わず笑い皺を深くした。

股の位置に移動して、大きい芋虫を思うくらい縮こまっている陰茎をぐっと掴むと男が呻いた。中には等間隔で芯がある感触がして、ああ、ビンゴだ。

「よかったなあおっさん。出せなくて苦しいだろ?楽にしてやるよ」

腫れて肉に埋もれそうな耳の骨を引っ張ると小さな穴が顔を見せた。するすると落ちていった釘の頭を狙うようにもう一本潜らせる。4本目が通る頃には男はなにかもがいていたけど気にはしなかった。

「何本通った?」

「5本」

「よく出来たな、ほらこれで塞げばおわりだ」

五寸釘を僕の掌に転がしながら松乃さんは言って、最初から渡してください、と言うと、それじゃお前の訓練にならねえだろ、と笑った。

事切れた奴を床にもう一度転がして松乃さんを見ると、いい出来だな、と笑ってくれた。よく聞こうと思って近づくと、しかし、お前は少しお喋りがすぎるな、と額を指で弾かれた。

「声を聞いたら駄目だ。耳を貸すな。決して聞くな。奴らを人だと勘違いするな。あれらは欲の成れの果てだ」

僕は迷いなく、はい、と返事を返した。松乃さんが野良犬のくせにいい返事だ、と頭を撫でてくれた。

「松乃さん、その上着どうにかならねえの?しょぼくれて見えちゃうよ」

「お前に見てくれを気にされるとはな、まあらしくねえ格好は、たまに役に立つんだ」

ガキは外行って遊んでこい、と耳にタコが出来るほど聞いた台詞で放り出されて、僕は服を着替えてからだらだらと歩いた。住宅街の狭い公園を抜ける時にいくらか涼しい風が吹いて、日差しはまだ強いものの9月ということを肌身に感じる。

コンビニのドアが特徴的な低音とともに開く。あまり目に優しくない光が広がる店内は過剰な冷房が掛かっていて、なんとなく大人になりつつある傍目にはよく解らないよくいる若者に映るであろう僕にはそれが丁度よく、どこか愛想のない姿勢を崩さない火曜日13時半の店員さんやだいたいが冷めたままのホットスナック、補充されていない炭酸飲料の列に隠れた自然な孤独たちが僕は好きだった。そしてこんな感覚をいつか忘れてしまうことも、なんとなく解っていた。



川原に歩いていくと、知らない広い背中があった。ちょっと距離を開けて座って包みを開けていると、何食うとんねん、と横から声がしていつの間にかにじり寄られていたことに気づいた。

「えっと、サンドイッチです」

「そんなぺらぺらのもんで腹膨れるんか」

「……事情があるんですよ」

逃げてくれるように答えると、事情ってなんや、と逆に食いつかれた。

「おっちゃんに言われへんような事情か?」

「じゃあ逆に聞きますけど、おじさんはなんなの?極道?」

「あほか、極道はこんなとこでメシ食わんわ……おう三ツ冨!こっちや!」

ミツトミと呼ばれた若い男が息も切れぎれに駆けてくる。

「天河さんが毎回変な場所選ぶからですよ……俺めちゃくちゃ走って……」

「座れ座れ、汚れてまうけどそんなん気にしとったらこれは務まらんぞ」

男がスーツを気にしながら土手へ座って、僕を不審げに見ていたけれど視線を合わせれば会釈をされたのでこちらも頭を下げた。

「なんやお前ら、見合いでもしとんか。おれはどくから若い奴で話しでもせえ」

立ちあがった天河さんに強引に腕を引かれ間に挟まれる形になる。抗議を唱えようと目をやれば尻に付いた草を払っているところだった。

「なんや、話さんのか?ほんならおれが話たろうか、こいつは三ツ冨言うてなうちに入って2年になったばっかのひよこじゃ」

「ひよこはやめてくだいって」

三ツ冨さんが反抗する声をあげても天河さんは、ひよこはひよこやろうが、と意に介さずといった様子で煙草に火を点けていた。

「あっまた……こんなところで煙草吸うんだから本当に……アマさん灰皿!持ってるんですか?」

「そんなもんお前が持っときゃええんじゃ、あほが」

「呆れた……そう思いません?えっと……」

「あ、僕、三波っていいます」

どこか困っていた三ツ冨さんはぱあっと顔を明るくして手を差し出した。

「はじめまして、俺は三ツ冨っていいます。よろしく三波くん!……って勢いで呼んだけど嫌じゃなかった?」

「いいよ、別に……僕もミツくんって読んでいい?」

「懐かしい、高校の時そう呼ばれてた」

ミツくんがアマさんに灰皿を渡しながら笑った。アマさんが煙草をすり潰しながら、やっぱり見合いやんけ、と笑っていた。



ガランガランと扉に付けられたドアチャイムが響いて、コツコツと足音が響く。気にせずに本のページをめくろうと指をかけた時だった。

「……あ、やっぱり三波くんだ」

「え……ミツくん?」

隠れ家的なこの喫茶店の来客は、出来たばかりの友人だった。隣いい?と聞かれたので椅子を引くと彼は有難うと笑った。

「よかった、女の子だったらどうしようかと思ったよ。髪長いし、華奢だから」

「こんな背の高い女の人はいないでしょ」

ごめんごめん、と口だけで謝る素振りをしながらミツくんはメニュー表を広げた。

「コーヒー、どれがおすすめか知ってる?」

なんとなく聞かれるだろうと思っていた質問を突きつけられて、目を泳がせる。

「あー……僕ココアとオレンジジュースしか頼んだことなくて」

「なんだよそれ!こんないい喫茶店なのに」

「でもオレンジジュースは美味しかったよ、絞ってるんだって」

へえ、と頷きながら彼はホットケーキに目をあてて、うまそうだな、と呟いた。本にしおりを挟んで机に置く。

「昼食べ損ねたんだ。アマさんに振り回されて……ま、そんなの毎日なんだけどさ」

「じゃあ食べたら?それでアマさんに請求書出そうよ」

ミツくんは、いつ受け取ってくれるかなあ、と天井を見上げていた。

「あ、俺も高校の時読んでたよそれ」

「ん?これ?」

いつの間にか前を向いていた彼の指が、僕の本を指差して言った。

「そうそう。でも登場人物が多すぎたし、名前がすぐ代わって読み難かったな。テーマは好きなんだけど……あと誰かに声かけられるかと思って」

秘密をそっと告白するように、ミツくんは整った顔立ちを緩めて人好きのしそうな甘やかな顔で笑う。

「ああ、それは僕も解る。でも読みやすくはないよね」

松乃さんは月始めになると僕に何冊かの本をくれる。そして、その本を読み終えたら連絡をして、酒を呑んでいる松乃さんの横に座って解釈を語るのだ。

「昔の俺と同じこと考えやがって、お前はろくなガキじゃねえな」

たまにそんな失礼なことを言って笑いながら頭を撫でられることもあるけれど、案外心地がよくていつも逆らえずにいる。

宗教や社会学の本もあれば、今月のようにドストエフスキーやナボコフ、トルストイもあった。日本の作家は近現代のものが多かったけれど、新人の作家ばかりが載ったアンソロジーや本屋にも宣伝つきで置いてあるような新書、西洋美術の読み解き方の本、それから恋愛ものやただ生活するだけにしか読めないもの、また、なんだかよく解らない薄汚れた同人の詩集などもあった。

