第38話 溶解する屍 17
「ん? 手切れって」
「そろそろ別れたいんだが、しつこくてね」
中澤万知子のことを言っているのは間違いのないところだ。この場には姿のない彼女を指差す風に、親指を立てた右手で、明後日の方角を示す飯田。
「ゲームで大金をゲットできなきゃ、万知子の命をゲットしなきゃいかん……と考えたくなるほど、しつこいんだよ、あの女」
何と応じていいのか、困ってしまう。飯田は福井の肩に腕を回してもたれ掛かるようにし、言葉を重ねた。
「だから、さっき騒ぎが持ち上がったとき、しめたと思ったんだ。殺人が起きれば、どさくさ紛れにあいつを始末する、なんてのは無理にしても、殺人犯の手に掛かって犠牲になってくれればありがたいなと夢想したのさ」
「飯田さん、早く部屋に戻った方がいいですよ。やっぱり酔ってるんだ」
「ふふん。ご忠告ありがとう。ま、高校生の君にこんな話をしてすまなかったな。戯れ言として聞き流してくれよ」
福井から離れると、後ろ向きで手を振りながら、飯田は与えられた部屋に向かい出した。
相手が部屋に引っ込んだのを認視した後、福井は深く息をついて、自分の部屋のドアを開けた。素早く閉め、鍵を掛ける。
途端に、力が抜けた。まるで疲れが天井から降ってきたようだ。ドアに背を当て、ずるずると腰を落とすと、腕で両瞼を押さえた。
体験は財産になる。作家を志したときからも、なってからも、それは正しいと信じていた。だが、少なくとも今この時間を取り出して論じるのなら、体験は彼の執筆能力に悪い影響しか与えない。精神的な高ぶりはあったが、疲労感はそれ以上だ。
何が事実で何が偽りか、依然として混乱が残っていた。事実の中にも、日常生活での事実と、ゲームとしての事実が存在する。これが混乱に輪を掛けた。
「眠りたいけど、眠れるかな」
口中でもごもごとつぶやき、立ち上がる。
犯罪が起きた証拠はない。ヘンリー定がいなくなり、お手伝い三人が不審な行動をしただけだ。飯田の危なっかしい発言は気にするほどでもあるまい。用心はせねばなるまいが、見えない犯罪者に過剰反応し、いたずらに震える必要はないと思う。
故に、恐怖で眠れないということはない。
眠れないとすれば、整理しきれない状況に原因がある。明日何が起きるか分からない。そんな当たり前をこれほど強く意識したのは、初めてだった。
「仕事に取り組んでいたら、嫌でも眠くなるさ」
自分自身に言って、彼は持ち込んだ執筆道具を広げた。
それからおよそ三時間後。眠気が急激に襲ってきた。午前二時が近い。
しかし、福井はベッドで横になることはなかった。
道具を片付ける最中、窓の外に物音を聞いた気がしたのだ。それも一度ならまだしも、三度ほど続いた。
感覚が鋭くなっているらしく、普段なら無視するような小さな物音も、正体を確かめずにいられない。
福井は窓際に立った。カーテンを少しだけめくり、地上が見えるよう、スペースを確保する。
庭の池や花壇の一部を視界に捉えた。だが、怪しい人影等は見当たらない。
次に福井は、花壇の草花に目を凝らした。風が再び強まり、その音を聞き違えたのかもしれないと考えたのだ。
「違うな」
見づらかったが、草花はそよとも揺れていなかった。風は凪いでいた。
福井はしばらく外を見ていたが、もはや物音はしなかった。窓辺を離れ、片付けを終えてから、再考する。
もしかすると、ヘンリー定が歩き回っていた(いる?)のかもしれない。だが、福井達へ害を及ぼすつもりがあるとは思えない。
定が姿を現さないのは、大ごとになって出て来にくくなったか、何らかのハプニングで出て来られないのか、他の目的(もっと驚かしてやる!等)があって身を隠しているかのいずれかだろう。何らかの犯罪行為のために身を隠したと仮定すると、あの消失は大げさに過ぎ、定の行方を誰もが、いつまでも気にする。甚だ不都合ではないか。
では、ヘンリー定でないとしたら、誰だ?
「――もういいや。物音がしたからって、それが人間だとは限らないんだし」
自ら吹っ切るため、声に出して結論を下した。
布団に潜り込み、目をきつく閉じる。
琴恵さんに物音を聞いたと伝えておくべきだったかな――。
そんな思いがよぎった次の瞬間には、福井は睡魔に囚われつつあった。
普段なら目覚めてもしばらくは布団の中でごそごそするのだが、今朝は違った。即座に飛び起き、身なりを整えると、福井はドアを慎重に開けた。万が一にも廊下で殺人鬼が待ちかまえていたらたまらない、と思ったからだが、これ
は全くの杞憂(ほとんど妄想の域である)で終わった。
福井は隣の部屋を訪ねた。ノックをすると、竹中が意外に早く顔を出した。
朝の挨拶を交わした後、今が朝七時だと確かめ、食堂に出向いていいものかどうかの話になる。
「琴恵さんとお手伝いの関係があれじゃあ、朝飯の準備ができているとは考えにくいな」
「ですね。そもそも、本館に入るには、琴恵さんに言って、開けてもらわなきゃいけませんし」
「朝っぱらから、ホスト役の部屋を訪ねるのは、礼儀に反するのかねえ?」
「あの。ホステスですよ、女主人なんですから」
「いいじゃないか。我々は日本人なんだから。ホステスだと別の意味に取れる」
くだらない会話をしながら、結局、三階の三〇二号室を目指した。すでに起きているのならそれでいいし、まだ眠っているとしたら、そろそろ起きてもらっていい頃だろう。
「琴恵さん、おはようございます。朝早くから失礼します」
竹中が堅苦しい言葉を並べ、ドアを軽くノックした。
返事がない。
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