ホログラム

樫ノ木 ジャック

1 青い影

 秋月かおりは、マグカップを片手に窓辺に歩み寄った。

 閉じられていたブラインドのスリットを、指先でそっと突きひらく。雨粒に覆われたサッシが明滅していた。おそるおそる屋外を覗き見る。連写するカメラのフラッシュのように、電光が外苑東通りを照らし出していた。虚空からばら撒かれた雹のつぶてが、サッシ全体にバッ、バッと、周期的に吹き付けてくる。

「……一万三千ケルビン」

 独り言ちた顔が、薄く笑っていた。稲妻を観て、無意識のうちに閃光の色温度を口走ったのだ。薄笑いは、そんな特殊能力にたいする自嘲の笑みだった。放射線科医の秋月だった。

「それにしても、心細い夜だよね」

 当直のその夜が、春の嵐とかさなったからだけではなかった。「ふっ」とため息がもれた。耳の奥を、か細いこえが立ち上る。ひとり長男の声だった。

「おうちに帰ろう」

 堪えねばならない境遇を察しつつ思わず漏れ出た長男の本音。不安を必死にこらえる表情が脳裏をうかびあがる。小さくも重たい要求をきっぱりと拒絶せざるを得  

 秋月は、

「言うこと聞いてね。パパが見てるよ」

 と言い返した。秋月の手は、白い敷布団に横たわる彼の胸のうえに置かれていた。まだ慣れない保育室だった。しかも初めて迎える一人っきりの夜なのだ。四歳半の我が子が胸にいだく心細さを案じ、憂いが顔にあらわれそうになった。それを押し鎮め、笑みを繕って言った。

「明日はパパの誕生日だよ」

 不安げでいた我が子の表情が変わった。

「うん」

 自分の意を翻意する言葉だった。不安定な母の胸の内を案じて発したにちがいなかった。

「お名前通りのお子さんですね」

 隣で膝を立てて寝姿をのぞきこむ初顔の保育士が言った。秋月が愁眉をひらいた顔になった。

「勇気くん」

 つづけて呟いた保育士のことばだった。

「どうもありがとう」感謝したくなるほどの自慢の名なのだ。名付け親は父親。勇気自慢の勇敢な男だった。

 シングルマザーの長男、通称名ヘンリーは、明るいブロンドの髪色だった。

初期研修プログラムを終え、念願の専門研修医というレジデントになれた経緯は褒められたものではなかった。

 シングルマザーの身なのだ。育児を優先させなければならなかった。初期研修時には、運よく父母の住む実家近くの研修指定医療センターにもぐりこめた。甲斐あって――育児休暇をいれて三年をかけてはしまったが――なんとか専門科の入口まではたどり着けた。もっとも、片田舎にある当該医療施設において需要は目にみえていた。しかも毎年のように刷新される高度な装置医療の放射線科だった。初志をつらぬくには、実家を離れる以外に術はなかった。

 長男はまだ四歳半。秋月かおりにとっての懸案事項は、一にも二にも育児だった。実家に頼りっきりであった部分を、レジデントという多忙を極める立場の中でどうやりくりすれば良いのか?

 問題解決のためには出身大学の医局を頼るしかなかった。シングルマザーであることを知られるに至って、自分に対する医局内の眼は、表向きには優し気にみえるのだが、その実、厳しいことは十分に承知していた。それでも背に腹はかえられなかった。工作に打って出た。

「……出来ないことは出来ないとはっきり言ってください。あれも出来ます、これも出来ますと言っておきながらやっぱり無理です、と言うのでは医局にも迷惑がかかります」

 選考面接時、そう勧告のことばをむけてきた医局長の本心が、各種カンファランスや初期研修医に対するレクチャ用務を大幅に斟酌する代わりに、「……で、何ができる?」を問い質そうとしていることぐらい察しがついた。

秋月は、当直を買って出るアイデアを返した。内科や外科等のメジャー科と比較して、放射線科が、技術科技師に当直を丸投げし、患者との関わりの少ない医師たちが、それを免除されてきたという慣行を知っていたからだった。

それが、院内において、教授や医局長らの負い目となっていた。その「弱み」につけこんでの工作だった。

「……その間、子供は? 残念ながら本院には託児所がないんだけど」

 提案にひらめいた顔の医局長は、すぐに渋面をつくろって気遣いのことばを向けてきた。秋月は子をあずける保育所の夜間保育システムの充実ぶりを示しつつ説得した。

 晴れてレジデントとして潜り込めた。……とは言え、子の存在を利用した工作なのだ。代償はあった。保育所内で子供を寝かしつけてからの当直勤務。月の内の何回かを、夜一人っきりにさせてしまうことへの不安。レジデントでいる三年間、その代償は払い続けねばならなかった。