一度、幻想小説は読まないんですか、と聞いたら、俺達自身が幻想みたいなもんだろ?と笑われたものだ。

「色んな本を読め、そこには必ず生き方が載っている。それを読み取れるようになれ」

初めて本をくれた時、松乃さんはそう言っていた。隠れて読んでいた何冊かの小説を見て、お前は筋がいいみたいだしな、と僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら笑った。

「俺も読み直してみようかなあ」

運ばれてきたホットケーキを切りながらミツくんがため息をついた。



押し出されるように駅のホームをくぐると、立ち呑み屋にはすでにいくつかの客がいて、鳩が数羽くるくると鳴きながらそのおこぼれを今か今かと待っている。

見慣れた景色なんて道端の石と一緒だと思いがらまぶたを落として開く隙間で僕はそれらを黙殺する。発露しない感情を今更不思議がることもせずあくびをしながら吸い殻を避けて駅を出た。

酔客のゲロに滑って植え込みにキレるスーツの大人と、ホストに髪を掴まれ下着丸出しで引き摺られてずっと喚き散らしている風俗嬢と複数のキャストに往来で首を締め上げられている黒服といったものが朝焼けの光に包まれながらごった返しているのを、この国では繁華街というらしかった。自然と下がる目線の先に黒いレースの下着が落ちている。無理に前を向く。眠気覚ましの冷たい缶コーヒーを啜りながら、これにどれだけの効果があるのだろうと考えた。

事務所まであと数分、嫌なものはもう見当たらない。最近見つけた近道を抜けようとしたら空っぽの蜘蛛の巣が伸びすぎた髪に絡んで、上を見ると事務所の2階の窓が割れているのが見えた。

内ポケットを漁り松乃さんに貰った髪ゴムを取り出して束ねたけど、髪が多すぎたのかすぐに切れてしまった。

裏道を抜け出して、組への正面に回る角、近寄るなと言われている光が僕をおびき寄せる誘蛾灯のようにちらちらとしていた。

「おう、三波ちゃん元気にしとったか」

「アマ、さん」

なんでここに、続けようとした言葉は湧き上がる唾に流された。

広げられた手帳に印字された名前と顔写真に写るこざっぱりとした姿は別人とまではいかないけれど目の前のアマさんやミツくんとは違って見えた。

「来てもらおか、なんやねんそんな顔すんな……ちょっとお話するだけや。おれのお友達のせいちゃんもおる。松乃清道、お前の師匠やっとるんやてな」

松乃さんの名前に飛び上がった僕の視界は自分の呼吸ですらぶれていて、その中できれいに立った影が二つ淡く動くのをただ見ていた。


「……以上が僕の話せる全てです」

こわごわと視線を上げるとアマさんは穏やかに笑っていた。

「清道が心配か?」

「そりゃ、まあ」

「俺があいつのとこについてへんのが答えみたいなもんや。触ってみ、この壁。厚さ違うやろ?昔あいつの取り調べでこないなったんや。やくざの取り調べで部屋が荒れんのはたいがいやけどな、壁が凹むんはなかなかないで。椅子も机も全部壊れよったわ」

まあおれも投げ飛ばし返してたんやけどな。

そう言って豪快に笑っていたアマさんがふと壁を撫でていた僕の手を取った。

「なんやねんこのしょーもない腕、わっぱ嵌めたってもお前……抜けんちゃうかこれ。もっと食えるようにならんとな。出世せえよ三波ちゃん、おれの取り調べは厳しいゆうて評判らしいで」

「僕より、松乃さんにしたほうがたくさん聞けますよ」

「あほ、何十年おいかけっこしとる思てんねん。ずーっと捕まらん師匠がおるんやったら、さっさと弟子捕まえてその分まで吐いてもらう。それがやり方や。道理としては合ってるやろ?」

立ち上がった人が僕の背中を軽く叩いて部屋をあとにした。僕は座ったまま、そういえば煙草を咥えたままだったけど灰皿はあるのかな、と場違いな心配をしていた。


取調室を出るとミツくんに小声で呼び止められ、彼を見ると隙間の空いた扉を指差していた。

「アマさんここだ、いつもちゃんと締めないから」

二人で耳をつけると、アマさんの少し低い声が聞こえた。

「せいちゃん、いつぶりやぁ?なんや老けたみたいやけど、なかなか元気そうやんけ」

「お前が若すぎるんだよ、まこちゃん」

会話の相手は。どこで取り調べを受けているんだろうと心配していた松乃さんだった。

「しっかしあんたが教育係やるとはな、よう解らんもんやで世の中……にしてもずいぶんかわいらしい子捕まえたな。お前の趣味か?あれは」

「30年追いかけてる癖になんにも解っちゃいねえんだな。それに、まこちゃんには解らんもんが俺らにはたくさんあんのよ」

「ガキに殺し教えとることくらいは解っとるつもりやがな……血の臭いで肺詰まるか思たわ」

息を一瞬忘れて弾かれるように扉から距離をとると、ミツくんがうろたえた目でこちらを見ていたから僕はとっさに頭を横に振った。

「人聞きの悪いこと言うなよ、俺が教えてるのは生き方さ……こんな世界なんだ。誰かが見ておいてやらねえとすぐくたばっちまう。それに見てくれはデカくなったが三波はまだまだガキだ、育て方でどうにでもなるんなら、好みにしてやりてえのが親心だろう?」

