迷い契る一月二日

 無意識を意識すると、それはその時点から無意識であり得なくなる。当たり前のことだが、それは重要なことだ。カンガルーという言葉をこれから三時間、絶対に考えないで下さい、と言われた直後、喚起されたカンガルーは脳の言語中枢の片隅に燻り続け、出来るだけ考えないように考えないようにと、全く他のことに意識を向けようとすればするほど、その愛らしい姿が禍々しくちらついて来る。つまりそれは、カンガルーについて無意識でいてください、と言われた瞬間にそれは無意識では無くなるということで、無意識に、という表現は言葉で表す以上に難しく、恣意的に行おうとしても、ほとんど不可能といって良い。普段、無意識にカンガルーのことを考えている人間など、オーストラリア在住でもない限りほとんどいないはずなのに、いざ考えるな、と言われると思い出してしまう、その妙。無意識に、という言葉は結果論に過ぎず、後になってその時の状況を顧みれば、確かにあるものに対しては無意識だったと把握することが出来るという、ただそれだけのことで、誰も好き好んで無意識に動いているわけではない、ということなのかもしれない。

 まあ、何と言うか。好き好んで無意識に動ければ、どれほど楽だったか、と。

 気付けば、日付が変わっていた。

 突然帰宅した両親を出迎えて、テレビを見がてら父さんの晩酌に付き合い、一番風呂を好む母さんの後に入浴した。固く閉ざされた俺の部屋にハンプバックを残していたわけだが、その間中、彼女のことが頭から離れなかった。あんなインパクトの強いものとエンカウントして無意識でいられるほど、俺は精神的な強さを持ち合わせていなかったのだ。髪を乾かし歯磨きを終えて部屋に戻ると、当のハンプバックは俺の枕をベッドにして、眠ってしまっていた。どこから取り出したのか、タオルケットのような自分サイズの毛布に包まり、腕を枕にして丸くなって寝息を立てている。毛布の端からひょっこりと柔らかそうな尻尾が覗いている。少し可愛い。少しだ。勘違いするな。

 とりあえず、勝手に人の寝床で惰眠を貪るとは何事か。父さん達が帰って来るや否や、「悪い、続きはもうちょっと後で」と全てを放り出して部屋から出て行った俺にも少しは非があると思うが、この態度はいただけない。

 いや、眠っていることを怒っているのではない。待ちくたびれて思わず眠ってしまったのならば、俺も悪い顔はすまい。「今日は慣れないトーク合戦に花を咲かせる羽目になったせいでいつもより疲れてるんだな」とか好意的な解釈をして、風邪を引くぞ、と言いながら優しく毛布をかけてやるくらいの気概を持ち合わせているはずだ。どんな毛布をかけてやるかは気分次第だが。

 つまり、ここで問題なのは、ハンプバックのマイ毛布なのだ。これを広げているということは、待ちくたびれて寝てしまった、という状況ではない。寝る気満々で夢の世界へと旅立った動かぬ証拠である。「うーん、むにゃむにゃ、もう食べられないよ」というあり得ない寝言を呟くその小さな寝顔の裏に、そんなふてぶてしい根性が染み付いていようとは。そして何が一番腹立つかと言えば、その寝顔がやたらと愛くるしいことだ。俺が、「月鳥、父さんなあ、今回のプロジェクトに命かけてるんだけど、何かちょっと駄目そうなんだ」と笑いながら物騒なことを言う続柄:父の男の話を肝を潰しながら聴いていたその間、この猫背の小人はこんな顔で俺の枕の上に横たわって、文字通りの夢見心地でいたというわけか。畜生、何が一番悔しいって、さっき一瞬だけ、「ああ、こいつが人間と同じ大きさだったらなあ」と思ってしまった自分がいたことだ。……いや、勘違いだったということにしておこう。ノーマルな俺はそんな発想などしない。きっとそうだ。少し父さんに付き合って酒を飲まされたから、何となく酔って、ちょっとおかしくなっているんだ、俺は。うん、呂律も回っていないということにしよう。そういう設定にしよう。

「おい、起きろ」

 両親に俺の声が聞こえたらまずい。大きな声は必然的に出せなかった。息子の俺が独り言をぶつぶつと喋るようになったとでも思われたら、俺の築き上げてきたイメージが全て崩壊する。がらがらと音をたてて。そんな不本意な形での親不孝など御免だった。

「おーい、ハンプバック、起きろ」

 ハンプバックの耳元に向かって小さく囁くが、猫耳がぴくぴくと僅かに動いて反応するだけで、本人は起きる様子が見られない。肩を揺すって起こそうにも、小人に触れることは出来ないのだから、それも不可能だ。

