第29話 溶解する屍 8
「それはございません」
寿子と同世代のお手伝いが、満面の笑みで返事をした。だが、具体的に何時に行われるのかについては口止めされているのか、触れようとしない。
「公平を期すなら、皆が集まった場でやるしかない」
満を持したように言ったのは枝川。
「たとえば、今、この瞬間もチャンスだな」
「なるほどね。しかし、肝心の琴恵さんが端からいないんじゃあ、どうしようもないだろう。消えようがない」
飯田は否定的な見方を示すと、グラスに残っていたビールを一気に呷った。彼に限らず、参加者達は今夜中にあるはずの消失現象に備え、強めのアルコール類を避けている節が窺えた。最前ぼやいた山城寿子も、水割をちょびちょびすするくらいで、大した量ではない。何にせよ、高校生の福井にとっては関係のないことである。
「許されるのであれば、しばしの余興として、私めが消えてみせてもいいが」
定は片手で髭をしごきながら、もう片方の手でグラスをゆらゆらと揺らしている。残った氷が溶けるのを早めたいかのように。
「あなたのマジックの素晴らしさは認めるが、今、そんなことをされても、気分が乗らないな」
そう言うと飯田は隣の中澤にも同意を求め、肩を抱き寄せた。
「私は見てみたーい。どうせ暇だもんね」
「いや、混乱するから、やめておいてもらいたい」
枝川が断固たる口調で告げ、テーブルをとんと叩いた。
「混乱するとは?」
「琴恵さんは、参加者の中に共犯――協力者がいる可能性を示唆しておった。今ここで定さん、あんたに消えられ、さらには琴恵さん自身も姿を見せないままでいたとしたら、残された我々はどう判断すればいいのかね? あんたと琴恵さんがぐるで、消失を行ったと解釈する余地が出て来る。このような意味で、混乱すると言ったのですよ」
「ふむ、理屈ですな。だったら、私の消失は琴恵さんとは一切関係ないと、ここで明言するというのはどうです? 信じてくだされば、私も心置きなく消えられます」
提案すると、挑戦的かつ自信溢れる表情を覗かせた定。
何故この人は消えたがるのか?――福井の脳裏はそんな疑問でいっぱいになった。ただ単に自らの腕前を自慢したいだけかもしれないが、他人の家で何の準備もなしに消えられるものだろうか。ここは当然、琴恵と協力関係にあるんだと疑って掛かるべきではないか。
「面白いから、自分は賛成だな。いくらでもやってください」
隣に座る竹中には、福井のような発想はないらしい。無邪気にリクエストし、手を叩いている。
「どうしてもやると言うのなら、条件を出していいかな?」
枝川が言った。定がうなずき、先を促す。
「定さんオリジナルの消失現象のあと、あんたはすぐに我々の前に姿を現し、なおかつ、種明かしをしてもらいたい。そうすれば、単なる余興として楽しめる」
「やあ、これは困りましたな。種明かしだけはご勘弁ください。時間をなるべくおかずに姿を現すという条件の方は、クリアできなくはないですが」
「プロのマジシャンに種明かしを要求する無礼は、百も承知。今は状況が状況故、余計な要素は排除したいのだよ」
「仕方がない。私が消えるのはあきらめて、その代わりに」
髭を一跳ねさせると、定は片目を瞑り、おもむろに立ち上がった。
皆の視線を集めたところで、手近にあった未使用のワイングラスを持ち、手のひらの上に立てた。そこへ、胸ポケットから出した白いハンカチを被せる。ワイングラスはすっぽりと覆われ、見えなくなった。
次の瞬間、定の両手がハンカチごと、ワイングラスを上下から押さえつける。ガラスの割れる音が響き渡るかと思いきや、定の両手は静かに合わされた。紙くずを丸めるような仕種で手を動かし、開くと丸まったハンカチが現れる。それをポケットに戻しながら、「代わりに、グラスを一つ、消してみました」と決めのポーズを取るマジシャン。
「すごーい。どうやったの?」
一番近くで見ていた中澤が、胸ポケットへ今にも手を伸ばそうとするが、定は緩やかな動きで逃れた。
「この種明かしはしなくてもいいはずですよ。私が消えた訳じゃないんだから」
そう言われても、中澤の顔には不満がありありと残る。彼女は隣の飯田の身体を揺すりながら、「ねえねえ、あなたは分かる?」と忙しなく尋ねた。飯田はいかにも適当に、「磁石を使ったんだよ」と答えていた。
「お見事な手並み。驚かされました」
手を叩いて賛辞を送る枝川。その横の幸田は、あまりの早業に何が起こったのか分からない様子で、きょとんとしている。山城夫妻も同様だが、こちらは芸風と相まって、わざとらしいくらいに大げさな驚きようだ。
「福井君、福井君。あれ、分かるかい?」
竹中がひそひそ声で聞いてきたので、福井は拍手をやめて、「ええ、何となくは」と小声で答えておいた。
「教えてくれよ」
「あとで」
「約束だよ」
「今度の長編の締切、もうちょっと余裕ください。そうしたら考えます」
「むむむ」
二人だけの内緒話のつもりが、定に聞こえてしまっていたらしい。ふと気が付くと、定が福井の真後ろに立っていた。
「マジックにお詳しいようだ」
「え、ええ。まあ。ちょっと本でかじった程度ですが」
「実演はしない?」
「はい。不思議な現象とそのやり方や演出に興味があるんです。推理小説に応用できないかなっていう、さもしい願望もあって」
正直なところを白状すると、対する定は宙で頬杖をつく仕種をし、やがて言った。
「このあと、私の部屋に来ませんか。ミステリに使えそうなマジックの種を、ほんの少しだが、明かして差し上げようと思うんだが」
「え。そ、それは願ってもない話ですが、いいんですか」
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