「あの清道が親子を語るか……時間ってもんは解らんなあ。三波をどう育てる気や?あの子はもう芽が出とる。自我を持って育ちはじめとるぞ」

松乃さんが、暗に僕を家族だと言ってくれたことが胸に落ちて、柔らかいものに変わっていく。

「逆らうなら流すまでだ。子育ても犬も変わりゃしねえ。それにいい加減お前も身を固めろよ真、いい子が側にいるだろうが。子守りは大変だがな結構楽しいもんだぜ」

ミツくんは下を向いていたけれど扉に添えられた指が嬉しそうにそわそわとしている。

「あほかせいちゃん、ひよこでかしたかてニワトリ止まりやろが。まあニワトリになったら捌いて食えるくらいは出来るけどな」

「知らねえわけねえだろ、ひよこはあっという間にデカくなるんだ……今のうちに大事に世話すんだな」

横目にミツくんを見ると視線があって、小さな声で、俺アマさんに食べられるのかな、とひきつった顔をしていたから思わず笑った。



「そういえばあの銃、弾はまだ入ってんのか?いくら使う機会がねえからって手入れくらいしねえと危ないぞ、俺が貸してやるからついてきな」

招かれるままに入った松乃さんの部屋は、白かった壁紙がヤニと日焼けで黄土色になっていた。狭いながらもキッチンは手入れされていて、ちゃぶ台の上には急須と湯呑みが置かれていた。

「三波、開けるの手伝え」

声のした方へ向かうと押入れの扉に手を掛けている。

「落ちてくると思うから気をつけろよ」

がらっと引き戸が開けられるとそこからは溢れるように箱や紙に包まれたものが重い音をあげた。

「好きなの持っていけ、弾もじゅうぶんあるから足りなくなったら取りに来い……まあ、全部開けねえと解かんねえがな」

「こんなの……松乃さん、どうして?」

「俺はゴミでもなんでもなかなか捨てられないだけさ」

紙の塊を拾いあげると、手に馴染んだ重さがした。包みを開いてみるとそこからは10年間持っている銃が鈍い輝きとともに姿を現した。

「ふうん、同じやつがいいのか?」

「僕、これがいいです!」

「なるほど……ポリスポジティブか。お前さんにはちょっと明るすぎねえか?まあいいや、名前負けしねえ男になれよ」

松乃さんが僕の背中を大きな手で叩いて、その強さに、わっと声をあげた。びっくりしながら隣を見ると、その人は穏やかに笑いながらこう言った。

「まあ飯でも食ってけよ。軽いもんしか作れねえけどな……冷や飯はまだあったはずだが」

冷蔵庫を開けながら背中を掻いている姿はとてもやくざには見えないけど、何故か安心感があった。

「すみません、僕……あんまり飯の種類?とか解らなくて」

「なんだそりゃ、じゃあ今度食いに行こう。今回は俺のメシで勘弁してくれ」

野菜の緑っぽい匂いがして、次に米が油を吸って膨らんでいく甘やかで香ばしい匂いがした。皿に盛り付けられたそれからは酸味の効いた香りが立ち昇っていて、薄焼きの卵がフライパンから滑って上に被せられる。

「あー凝ったもん作っちまった。ほら食え」

「これ……スーパーとかで見たことあります。ちょっと違うけど」

「オムライスも知らねえのか?じゃあ俺が教えたことになるな」

たいして面白くもなさそうに笑う松乃さんを見てから、いただきます、と手を合わせた。


松乃さんの部屋でお茶を飲んでいると、松乃さんが、ああ、と声をあげた。

「お前もうすぐ誕生日だったな。前祝いになんかやるから言ってみろ。その代わりあんまり高えもんは駄目だぞ」

誕生日を覚えていてくれたことが嬉しくてそわそわとしだした僕を松乃さんは手をかざして制止した。

「僕、松乃さんの服が欲しい!捨てられないんならまだ持ってるでしょ?」

軽く興奮したままそう告げると松乃さんはあからさまにため息をついた。

「なんでよりによってそんなもんを欲しがるかな。昔のなんかほとんど若い連中にあげちまったぞ」

「残りでいいです。ああいう服、僕も買いたいんだけど高くって……」

「てめえはまだスーツなんか着なくていいよ……ああ、今はこれくらいしかねえけど勘弁してくれ」

そう言うと、松乃さんはビニールに包まれてクリーニングのタグがついたシャツを一枚後ろ手に投げてよこした。僕はそれを大切な宝物のように胸に抱きしめた。



今日から仕事で1日空けるという松乃さんが荷物の最終チェックをしているのを横目に見ていて、ふと違和感に気づいた。

「松乃さん、なんで軍手なんかはめてんの?まだ夏だよ?」

ため息をついた松乃さんはどこか落ち着く表情で笑って僕の手を握った。両の小指のところの布が垂れ下がっている。ああ、そうか。

「すみません、僕、無神経でした」

「俺なんかに謝ってんじゃねえよ。これは俺のためじゃねえ、俺以外の人のためだ。こんな手を往来で晒したらどう思われる?目を気にしろよ、三波。そうしないと誰も騙せねえ。それからな、カタギにはじゅうぶん気を遣えよ……細かいところまで、遣いすぎたって構わねえくらいにな。それが俺たちを生かす手助けをしてくれる」

はい、と答えると、お前は聞き分けがよくて助かるよ、と頭を撫でて、見送りしてくれるか?と笑った。

入り口まで見送って、背中が車に消えるまで僕はじっと見ていた。



スーパーの特売シールを今か今かと待ち伏せしていた時、肩に大きな手が置かれて、馴染みのある声がした。

「よう三波ちゃん、こんなとこで盗みの練習か?」

「アマさん、静かに……もうすぐ特売のシールが来るんです」

「……シールは声にびびったりせえへんはずやけどな。ここらへんでなんかあったかな……せや、たこ焼き食いに連れったるわ」

そのまま強引に肩を抱かれると、意外と肩幅あるやんけ、と快活に笑う大人がいた。

「でも骨は細いなあ、牛乳飲んでももう遅いかあ。あ、三ツ冨も呼ぼか。ま、三波ちゃんと二人もおれはかまへんけどな。髪も長うてかわいらしいからな」

「前にミツくんにも言われました、後ろから見たら女みたいだって」

「なんやそんなん言いよったんかあいつ!なかなか隅におけんとこもあるんやなああのひよこも」

「でも、こんな背高い女いないよって僕言ったんですけどね」

「ほな店つくまでおっちゃんの知らん三ツ冨の話聞かせてえな。今日はあいつが肴じゃ」

なんだか黒くて高そうで丈夫そうな車に乗り込んだ。車内は強い煙草の匂いがしたけれど、たくさんのそれが入り混じったものではないのでそこまで気にはならなかった。

それからアマさんは、勘違いしたミツくんが水の乗ったままのおぼんでアマさんを殴って大事になりかけた話や、取り調べ中のアマさんを止めようとしたミツくんがやくざともども制裁にあったこと、調書に女の喘ぎ声が書いてないと文句をネチネチと言われてヤケになったミツくんが2時間奮闘したことなど色々な話をしてくれた。


