第33話 溶解する屍 12
叫ぶが、返事はない。それが当たり前であるかのように、ひと形は水にさらされ、ぷかぷかと浮いている。地面の近くは風が結構きついようだと知れる。
重ねて名前を呼んでいると、二階の部屋の窓が開く気配がした。続いて、何だ、どうしたと飯田や山城栄一の声が聞こえる。だが、庭に面した部屋は、二〇一、二〇二、三〇一、三〇二の四部屋のみ故、他の人達に事態を正確に伝える余裕がない。一時的に無視させてもらい、池に意識を集中する。
五秒ほどして、福井は目をこすることになった。
「溶けてる?」
彼が思わず口にした言葉の通り、池に浮かぶひと形は縮み、崩れていく。夜の帳にぽつんと一点浮かび上がる白い弧の中、ヘンリー定によく似た物体は徐徐に小さくなり、やがて識別できなくなった。
「消えた……」
呆然として見下ろす。山城寿子も同じように立ち尽くしていた。
「一体どうなっておるんだ、騒々しい」
二人の反応を聞きつけたか、枝川や他の人達が続々と集まって来る。
福井は我に返り、部屋を飛び出ると、人混みをかき分け、隣の三〇二号室前に立つ。再度跪いて芯の状態を見た。
「変化なしか」
芯は最初に福井が立てかけたときのままだった。
廊下では、山城寿子による説明会が始まっていた。福井はその人だかりを振り返って、この場に姿がないのは、横木琴恵とお手伝い三名、ヘンリー定、そして竹中の六名と分かった。
福井は枝川に接近し、三〇二号室の鍵を借りられたかどうか、尋ねた。
「おお、そうだ。メイドの一人をつかまえて頼んだら、意外と頑なでな。渡そうとせん。あとで持って行きますの一点張りで、押し切られてしまったよ」
「そうですか。待つしかありませんね」
「そのようだが……定さんが池に沈んだとなると、三〇二の探索どころではなくなるんじゃないかね?」
「うーん。沈んだのではないように見えたんですが」
まだ現実感がない。両手でその輪郭を捉えつつも、指と指との間だからするりと滑り落ちてしまうような。
「現時点での最優先事項は、池の調査に移ったように思う」
枝川が力強く言った。これまでは年若い福井に主導権を握らせてくれた節があったが、事件性が若干濃くなった今、方針を換えるつもりなのかもしれない。
「監督の判断を尊重したいです。ただ、これが本当に事件である、つまり犯罪性を帯びた出来事だとお考えなら、この暗い中、池を調べるのは却って危険じゃないでしょうか。あの池はかなり大きいですし」
「道理だな。だが、このままでは、警察に通報しづらい」
「僕はまだ、全ては定さんのマジックである可能性も充分にあると考えます」
「じゃあ、あやつは我々を驚かせるために、わざわざ池に潜ったと?」
「それは分かりませんが……」
言葉に窮する福井。いささか強引に話の方向を転じる。
「ともかく、琴恵さんに出て来てもらって、全てを話すべきだと思います。もし琴恵さんの予定通りなら、警察沙汰にする必要はないんです」
「彼女が素直に認めるかどうか疑問だが、それは脇にやるとしてだ。彼女にとっても予定外だったときは、どうするね」
「定さんの度の過ぎた悪戯という線を捨て切れませんから、朝を待って、池を調べる。枝川監督だって、一杯食わされるのはお嫌でしょう?」
「うむ……よかろう」
枝川の賛同を得て、方針が決定した。
参加者を代表して、枝川と福井が、琴恵を問い質すことになった。
だが、これがままならない。
いつの間にこうなったのか分からないが、本館へは立入りが禁じられ、ありとあらゆる出入口には鍵が掛かっていた。また、別館で働くお手伝いの誰に聞いても、若き女主人がどこにいるのかはお答えできないという言葉が返って来るのみである。
「これは緊急事態なんだよ」
枝川が信念をぶつけるように、堂々とした物言いで詰め寄る。
「客人の一人が行方不明になったのに、一流モデルともあろう琴恵さんが、知らんふりですまそうっていうのかい」
「そのようなつもりはありません」
「じゃあ、どのようなおつもりがあるのか、はっきり言ってもらいたい。これがゲームの一環ならそうと言ってくれりゃいいんだよ。事件性がなくなったって、我々は真剣に取り組むさ」
「全てを自由に解釈してくださってかまいませんとのことです」
「苛立つなあ。そんなこと言うのなら、警察に連絡するよ」
「失礼ですが、それはご無理かと」
「ん?」
眉間のしわを深めた枝川。彼に着いてきた福井はしばし思慮し、腑に落ちた。
「枝川監督。僕らは電話を使えない立場に置かれてるんですよ」
「……ああ! そうか」
携帯電話は使用不能、館内に設置された電話も見当たらない。館を出ずに警察へ通報するには、狼煙を上げても無理だろう。
枝川は自らの額を手のひらで打った。
「携帯電話云々とやかましかったのは、そういう意図もあったのか。一本取られたな」
「どうしても通報したければ、失格覚悟で館を出るしかありませんね」
福井もあきらめ気分になった。
「琴恵さんが慌てふためいてゲームの中止や延期を宣言したら、明らかにハプニングですけど、そうじゃないみたいだから、これも予定通りなんですよ」
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