 深夜、春の嵐を覗き見る秋月の口元から、ふたたび溜息が漏れ出た。眼下の外苑東通りに目をおとした。信濃町駅から四ッ谷三丁目交差点へとつづく左門町とも呼ばれるこの一帯は、都心の中にあっても古い街の面影を残す通りだった。だから夜景になるような街明かりはほとんどなかった。雷警報が発令された深夜、漆黒を稲妻が不規則に明滅している。ヘンリーの寝姿が、稲妻の明滅のあいだを浮かんで消えた。

 ブザー音を耳にして、秋月は後方を振り返った。当直室のテーブルの上に置かれてあったスマホが鳴っていた。手にとった秋月が通話ボタンをタップした。「消化器外科の水木だ」……スピーカーを流れ出た相手の声だった。受付からかと思ったのだが、意外にも消化器センターの当直医だった。

「二次救急で対応してくれ。下腹部圧痛。女子十五才」

「二次救急?」

「救命案件だ」

「聞いてませんけど」

 秋月が戸惑いのことばを返した。

「チューベンがつべこべ言うな」

 当面は軽傷者対応が当直の条件だったはず。その申し合わせを歯牙にもかけない口調だった。相手は、

「今から向かう」のことばを残して通話をきった。

 ――――

 放射線科診断室のドアがひらき、看護師が押し滑らすストレッチャが運び込まれてきた。水木新平がその後方にすがたをあらわした。

「急ぎエコーを頼む」

 白いTシャツに緑色のケーシーを羽織った水木は、反問も挨拶もゆるさない口調だった。ストレッチャに横たわる者に目を向けた。

 運び込まれてきたのは髪をピンクに染めた少女だった。蒼白の顔色。額をべっとりと脂汗が覆っていた。急を要する事態だとすぐに察知できた。

「そこへお願い」

 白いマスク顔の秋月かおりがゴム手袋を装着しながら看護師に目顔を送った。

 検査台に移された直後に少女の手足が痙攣をはじめた。下腹部にゼリーを塗りひろげプローブを押し当てる。まもなくしてモニタ画面に音響陰影が浮かび上がった。

 プローブは少女の右下腹部をとらえていた。モニタを凝視する秋月がつぶやいた。

「虫垂炎ではないようね」

「分かっている」

 推察のことばを言下に返した水木は、「もっと中央の方だ」と、走査すべき部位を荒っぽく指示した。

 秋月がプローブをすべらせる。直後にその眼が吊り上がった。……画面全体を腹膣内の大出血を示す造影が映し出されたのだ。彼女のひろい額に、こまかな皺が浮かび上がった。大出血を示す音響陰影の中に、くの字型の影がうごめいていた。さらに画面に顔を近づけた。

(もしや?)

 何かを感づいた顔の秋月が、検査台に目をふった。

「いたい。いたい!」

 少女は手足を痙攣させ幼児のように泣き叫んでいる。たった今、脳裏に浮かんだ憶測を打ち消したくてまぶたを瞬かせた。

 二度、三度、横たわる少女と、画面の中の現実とを交互に見比べていた秋月かおりは、その視線の先を、モニタ画面の中で停止させた。

 一段と甲高い悲鳴が診療室内をとどろき渡った。手足の痙攣は全身に伝播していた。水木と看護師がそれを押さえ鎮めている。

 深夜、腰を深くしずめ、うずくまって苦しむ少女を一目見た医事課受付担当者は、急性虫垂炎をうたがい消化器センターに処置を依頼してきた。各科診察室には臨床用の小型超音波エコーが装備されていて、各担当医も使用法は心得ている。水木もエコーをこころみていた。腹膣内に黒くひろがる造影を面前にしたのはそのときだった。しかし小型エコーの精度では詳細がつかみきれない。案じた水木は、放射線科医が当直をはじめたことを聞き及び、検査を依頼してきたのだった。

「うっ」

 秋月はおもわず息をひいた。勾玉型の白濁した影を画面の中に見つけ出したのだ。白いマスク越しに「子宮外妊娠」の言葉が漏れ聞こえた。片目尻を吊り上げた水木が低くつぶやいた。