職場から歩いて来たミツくんは座ってお酒を3杯頼んだ辺りでアマさんから先程の醜態をバラされていた。彼は慌ただしく僕とアマさんを行ったり来たり見ていたけど、ついにそれもやめて膝を抱えるとそこに顔を埋めた。

「三波くんになに話してるんですか……!」

「なんやねん、三ツ冨の名刺代わりのエピソードまこちゃんセレクションやぞ気に食わんなら自分で作れ」

「そういう意味じゃねえって……」

一通り頭を抱えたミツくんは机の上のコップを手当り次第飲み干して、僕のコップを傾けると、甘っ、と叫んだ。

「三波くん?なにこれ、お酒は飲まないの?」

「あー、僕まだ未成年だから」

「未成年って……はあ、まじかよ……」

前に煙草勧めちゃったよ、知ってたらそんなこと絶対しないのに……とまた頭を抱えだす空気を纏いだしたミツくんの頭をポンとアマさんが叩いた。

「そんなもん気にすんな気にすんな、男が気にしてええんはちんぽの色の濃さだけや」

「色ってなんですか色って!普通は太さですよ!」

「僕は長さかなぁ……」

くだらない話が何故か過熱の気配を見せ始めた頃、アマさんが店員さんを呼んだので二人して黙った。


ミツくんが眉を顰めてアマさんの襟を掴むと、他に変な話してないでしょうね、と唸った。

「はは、ひよこが一丁前に前ふりとはな」

「そんなんじゃないです!」

「成長したな三ツ冨……おっちゃんが捌いたるから泣くなよ」

なにやらしんみりとした表情を浮かべたアマさんがミツくんのなにも流れていない頬を拭った。

「捌くとか言ってすぐに触らないでください……ほんとセクハラになりますよ!」

ミツくんの手刀が向かいの人の脳天を割ったところで運ばれてきたものを僕が受け取って机に置いた。

「表出ろや三ツ冨、1から扱き掛けたるわ」

「俺だってねえ、柔道の心得くらいはあるんですよ。その気になったらアマさんだって投げられるんですからね」

そろそろ取っ組み合いが机を超えてはみ出しそうになったので、僕はテーブルで一番色の薄いジョッキを掴んだ。狭い空間にレモンの香りが広がった。

冷たっ、とさっき聞いたものと似た言葉を発してようやく熱の冷めた二人が帰ってきて、無言でたこ焼きを摘み始めた。組の宴会でもこうはならないのになあ、と思った。

「三ツ冨、おれがたこ焼き焼いたるから機嫌直せ」

「それはあなたでしょうが」

「それにしても三波ちゃん、懐かしいもん着とるなあ」

たこ焼きを頬張ったままの顔をあげて、疑問符を口にしながら首を傾けた。

「そのシャツ清道のやろ?あいつまだこんなもん捨ててへんかったんか」

「誕生日だからって僕が無理言って貰ったんです」

なんだかバツが悪くて俯いた僕を覗き込んで目を合わせた大人が片目を瞑った。キザな仕草だったけどアマさんには似合っていた。

「ゴミみたいなもんやぞ、パッと見は綺麗やけどな、そいつどれだけおれの血吸ったことか……知っとるか、せいちゃんはな昔むちゃくちゃ強かったんやで。柔術の達人でな、おれもよう投げられたわ」

飲んでいたレモンサワーを置いてミツくんが口を開けた。

「アマさん、なんでそんなに仲いいんですか?俺ら世間から見れば敵対してるじゃないですか」

たっぷりと煙草を吸い込んで、吐き出して、長い間をおいてアマさんが噛みしめるように言った。

「そんなもんが親友同士の仲に関係あってたまるか」


目を瞑ると今度は音がすごかったので結局違う方向を見ていたくらいとんでもないキスをされて最後のほうは少し泣いていたミツくんがそれから3回目の口を拭った。

「ずっとああなんだよ。酒癖悪いにも程があるだろ。俺が身体張ってるけどさ、本当に捕まったらどうすんだよ」

「みんなそれが面白いんじゃない?」

「そんなわけないでしょ、三波くんは面白かったの?」

「ごめん、そんなに見てなかったから解かんないや」

なんだよそれ、と笑って、ペットボトルを煽って急に走り出したミツくんが街灯の下で不意に立ち止まった。

「三波!俺が捕まえてやるから覚悟しろよ!それまではあのキスでもなんでも耐えてやるからよ!」

言い切って、晴れやかな顔で笑ったその姿が白く光っていてまるでスポットライト下の景色のようで、僕は立ち尽くしたまま綺麗だと思った。口に出してはいけない美しさが多いことがどうしてこんなにもかなしいのだろう。いつまでかなしいままなんだろう。

ひしゃげた顔を見られたくなくて下を向いたまま走ると、すぐに肩が並んだ。息を整えながら、もうすぐにこの光の下から出ていかなければならないことを思った。それはきっとすぐに来てしまう。

ミツくんが暗い顔でこっちを向いた。

「俺がこんなこと言ったらいけないんだけどさ、後ろに中東系の奴らが絡んでるところとは取引したらいけないよ。最近そういうのばっかりで、アマさんも俺も頭抱えてんだ。だいたいはヤク関係なんだけど安い粗悪品ばっかだ。ヘロインもアヘン系もシャブも。混ぜものの入れ方にもお国柄って出るんだな。本当、最悪だったよ……武器もほとんどが質の悪いロシア製、試し撃ちで指が吹っ飛んだ奴もいる……」

僕は俯いてなにも言わなかった。末端である身で、関われる事なんてたかが知れていた。自分の身さえ守れないことが落ちない雨のように骨に染みていく。

「5ヶ月前に先輩が調査に行ったんだ。詳細はぼかすけど、紛争が治まったばかりの国……毎月手紙を送ってもらってたんだけど、最近字がなんか変なんだ……先輩の字なのに、違うっていうか……ねえ三波くんはこれについてどう思う?」

「ミツくん……」

「俺は、三波くんを捕まえたくない。でもその時が来たら、いつか来たら、その時は捕まえなきゃいけない。それが怖くて仕方ないんだ……情けないだろ?僕は刑事で正義がある。でもそれは君もそうでしょ?俺は正義のために刑事になって、アマさんと一緒に歩いて、三波くんに会って、正しさが欺瞞だって気づけたんだ」

