第45話 閉ざされたキョウキ 1
病床に私達を呼び付けた依頼者は、ベッドの上から訴えた。
「彼女を助けてやってください!」
まだ三十そこそこと思しき男性だが、着物の重ね目から覗く胸板は若干、肉が落ちているようだ。今し方、声を少し張り上げただけなのに、力なく上下している。
彼の名は
櫛原は「美波」という劇団所属の若手女優で、活動も舞台が中心。事件は彼女が主役を務める舞台の最終リハーサル中に起きた。
劇はオカルト風味のファンタジーで、ざっくりとした粗筋は、両親の敵である死神を相手に、一人娘が聖なる力を宿す短剣を手に入れ、復讐を果たす。一番の見せ場が、短剣を構えた娘が死神に身体ごとぶつかり、倒すシーンだが、当然、剣は刃を押せば引っ込む仕掛けが施された、よくある代物――のはずだった。その最終リハーサルにて、死神を演じた
「血が飛び散りましたが、最初は誰も異変に気付きませんでした。何故って、血糊を入れた袋を剣に仕込んでおいたから、赤い物が飛び散るのは当たり前だったんです」
「気付いたのは誰でしたか」
地天馬鋭が尋ねる。平坦な口ぶりだが、私には彼が興味関心を抱いたことが何となく感じ取れた。
「それは、彼女自身でした。救急車と警察が来るまでに、少し話せたんですが、手応えが違った、おかしかったというようなことを口走っていました」
「刺された当人は、何も言わなかった?」
「町井がですか……。いや、覚えていませんが、多分、何も言ってなかったかと……短い叫び声くらいは発したのかもしれないですが、それよりも櫛原が手をわななかせて、悲鳴を上げたものだから……」
「話を聞いていると、殺人なのか事故なのか、まだ区別できないようですが。短剣が何かの手違いで入れ替わってしまった可能性があるような」
私が口を挟むと、平川は目を向けてきた。
「僕が言うのも何なんですが、彼女が疑われ、容疑者とされたのには一応、根拠があるんです。どこから話せばいいかな……凶器というか小道具の短剣は、鍵付きの箱に保管されているんですよ。その箱自体、舞台上のセットの一部として、壁に完全に固定されており、取り外しはできません。箱のロックは鍵があれば開けられますが、その鍵を管理していたのが櫛原なんです。劇で鍵に触れるのはほぼ彼女だけと言っていいですし、責任持って管理するようにと」
「先に確かめておきたい。芝居に使った短剣と同じ型の、本物の短剣が最初から存在していたのかどうか」
鋭い口調で地天馬が質問を発した。平川は頷きながら答える。
「ありました。町井の奴は美術係を兼ねてたんですが、監督が彼に本物を手渡して、『この短剣が雰囲気あるから、これを模して作ってくれ』と命じたんです。だから、本物が存在したのは確かです。町井が返したのか、そのままになっていたかは知りません」
「監督というのは?」
「あ、
「あとで、瀬間監督に聞いてみるとしましょう。その前に、櫛原宮子自身は短剣について、どう証言したんだろう?」
「知らないの一点張りみたいでした」
平川は嘆息すると、身体を少し上に戻した。現在、ベッドの上半身部分を起こすことで背上げしているのだが、熱を入れて喋る内にずれたようだ。
「いつの間にか、短剣が本物になっていたと。それだけならまだよかったのかもしれません。彼女は正直すぎたんですよ」
「と言うと?」
「小道具の短剣を収めた箱には、稽古の前後で、常に鍵を掛けていたと証言してしまったんです。だからこそ、彼女が犯人だと警察は断定したんでしょう」
「掛け忘れていたことにでもすれば、誰かが剣を本物にすり替えたとの主張が成り立ちますからね。凶器から指紋が検出されたかどうか、ご存知ですか」
「彼女の指紋の他は、一切出なかったと聞いています。当然なんですよ。小道具として使い始める前に、きれいに磨かれたあと、彼女に手渡されたんですから」
平川は喋り終えると同時に、力なく咳き込んだ。事件直後から風邪をこじらせ、肺炎を発症したと聞いている。そろそろ切り上げた方がよさそうだ。
「分かりました。あとはとりあえず、我々の方で直接当たってみるとします。必要に応じて、あなたの名前を出すことになってもかまいませんか」
「ええ。調査に役立つのであれば、僕の名前なんて自由に使ってください。依頼したことも隠さなくて大丈夫。櫛原宮子は犯人ではないと僕が強硬に主張しているのは、誰もが知るところですし」
ゆっくりと答えると、平川は安心したように身をベッドに預けた。
「この件、どう転んでも事実は動かないと思うんですがねえ」
案内を買って出てくれた花畑刑事は、現場までの車中で何度もそう言った。
「たとえ、地天馬さんでも」
「同感なんだが、依頼を受けたからには、調べねばならないのでね」
昔馴染みの刑事相手とは言え、軋轢を避けるためか、同調を示す地天馬。私も調子を合わせることにしよう。
現場は、劇団美波の個人スポンサーが提供してくれた山荘と聞いていたが、森をかき分けるような道をぐるぐると回って着いた先には、なかなか立派な屋敷があった。古色蒼然と形容するのがふさわしい、蔦の這う壁がまず目にとまる。緑色が勝っているはずなのに、全体の印象は灰色がかっている気がした。急角度の三角屋根を頂いているが、平屋造りだという。端から、演劇などを上演する目的で建てられたらしいのだが、その割には交通の便がよくない。
「問題の箱を最初に見たい」
「ええ、かまいませんよ。こちらへ」
玄関から入るなり、地天馬がリクエストした。刑事は愛想よく応じた。巨漢で厳つい顔の持ち主故、笑顔は似合わないのだが。
リハーサルと言うから、いかにも稽古場のようなただただ広いだけのスペースを想像していたのだが、案内された先は様子を異にした。建物の奥にあるその空間は、まさしく劇場と言えた。奥行きのある舞台を前に、観客席こそ並べてないが、広々としたフロアは緩やかな傾斜を施してあった。見易さに配慮した設計ということか。ふと見上げると、照明や音響の設備が散見された。舞台に立てば、よりたくさんの機器が確認できるだろう。
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