「まずいな」

 ほぞの緒が胎児の首を捻転させ身をひきちぎっているのがはっきりと読み取れるのだ。

「産婦人科のオンコール担当を呼び出してくれ」

 水木にうながされ、看護師がスマホを手にとった。

「……担当医が来るまでのあいだに出血のドレナージを」

 口にしたのは秋月だった。進言に小さくうなずいた水木だったのだが、表情は苦悶していた。

 モニタ画面には、大出血を示す音響陰影が、今もなお腹膣内をひろがっていた。血液の体外への排出ドレナージは一刻を争う状況だった。しかし水木は躊躇っていた。ドレナージ後の、引き裂かれた胎児の処置や、難易度の高い癒着した卵管摘出手術を耐えられる体力を、若干十五の少女では、持ち合わせていないと判断したからだった。

「開腹は厳しいだろう」

 躊躇いのことばを漏らした水木に対して、しかし秋月は、冷静な声色で反応した。

「CTガイド、透視断層画像下でのカテーテルでは?」

 CTのサポートの下、内視鏡や腹膣鏡を用いた、経皮的、非侵襲性の高い手技でドレナージに対応するならば、持ちこたえてくれる可能性は、たしかにあった。

 水木がおもむろに同意の点頭を返した。秋月は、「透視ガイド、手伝います」と告げて、治療室につづくドアを引き開けた。

水木がその後ろすがたをじっと見入っている。意外なものを見る目線だった。それは、着任したてのレジデントへ向けられた、畏敬の眼差しでもあった。


 ファインダの中を浮かび上がったブライトリングが、きらきらと瞬いている。息を止めてシャッターを押し込む。ストロボの白い閃光が立ち上り、スタジオ内はすぐにまた溶暗した。記録された画像がPCに取り込まれ、それがモニタ画面にあらわれでた。 

 写り具合を確認した永井薫は、小さく首肯してから撮影台に歩み寄った。スポットライトを点灯させて、サイドテーブルにひろげられた撮影リスト表に指を這わせる。「XK003」――つぶやいたのは、照合のための製品略号だった。

白い手袋を装着して、撮り終えたブライトリングをその手にとった。そしてアタッシュケースの中に収納すると、換わって新たなモデルを手にとり、白い手袋で磨き上げた。それをふたたび撮影台にセットし、エアダストを吹きかける。被写体の取り扱いは、その繰り返しだった。商品カタログに掲載される切り抜き用のカット撮りだった。

 永井は、被写界深度を考慮した、望遠レンズが装着されたカメラ本体の位置にもどると、おもむろにファインダをのぞきこんだ。後方に垂れた黒い背景布の中を、ライティングされた被写体がきらきらと浮かび上がって見えている。

 永井がスツールに座る男をふりかえった。依頼元商社の宣伝部員だった。

「確認ねがいます」目顔をモニタに送り込んだ。

「あとどれくらいかかりますか?」

 要請のことばにたいして問いが返ってきた。部員の表情には疲労の色がにじんでみえていた。

 この期に及んで、「所要時間」の問い掛けが、費用対効果の通じないこの世界で、意味を持たないことを知らない初顔の部員だった。彼にとっては、今回が初めての撮影立ち合いだったのだ。予定を大幅に過ぎていた。予め伝えておいた「終了予定時刻」も、間に合わせの言葉であることを知らない素人だった。

 当初は薄暗い空間に交錯するライティングの妙やら、シャッター音の厳粛さに対して物珍しさを感じていた宣伝部員だったのだが、しかし次第に、シャッター毎に被写体の角度やライティングの微調整をおこなう微に入り細にうがった作業、良くいえば撮影人のこだわり、悪く言えばなかなか進まない非効率な撮影テンポを訝るようになっていた。

 日はもうすっかり暮れていた。昼過ぎからはじまったスタジオ内での撮影だった。ファインダに集中するものにとっては一瞬の数時間なのだが、初顔の立会人にしてみればそうはいかない。しかも、依頼元のような高級商品を扱うクライアントは、フォトスタジオにとって上得意なのだ。いつもの手を使う頃だと察した永井は、コーヒーブレイクを宣言して部員に歩み寄った。

「珍しいものをお見せしましょう」

 差し向けたのは乳白色のクレカに似たカードだった。いつもの小道具だった。手に受けた部員が小首をかしげた。永井は胸ポケットに忍ばせてあったLEDレンザーを点灯させ、明かりをカードにむけた。直後、部員が「えっ……?」と小さく驚きのこえをあげた。