肩に食い込むほど置かれていたミツくんの手が握られる。

「三波くん俺は生きてていのかな。このまま刑事として、生きていっていいのかな……」



金属の狭い扉をくぐると若い男が床にのびていた。道具がなにもないことに疑問を抱いて松乃さんを振り向くと笑いながら、今日はこれだよ、と大小様々な注射器と、大量の粉を渡された。

まず細い注射器を満たす。

寝ていた男の静脈を探して刺しても、まだ起きない。体内に流れ込む違和感にやっと目を開けた男は腕を見て、ヒイッ、と悲鳴をあげた。

「目覚めはどうだい?ちゃんと起きてんなら僕と勝負しようぜ」

袋を破ってさらさらした粉を口に注ぎながら合わせた目を細めると男は怯えを深くした。唇を舐めて、舌の裏に隠したものを悟られないように薬品の染みた唾液を飲み込む。

「ルールは簡単。先にくたばったほうが負けだ。いいな?」

しゃがみ込んで顔を覗けば酸素を求める金魚のように口を開閉している。

松乃さんが少し強い口調で、遊びすぎだ、と言ったのを振り返って顔を崩す。

「心配しないで、松乃さんはそこで見ててよ」

結局勝負は4袋もいかないところでついた。男がもう勘弁してくれと床に頭を擦り付けている。

松乃さんが新しいものを渡してくれたので、抜く隙から刺して、押し子をゆっくりと指先で押す。

「おい兄ちゃん、せっかく僕がいんのにまたおねむかよ……もっとお喋りしたいんだけどなあ」

脂汗を浮かべ、白目を剥きそうな男の片目をなぞる。

変な呼吸をしている男を詰めていると背後から声が掛かった。

「口の中見せてみろ」

珍しく眉間に皺を寄せた松乃さんに唾液で重く固まったシャブが乗った舌を見せると頭をはたかれた。

「こんなことで無茶しやがって」

「さすがにちょっと飲んじゃったけど、あとで吐くから大丈夫だよ」

最初から決めていたことを場違いな明るい声で告げると松乃さんが小さくため息をついた。

「それからお前、この前の警察に会っただろ。何を言われたかは知らねえが……そんな奴らの声は聞くな。そう言ったはずだろう、三波」

「松乃さん……僕は、こんな奴でも人になりたい。だから人と話したい。ちゃんと話して、解った上で殺したい……ごめんなさい、守れなくて」

「……いっそまっさらな野良犬にでもなれちまえばなあ、どこへでもいけたのに。でも殺しを覚えた今のお前にそれは酷だよなあ……お前が抱えるには背中は小さいんだよ、お前が思っているよりも何倍もな」

松乃さんが背中を叩いてあやそうとするのを身体を捩って避けた。この人は強引にはしないからこうすればやめてくれる。それが思い込みだったなんて、知りたくなかった。

「なんで松乃さんは僕に優しくするの」

詰まった声で抗議をすれば思った以上に幼い響きがして、僕は顔を背けようとした。

「納得するような答えがほしいか?」

優しい声が耳の骨をなぞって滑り落ちていく。身を任せてしまえばきっともう苦しくはない、でも。

「ううん、いらない」

僕はいつか、僕らはいつか、会えなくなる決まりだというのも知っていた。



「三波、俺が髪切ってやろうか」

「ええ、なんでまた」

眉を顰めて落としたトーンで反抗すると固い指先に眉間を揉まれた。

「伸び過ぎだって言ってんだ。戦う時に掴まれやすいし、前髪も邪魔だろうが。前にやったゴムだって付けねえしよ」

「あれは切れちゃったんだって」

「そりゃ悪いことが起こるって報せだ。さあどうすんだ?まあ、お前ならどんな髪型でも似合いそうだがな……なんも言わねえなら角刈りにするぞ」

ハサミとバリカンを片手ずつに握ってじりじりと寄る姿は師匠と言えど真に迫るような気味悪さがあった。

「普通でいいです。あと角刈りは絶対似合わないですよ?」

「色気のねえ奴め。それに普通ったってお前の普通と俺の普通はかなり違うと思うぞ?」

「めんどくさ……じゃあ、初めて会った時くらいで」

耳元でしゃきしゃきと軽やかな音がする。

「きれいな髪だな、芯が強いんだろう。大事にしろよ」

「えっ……僕ハゲるんですか?」

「なんでそうなるんだお前」

襟足の部分の出ている肌に剃刀が当たって、肌が粟立つ。

「おら顔あげろ。産毛も剃るぞ」

「僕がそんなのいいですって」

「磨けば光る石は磨きてえの俺は。じっとしてろ」

出来たぞ、と声がかかる。妙に風の当たり方が違う気がして落ち着かないまま立ち上がろうとするとまた声が投げられた。

「化粧水もつけろよ。肌荒れしたらみっともねえからな」

「なんでそんなこと……」

「俺らみたいな人間がにきび面してたら形無しだろうが」

取り出した煙草に火を点けて一口吸うと、満足そうに吐き出して笑った。ガラス戸から差し込む暈けた昼間の光にくるまれて微笑んでいる松乃さんは、久しぶりに視界の開けた僕にはなんだかとても貴いなにかのように写った。



喫茶店に入るとマスターが僕を二度見した。二度見なんて何回もされたけれどそれでもかなりの速さだった。

「三波さん?またおかわいらしゅうなったこと」

「切る前も知ってるのにやめてくださいよ」

「やめてくださいはこっちですよ、この年になるよりも遥か昔から半年前なんて私には虚無の彼方ですからね」

マスターが豪快に笑った。

ここに来たのは。本がまだ読めていなかったから早く読み進めたかったのと、それと……座っていればミツくんがまた来るかもしれないというほとんど屑のような祈りのためだ。僕にとってはどちらも本音で、嘘に出来ない。

「コーヒー飲めたっけ?ずっとオレンジジュースだったのに」

「お客の嗜好品を覚えないでくださいよ」

「三波さんは冬はココアで夏はオレンジジュース。新規のお客様はコーヒーと……それからホットケーキを食べて行ってくれるから助かるね。毎回領収書切るんだけど、天河って……あのアマガワでしょ?大事にならないといいんだけど」

暗澹たる気分になる。冷たくて柔らかい沼を腿まで埋めながら必死に歩いているそんな心持ちだった。



ノックをして待ってみてもなにも返事がないどころか、塵の舞う気配すらなかった。今日は松乃さんの顔を見ていないのだ。

失礼します、と言いながらドアを開けて靴を脱ぎ捨てる。

「松乃さんいないの?」

相変わらず綺麗なキッチンの鈍い光や、その下に置かれたゴミ袋からはビールの空き缶が見えて、隣には瓶やワンカップの詰められた袋があり、きちんと分別されたそれに頭が下がる思いがした。

