第58話 私の出逢った名探偵 10
「し、しかし、地天馬さん。現場は完全な密室だったのは、動かし難い事実だ」
「単純な手に引っかかったようですね、中間刑事。落とし穴から救い出してあげますよ」
自信満々に言い、手を差し伸べるポーズを取った地天馬。小説に出て来る名探偵を彷彿とさせる。私は事件のことを一瞬忘れ、彼の姿に痺れた。
「犯人は、ドアを破ったあと、どさくさ紛れに鍵を置いたに過ぎません。置いたのではなく、落としたのかな? あのふわふわ絨毯なら、鍵を落としても音はほとんどしないでしょうからね!」
「え。で、では犯人は、房村か……」
中間刑事が台詞を途切れさせ、私の方を向いた。
「ご冗談を!」
私は即座に否定した。そして地天馬に目を向ける。
「ねえ、地天馬さん。お願いしますよ。そんなとんでもないことを言い出されては、迷惑だ。よしんば、あなたの推理が正しいとしても、私ではない。それだけははっきり主張します」
「なるほど。では、もう少し推理を重ねてみますか」
地天馬はそう言うと、暫時目を閉じ、すぐにまた開いた。
「犯人は一人に特定できる。いくら考えても、同じだ」
「でしょう? それを中間刑事に言ってくださいよ。早くしないと、房村が聞きつけ、逃げ出すかもしれないんだし――え?」
私が言葉を途切れさせたのは、地天馬の指先が、真っ直ぐ、こちらを示していたから。
「あなたが犯人だ」
探偵が言った。
「な、何を言うんだ! 私じゃあない」
「房村さんではあり得ないんだ」
首を振り、地天馬が静かに告げる。
「ど、どういう理由で、そう言い切るんだ、あんたは?」
「鍵からワインの香りがしなかった。それが根拠です」
「ワイン?」
私はおうむ返しに叫ぶのみだった。
「房村さんは料理の途中で、手も満足に拭かずに楠田さんの部屋の前まで駆け付けた。彼が鍵を室内に落としたのだとすれば、鍵にはワインが付着したはず。だが、さっき渡してもらった鍵からは、ワインの香りは一切しなかった」
「そ、それは、刑事さんが拭き取ったんですよ。ねえ、中間刑事?」
私の縋るような目つきを、刑事はすげなく払った。
「そんなことはしてない。拾ったとき、この鍵は乾いていた。しかと覚えているよ」
「だ、だけど……手で持っていたとは限らないじゃないか。ズボンの折り返しに挟んでおいて、うまく落としたのかも」
「あなたも房村さんも、テニスウェア姿、つまりは短パン。ズボンの折り返しに挟むのは無理でしょう。次は、ズボンのゴムそのものに挟んで、股から落としたとでも? そんなことをすれば、汗や垢が鍵にべっとりと付着して、証拠を残してしまう」
「な、何だ。それを言うのなら、私だって同じだ。私が手で持っていた鍵を落としたのなら、やはり鍵には汗が着く。そんな愚かな方法を採るはずがない」
「手袋をしていたんでしょう? バーベキューの準備のために、軍手をね」
強弁する私を、地天馬はいとも簡単に退けた。
「だ、だが、房村の可能性を否定しただけじゃあ、だめだろ? 中間刑事だって部屋に入ったんだ」
「見苦しいですよ。この犯罪を行う動機を有し、物理的にも心理的にも実行し得るのは、あなたしかいないんです」
最後のあがきは、私自身、何の効果も期待していなかった。真の意味での悪あがきだった。
以上が、私が地天馬鋭と初めて逢ったときの物語である。
その後、地天馬と顔を合わせる機会は全く得られなかったのだが。
私は逮捕後、罪を認め、裁判でも正直に話し、反省の態度を示した。弁護士は情状酌量を求めた。結果、かろうじて死刑は免れ、無期の懲役刑に服している。
あの晩、二時五十分に起き出した私は、遠藤貴子とリビングで鉢合わせした。
遠藤にブランデーを所望すると、快く出してくれたのだが、代わりに、私のデビュー作を絶版にするか大幅に書き換えろという要求を、改めてしてきた。彼女は小説のモデルにされることを心底嫌がっていたらしく、私がいくら否定をしても、頭から信じて考えを変えようとしなかった。だが、モデルにした覚えのない私も認める訳にいかず、交渉は決裂。私自身は軽く突いただけのつもりだったが、酔いでまだ足下がおぼつかなかったのであろう彼女は、後ろに二、三歩よろめくと、棒切れのように倒れた。そして……死んでしまった。
濡れ衣を着せる相手に楠田を選んだのは、警察の容疑が最も濃く、犯人像に重なるであろうと見込んだこともあるが、楠田が私に疑念を持ったのが大きな理由である。彼は房村とともに朝、遠藤の死を知らせるべく私を起こしに来た。そのとき、房村は遠藤の死と死因だけを伝え、どこで死んでいたのかを言わなかったらしい(私自身は記憶にないのだが)。にも関わらず、私は真っ直ぐリビングへ駆け付けた。この不自然さに気付いた楠田は、中間刑事の事情聴取が終わったあと、私を部屋に呼びつけ、問い質してきたのである。振り返ってみると、楠田も私が犯人であるとまでは疑いを強めておらず、単純に変だな?と思っただけだったようだが、緊急事態に私は半ばパニックに陥り、彼が背中を向けた隙を衝き、その場にあった手拭いで絞め殺した。やってしまったあとで自殺に見せかけることを思い付いたため、偽の遺書を用意する余裕はなかった。代わりに現場を密室にせねばという強迫観念に囚われたのは、推理作家の性かもしれない。結果的に、その小細工が自らの首を絞めたのだ。
全く、ついていない。あんなくだらないことで、滅多に味わえない人殺しの経験をした。推理作家として武器になるのは確実だが、出所後、私の働く場所はあるだろうか。
地天馬鋭は、私と顔を合わせる随分前から、親友と呼べる作家をワトソン役に、活躍しているとは、あとで教えてもらった。他人の作品をもっと読まなければならないなと反省したものだ。
――『私の出逢った名探偵』終
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