 訝しげな顔の部員に、永井は、「ホログラムです」と、応えて笑みを返した。手にもつカードの上を、白い花影が、3Dホログラムとなって浮かび上がっていた。 

「立ち会いの記念です。オリジナル、一つ作ってみましょうか?」

 永井はスタジオ奥に目顔をおくった。その視線の先に、「ミニスタジオ」の提げ札がかけられたドアがあった。

 ――――

 装置の大きさはビリヤード台ほどだった。レーザービーム発振器の前に立ち、中腰になって各種レンズの位置を調整する永井の姿もまた、ビリヤードに興じるプレイヤのようだった。

 初めて対面するものを、物珍しげに見やる部員に、永井は記念になるような被写体を要求した。

「手の中に収まるほどのサイズ」だと指示された部員は、懐からプレリのキーケースを取り出しさしむけてきた。手に受け、キーリングをつまみ上げた永井は、慎重な目になってそれを撮影台の上にそっと落とした。

 装置全体に目を巡らせた。検める目付きだった。それは、これから発せられるレーザービームの「軌跡」を、思いえがいている目付きでもあった。確認を終えた永井は、黒いフェイスシールドを部員に差しむけた。

 レーザービームから目を保護するための遮光用だった。部屋の灯りが落とされた。暗闇の中、永井はレンザーを顎にはさんで手元を照らし出した。コダックの感光シートを抜きだし、除振台の上にミニクランプで固定した。セットアップが終わって発振器のまえに戻った永井は、対物レンズの前に黒紙を右手で立てた。シャッターの役割をもつものだった。

 数秒の短いカウントダウンの後、発振釦が押し込まれた。発振レンズから発射されたレーザービームが、装置の上に緑色の幾何学模様をえがきだした。フェイスシールドの黒い曲面に、光の円弧が浮かび上がる。レーザーの先端は、永井が右手にもったシャッターのところで停止していた。対物レンズの直前にある位置だった。レーザーの進行は、そこで遮られた状態だった。

シャッターが引き抜かれた。同時に、対物レンズ内で、先端を二つに割ったレーザービームは、その一つが被写体のキーケースを、もう一方が感光シートを照らしだした。数秒後、シャッターが元の位置に押し戻された。

 ――――

 深夜、撮影が終わり立会人も去ったスタジオ内――。

機材の片づけを終えた永井薫は、窓辺におかれた真っ赤なソファに身をしずめながら、琥珀に染まったロックグラスを片手にしていた。ネットラジオからはプロコルハルムが流れている。

 新宿通り沿いに建つオフィスビルの最上階。眼下に新宿御苑が見下ろせる位置だった。口に含んだ琥珀を、喉を上下させてのみこんが永井が、ゆったりと屋外を見渡した。

稲妻の明滅のあいだを見え隠れする漆黒の御苑は、街明かりの中にぽっかり空いた、巨大な垂直洞穴のように見えていた。「洞穴」の向こう側には、NTTドコモタワーがそびえ建っている。その尖塔から、上空の黒い雷雲に向けてレーザー光が伸びていた。レーザー誘雷システムだった。

 高層ビルが林立する一帯では、温暖化の影響で、落雷の被害が深刻な問題となっていた。とくに電源障害、電子機器の雷サージによる損壊は見過ごせない状況だった。対策として都が設置したのがレーザー誘雷システムだった。――落雷とは、巨大な電荷のプラスとマイナスとが、互いに差し伸ばした手と手の先端で結ばれて生じる放電現象なのだ。レーザー誘雷システムの役割は、その放電を安全な場にうながすための地上から差し伸ばした片方の手だった。雷警報が発令されていたこのとき、レーザー誘雷システムは十数秒間隔で放電を誘発させていた。

 しかし、動画撮影にも対応できるようにと防音対策を施した永井スタジオ内は、青白い明滅だけの世界だった。ウイスキーを傾けながらソファに身をしずめ、屋外に目を漂わせていた永井が、ふと何かに感づいた。ソファを立ち上がった。窓に両手をついて眼下を見下ろした。奇妙な白い影が、漆黒の「洞穴」から、ゆらゆらと立ち上ってくるのが見えた。一際大きな放電がはなたれた直後だった。それは、永井の眼の高さにまでゆったりと浮上してきた。さらに目をそそぎこむ。白い枯れ枝のような、奇妙な影だった。目違いかと思った永井は目を瞬かせた。直後、稲妻の明滅と瞬きとが同期するようになって、軽いめまいをおぼえた。やり過ごそうと、まぶたをしっかりと閉じた。また開いた。

「……ふっ」

 ため息が漏れた。眼前の黒いガラス窓を、稲妻に照らされて見え隠れしていたのは、疲労した自分の顔だった。

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