押入れのある部屋に通じる襖を開けて、僕は息を飲んだ。壁にはクリーニング済みでシワのないスーツが2着掛けられ、床には貰ったものと同じ銃が3丁、それから弾の入った箱が6つずつ積んで置かれていた。

壁に近付いてよく見ると、片方はうっすらと光沢を纏った濃灰に淡く浮かび上がるように描かれた大ぶりな、陰影によってはストライプにも見えるチェック柄が複雑で、下に同じ生地で出来たダブルのベストがあるスリーピースのもので、もう片方はシンプルな作りで光沢のないマットな、しかし着込まれてほんのりと艶の出た黒のシックで細身なものだった。そのどちらも内側の胸の部分に簡易的なホルスターが二つずつ縫い付けられ、銃を差せるようになっていた。

もっとよく見ようと裏返すと、裾のほうに付箋が貼り付けられていて、そこには、誕生日おめでとう、軽く仕立て直しはしておいたが気になったら自分で直してくれ、と上手くも下手でもない、少し特徴のある字で書かれていた。湧き上がってきた涙の膜が壊れてしまわないように、僕は上を向いて何度も瞬きを繰り返した。



あまり話したことはないけれど、よく思われていないだろう奴らがすれ違いざまに組の管理している倉庫を指す言葉を話しているのを聞いた。僕は別のことを考えようとして、すぐに失敗した。松乃さんがいなくなって今日で3日になる。僕に言えない仕事が入ったのかもしれない。松乃さんは殺しくらいなら前もって僕に言っておいてくれる。ふとこの前処分に使った道具を思い出した。あの薬はどこから来て、どうやって松乃さんまで渡ったんだろう。

気が付くと最低限の持ち物だけ持ってタクシーの停留所に走っていた。胸に差された銃が重く、バランスをとって動くにはコツがいった。

捕まったタクシーに掴んでおいた万札を押しつけて、事務所の近くのクラブの名を告げた。信号が引っ掛かるたびに苛立って、汚い通りに舌打ちをして、降りた場所から走って、ようやく事務所についた僕はあらかじめ空けている窓から忍び込んだ。真っ昼間というのもあって人は少ないが、数人がうろついている。どれも名前も思い出せない奴らばかりで舌打ちを噛み潰した。行動の癖が読めないというのは厄介だ。

おのおのが武器の手入れや雑誌に夢中で、なんの気配も感じられない。

「あんなんで天河のおっさん呼び出せんの?」

耳に引っ掛かったそれを認識した時、ひゅっと息を飲むのを音を消して後ずさりながら隠す。

「大丈夫だって、最近なんかあったらしいし」

俺便所行ってくるわ、と誰かが立ち上がった。話は続くのか、続かないのか、読めないまま男は近寄ってくる。廊下を振り返って開け放したままの扉まで走った。

「あーあ誰だよ、こんなとこ開けたまま……」

男の手がドアノブを握る時に立てた音を聞き逃す前に身体を回して口を押さえつける。

「よう初めて見る顔だな、小便する時間はあるんだろ?じゃあデートしてくれよ、連れションっての僕まだしたことねえからさ……頭吹っ飛ばされたくねえなら黙ってろ」

隣のトイレまで引き摺って連れて行く。一度突き放す動きで手を離したらよろめいた男は鈍い音を立てて並んだ小便器で強かに頭を打った。

「ちょっとお話するか……あっちの部屋で休憩しようぜ」

手を口に当てると唾液か血か解らないものがぬめって舌打ちをしたら男は肩をはねさせた。

銃口を逸らさないように後ろ手に鍵をしめる。まあ座れば?と顎を動かせば崩れ落ちるように座った蓋と便座が擦れて高い音をあげた。

「松乃清道のことと、それからこの薬の出所なんだけど、お前なんか知ってる?僕にだけ教えてほしいなあ」

銃で頬をなぞるように滑らせる。目を見開いたままの男はぶつ切りの呼吸を繰り返している。

「緊張してんのか?まあ煙草でも吸えよ、ほら咥えろって」

胸ポケットから覗く煙草を掴んで一本引き出したものを口に持っていく。空いたまま荒い息を入れたり出したりしているそこに半分くらい入れて、口周りを指先で揉むように動かすとようやく閉じた。

火を点けてやっても吸い込む様子はなかった。銃身を撫でながらもう一度舌打ちをする。黒目が不安定に揺れている。もうひと押しってとこだ。摘んだ薄いビニールの袋をちらつかせれば目が動く。ひらひらと動かして両手に摘みあげたところで相手が落ちるのが解って、僕は吹き出した。

「せっかくだし使っちゃおうか。最近友達にも会えねえし楽しくねえんだ……だからさ、お前が狂っていくところ見せてくれよ」

「シャブのことは知らない!中東かどっかの粗悪品だってことしか知らない本当だ!」

口を割った叫びが煙草を飛ばして、僕はそれを拾い上げた。

「松乃なら倉庫だ……頼むから、もう」

開いた口に火の点いたそれを放り込んだ。消火される音が肉越しに聞こえて男が失禁しながら声にならない叫びをあげる。

汚れないように膝上に座り上げてシャツ越しに可哀想なぐらい跳ねる胸に触れながら額を突き合わせた。

「そんな嬉しそうな顔すんなって、どうされてえんだ?あんたはせっかくのご新規さまだからな、サービスしてやるよ。全部やってやるから遠慮なく言っていいぜ?」

個室の床から血が流れて排水口にこぽこぽと飲まれるのを確認してから、僕はトイレをあとにした。


組の持っている倉庫は7つあった。その内広い3つがタンクローリーなどの駐車場で、小さい2つが武器庫、残った2つは空っぽで遮音性もそこそこだから大掛かりな私刑に使われることが多かった。でも、そんなところに松乃さんが……?という疑問がこびりついて消えなかった。邪念を振り払うように車に近付いた男を背後から締め上げる。

「ドライブ連れてってくれよ。免許持ってねえんだ……長橋の6番倉庫まで。殺されたくなかったらさっさと出せ」

頭に抉るほど銃を押し付けたままいると、ようやく倉庫についた。出入り口からは人がわらわらと出てきている。

「ちゃんと操れよ、っと」

男の足を蹴って滑り込ませた靴底に体重をのせる。車体が大きく揺れて、重い音を上げ始めた。逃げ惑う人を跳ねながらようやく振り切られたハンドルでほぼ真横になった車が群れに打ち付けられる。

「助かったぜ。また乗せてくれよ」

伸びている運転手に礼を言ってからドアをこじ開けて地面を踏む。舞い上がる土埃に思わず咳が出た。

「三波……!?なんでここに!」

喚く人波を掻き分けて進むとうずくまる松乃さんがいた。不吉が僕を睨みつけているのを感じて、突き動かされるままに駆けた。

肩を軽くゆすると、松乃さんが目を開けた。

「三波……こんなとこ来やがって、それ着てんの見せに来たのか?ははっ結構似合ってるな……しかしハメられちまったみてえだ……クソッ、血が止まらねえ」

「松乃さん!」

シャッターの開いたところに向かってぞろぞろと集まっていた誰かが笑った。

「よかったな三波、首輪取れたじゃねえか。自由になれるぞ」

頭が酷く熱くて、背筋を震えが伝っていく。背骨をひとつひとつ数えるみたいに悪辣が色を変えて僕の視界を焼こうとする。揺れ動く粘性の強い液体のように立ちあがって、いつの間にか閉じていた目を開くと人群れに倒れたかかる男の口からこぼれた歯と、振り切った鉄パイプがあった。

「三波、三波待て」

音を発している穴に先を突っ込んで捻りながら力を入れると肉の中に抜ける感覚があってそいつは唇の隙間から血を吹いて痙攣しはじめた。

「黙ってろ……それからてめえにしつけられた覚えはねえよ」

ぐぽりと引き抜きながらよろめいた身体を地面に振り下ろした。厚みのある金属が肉を割る音がする。

コンクリートに叩きつけられた鉄パイプは折れてしまったが、構わず振り上げて、腰が抜けたくせに逃げようと地を這っている男の腹に切っ先を突き刺して体重をかける。男が血の混じった泡を吹いたのを確認して取り囲む奴らを睨む。殺気が身体を動かしている気さえした。今自分がなにを考えようとしているのかさえ煮立った頭ではなにひとつ解らなかった。

「裏切ったんだろてめえら、殺してやるから来いよ」

静かな倉庫に自分の冷えた声が響く。誰かが動こうとして石を蹴った音に反応して身体が飛び跳ねる。眼が勝手に動いて相手を捉える。胸に当たる位置を勘で掴み引き金を引いたら予想通り倒れた。壁ギリギリまで走って銃を手放しながら煽った。

「こっちから行こうか?」

ざわめきが3秒続いて、真っ先に飛び掛かって来た趣味の悪いシャツの男を寸前でかわして髪ごと頭を捕まえる。

「散歩しようぜ兄ちゃん」

顔を壁に押し付けたままがりがりと削るように歩くと、押し潰された悲鳴に誰もが見入っていた。男のシャツを破り捨てると腰に固定されたドスが見えた。

「てめえの獲物で死ねるんだ、幸福なこった」

柄を掴んで抜き取りながら手を離すと髪が数本手に絡んだ。振り上げた刃で頭を割るように下ろすと、食い込んでいく覚えのある手応えがした。

「足りてねえんだ、食ってやるからあんたの脳みそくれよ」

柄を捻って動かすと骨と刃が擦れ合う耳障りな音がした。刃を固定して思い切り蹴るとようやく聞いたことのない音とともにドスが血溜まりに倒れて軽い飛沫をあげた。

指をねじ込んで掻き回してみると冷たい泥に似た感触がした。喉仏を晒し、音を立てて指先を啜る。

「まっずい脳だな……ろくなこと考えてねえ証拠じゃねえのか?」

指先に残ったそれを弾いて飛ばすと、怯む奴らがおかしかった。ポケットに手を突っ込んだまま近寄ってニィ、と笑いかける。引き攣った顔の男が笑おうとして失敗した。

「はいダウト」

砂埃を立たせて蹴り上げた爪先を顎に入れる。痺れた変な体制のまま浅い息をする男を倒して喉を押し込むように踏み付ける。

「いいだろ?鉄板入りの特注品さ」

なにごとか呻いている男の声に耳を澄ましてもなにひとつ聞き取れなかった。

「言いてえこともないんなら潰すぜ」

ぐっと踏み抜いてみながら、意外と軽い音を立てて壊れるんだなあと僕は思っていた。とてもかなしくてたまらないのに、壊れた頭は感情を取り違えたままで僕はいつまでも笑ったままだった。

「狂った犬は殺さねえとだよな」

背後から巻き付けられた腕が頭を絞めてくる。身体を捻ってスーツの内側から取り出した銃をそのまま放った。

「なに驚いてんだ?もう1丁あるぜ、見せてやるよ」

どうしたんだ?早く来いよ。もう一度煽ると誰かが狂った雄叫びをあげて釣られるように伝播したそれが巨大な渦を作る。飲まれた奴らが我先にと駆けて来るのが見えた。銃口をみとめても、こんな倉庫に身を隠せるものなどなかったからさっき撃ち殺した男を盾にして逃げた。

「おい!あのクソ犬ぶち殺せ!クソがっ、松乃の親父になに教わりやがったんだ」

血でぬめる手を拭うために髪を後ろへ掻き上げるように撫で付ける。

「教えてもらった?そんなんじゃねえよ、もうすぐ教えてもらう予定だったのさ……どうやら松乃さんのやり方は成人指定なんだとよ」

肉の盾を引き擦り殺気を放ちながら近寄ると男は小さく悲鳴をあげて震えたまま刀を握り直した。小刻みに揺れる刀身を摘んでじろじろと睨めつける。手入れが悪くかなり曇っていた。

「粗末なもん持ってどうしたんだ?使い方も解かんねえか?戦えねえんならサルの真似してセンズリこいて寝てりゃよかったのにバカがよ」

片方の銃を仕舞って、奪った刀を握る。始末する時くらいしか使ったことはなかったけど、意外と手に馴染む感覚がした。

「てめえに刀は似合わねえよ!」

走り掛かってきた相手をぎりぎりまで引き付けてグリップで脳天を打った。ふら、とよろけた身体を刀で支えて銃身を這わすように頬をなぞった。

「わざわざご教授いただきありがとよ。じゃあこいつで殺すまでだな」

首の付け根から発射すれば斜めに通り抜けた穴が2つ空いた。首に空いたそれを拡げるように切っ先を突っ込んでぐりぐりと回して遊ぶ。飽きたので抜いて、血を払いながら適当に掴んだ頭を引き寄せた。

「てめえらの誰がユダか調べてやるよ、口開けろ」

相談出来る相手を捕まえて聞いてもらうために盗み出して正解だった。もちろん自分では使わないけれど、万が一を想定していた。

「食えよ、中東から来た高級品だ」

握れるだけ握った錠剤を口に押し込んで無理やり塞ぐ。

「いい子だからちゃんと噛めよ?」

こくこくと頷いていた頭がだんだん青ざめて、白目を剥くと痙攣して倒れた口から泡を吐いていた。

身体に溜まった疲労感が溢れて伝うのを感じていた。返り血がくまなく覆い尽くし弾もなくなった頃に少なくなった内の一人が口を開いた。

「悪かったよ三波……俺らはただ松乃をいたぶれって命令されただけで、その」

早足で近付いてそいつの口に銃を突っ込む。それ以上をなにひとつ喋らせたくなかった。

「言い訳なら聞きたかねえな……松乃さんを裏切った、それが答えだろうよ」

頭を壁に押し当てて固定する。

「悪い口は喋れないようにしないと、だよな?」

銃口からの感触で頬から奥歯や顎の骨の感覚を掴む。撃った口を開けさせれば吹っ飛んだり砕けた歯が見えた。そこを何度も踏みつける。頬の風穴から歯の欠片が覗いた。立ち尽くしていた一人が呻いた。

「……こいつ、人じゃねえ」

「なに言ってんだ?僕はもとから人じゃねえ、ただの野良犬さ」

殺そうと銃を向けようとしたその時、突入、と叫ぶ声がして大勢の刑事が入り口からなだれ込んできた。

「おいお前!生きとるか三波ぃ!」

「アマさん!」

走ってきたアマさんの手を引いて松乃さんのところまで連れていく。アマさんが松乃さんの肩を強く掴んだ。

「おいこら松乃!なに寝とんじゃ貴様!立てや!」

「悪いな天河……まさかもうくたばるとはな、今年の内にせめてあと5回はお前のこと投げ飛ばしてやりたかったが、それも叶わなさそうだな」

「黙ってろくそぼけが!救急でもどこでもぶち込んだるわ!やから寝るな!」

アマさん、と息を切らしてミツくんが走ってきた。背後では喚き散らす騒がしい音がしている。

「清道、お前にはまだやること、がっ……」

銃声が響いて、見ていたアマさんの胸のあたりが瞬く間に血に染まっていく。げほ、と咳をすると血が一緒に流れた。

「アマさん……」

ミツくんが立ちあがって、怒声を上げて揉み合いの中に入ろうとするのを駆け寄って止める。

「離せ三波!離れろ、お前自分は仇討ったくせに俺にはさせねえのか!」

「駄目だミツくん!立場が違うんだ、だから君が殺しは駄目だ!」

「じゃあ一人くらい殴らせろ!」

僕を振り切ってずんずんと突き進んでいったミツくんが組の男の胸ぐらを掴んで引き摺り出した。

足払いをして倒した男に跨ると、ミツくんは男が変な鼾を上げ始めるまで顔面を、拳から血が滲むほど殴りつづけた。そして数分経ってから顔を上げると、笑いながらこう言った。

「ごめんね三波くん……一人だけじゃ、とても収まりそうもないや」

そう言い残すと、僕の叫びも無視してミツくんは男たちの中に突き進んで消えた。

「アマさん……?」

「静かに、してやれ」

「松乃さん、今救急車呼ぶから」

「そんなもんはもういい離れてろ……親は子供に死に様見せるもんじゃねえんだ。あばよ三波、お前が酒でも呑めるようになったらもっと話しておきたかったよ」

握っていた松乃さんの手から血の温もりが消えていくことに、本能的な恐怖と強い拒否感を覚える。嫌だ、嫌だやめて、この人を、生き方を教えてくれたこの人を、僕の守りたいものを何回奪おうとするんだ、お願いだから連れていかないで……。

ながい絶叫をあげているのが自分なのだと感じるまで、胸が張り裂けそうなほどかなしいのに、それでも流れない涙の代わりに喉が掠れるまで僕は叫んだ。



「三波……」

「三ツ冨……」

三ツ冨は静かに歩み寄ると僕の胸ぐらを激しく掴んだ。

「なんでだ、なんでお前なんだ三波、なんでアマさんなんだ……クソ……俺が、俺がついていたのに……」

「僕だって三ツ冨と同じ思いだと思ってるよ」

「お前のせいだ三波……お前の組の奴がアマさんを殺したそれはお前が殺したのと同じだそうだろうよ三波ぃ!」

くたりと力の抜けた身体を揺さぶられるのに任せる。シャツのボタンが千切れた拍子に三ツ冨が後ずさって、悪態をついた。

「三波、覚悟しろよ。お前に手錠を掛けるのはこの俺だ。俺も取り調べは厳しいんだよ……アマさんの仕込みだからな。全部吐かせてやる、お前だけじゃねえぞ、長橋組のこと、それから松乃清道のことも全部だ……!」

「なら今掛けてくれよ……!僕が殺したんだろ?」

「法律くらい知ってると思ってたよ……俺だってこんなの間違ってると思うんだ、でも、じゃあ俺の怒りは?かなしみは?無力さは?誰が受け止めてくれる?誰が受け入れてくれる?お前しかいないだろ……三波」

三ツ冨が千切ったボタンを僕に投げてよこした。

「もう会えねえな三波、仲良く出来て楽しかったよ。こんな身空じゃなかったらな……俺はアマさんを奪った全部を憎む。もちろんお前もだ。全て憎んで抱え続ける、歩き続ける。それが俺の選ぶ道で、俺が信じる正義だと思うからだよ……じゃあな三波、二度と現れてくれるなよ」



歩いていると雨が降ってきて、それは瞬く間に土砂降りに変わった。立ち止まれば飲まれてしまうと解ってしまっていた頭が、腐った足を進めていく。走り出していた棒きれの足が泥濘に取られて雨の膜を張られたアスファルトに倒れ込む。立ち上がろうと伸ばした腕が泥に絡まってまた地面に落ちる。情けない、情けなかった、僕はやはり役立たずで、誰の手も望めない野良犬に相応しい人間だ。

部屋で雨音を一人聞いていた。吹き降りのそれが窓を揺らして、轟音ののちに稲光が踊った。もう眠ってしまいたかったけれど、身体に棲みついた罪悪感は髪を掴んでそれを見つめろと言っている。顔を上げて時計を確認すると12時を回るところで、知らない間に僕は二十歳になっていて、たくさんの何かを失うのをただ見ていた。

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