 だったら、と枕自体を揺らしてみても、眉をひそめてうにゃうにゃと機嫌悪そうに唸り、姿勢を変えて再び元の表情に戻るだけだった。見ていてちょっと面白かった。

 致し方ない。俺は、最後の手段に出ることにした。小さな毛布に包まれた、その丸い背中にゆっくりと指を近づけていく。予想通り、指は毛布も貫通した。ハンプバックの持ち物は軒並み今の俺ではさわれないらしい。そして、当然触ることの出来ないハンプバックの身体を、上へ下へとゆっくりと撫で回すように――

 びくっとハンプバックの全身が波打つように動き、毛布を蹴り上げてそのしなやかな全身が一気に跳躍した。目にも止まらぬ様なスピードで俺の手を逃れた小人は、ベッドの反対側の端ぎりぎり壁際まで逃れ、壁を背にしてこちらを睨んだ。それは、たった今まで眠っていたとは思えない、戦いを知る者の顔だった。真剣な顔は、だがしかし、それでもデフォルメ化されたような頭身のせいで、いまいち迫力に欠ける。

「女体に触れたいのなら、まず弁護士を通せと学校で習わなかった?」

「いや、習った覚えも無ければ、教えている筈もないぞ」

「私の肉体が目当てならご愁傷様。私、米騒動の首謀者みたいな人がタイプなの」

「何も、そんな分かりにくい歴史的事件を引き合いに出さんでも……」

 何故かハンプバックは、少しだけ怪訝そうな顔をして、それから辺りをきょろきょろと見回した。きょとんとした顔で瞬きを一度、それからぽんと手を打った。

「あ、もう私こっちに来てるんだっけ。うっかりうっかり。向こうにいた頃の夢見たもんだから、つい本気になっちゃった」

「……小人の国における常識が俺にとっての非常識であるということはよく分かった」

 つまりはあれだ。この小人は、あんな凛々しい顔をしておいて、まだ全然寝ぼけていたというわけである。天性のコメディアンなのだろうか。『向こうにいた頃』のものと思われる、洋画の吹き替えを思わせる妙な物言いは気にかかったが、これ以上初悶々を長引かせるわけにはいかなかったので、俺はやむを得ず本題に入ることにした。

「さっき言ってた、守護小人ランキング決定公認バトルって、一体何なんだ?」

 ハンプバックは、すぐには答えなかった。無言のまま歩いて先ほど蹴り捨てた毛布を回収し、くるくると丸めて、内ポケットにしまい込む。勿論、そんな大きなものが収納できる内ポケットのついた服なぞ存在するはずも無く、例の小槌のように、不思議空間に詰め込んでいるのだろうことは容易に想像できた。

 枕に腰を下ろして、ハンプバックは真剣な目でこちらを見た。

「一応断っておくと」

「おう」

「ほとんどの守護小人の正式契約者は、私がこれから話すことを知らないの。守護小人が契約の時に敢えて詳しい説明をしない場合が多いから。その理由はいくつかあるけど、契約者の生き方に余計な影響を与えないようにするためってのも一つにはある。だから、君もそれを肝に銘じて、人生観変わらないように気をつけてね」

 小人が目の前に現れた時点で、俺の人生観はだいぶ変わったので、これ以上何が起きても今より妙な風にねじくれることはないだろう。安心して良いと思う。頷きながら目線だけで続きを促す。

「この世界を支えている概念は、戦いなの」

「それはまた……随分と殺伐としたテーマだな」

 猫背の守護小人の口から、まさかそんなシビアな意見が出てくるとは思わなかったので、正直少し吃驚した。

 戦い。その言葉の意味するものは。戦争、戦闘、決戦。対立する二者間の諍い。勝負。

「人生の勝ち組だとか、負け組だとか、そんな言葉があるでしょ? あれはあながち間違いではないの。この世界における戦いの、勝者と敗者。それがそのまま本人の人生に現れてしまっている。それだけのこと。生きることそれ即ち戦いなの。受験戦争、企業戦士、なんて言葉聞いたことあるでしょ? 過剰なまでの競争を意識させるから、とその言い回しが問題視されることもあるようだけれど、とんでもないことよ。何故なら、それこそが世界の核心なんだから。この世界で生きとし生ける者は、皆総じて戦士なのよ。生を受けた瞬間から、産声を上げた瞬間から、その人の戦いの幕は切って落とされているの」

「言いたいことはわかるが、猫背の守護小人というふざけた存在そのものが、説得力を減じさせているように思えるのだが」

 ハンプバックは、少しムッとしたようだが、ぴょこんと立ち上がると、チッチッチと小さく指を振って見せた。

「わかんないかなあ。逆に、私みたいのがいるのに世界が戦いに満ちているってことが、どれほどグロテスクなことか。君は、真面目に考えたことがあるわけ? 『この世界に生きるということは常に何かと戦うということだ』なんて、たぶん真新しい考え方でも何でもないわ。一回くらい、今までにも聞いたことあるかもしれない。けど問題は、それを本当に真に受けて捉えたことがあるかどうか、よ。生きるか死ぬかの紛争地域で暮らしているわけでもなく、不景気と言われながらも圧倒的に裕福な暮らしの出来るこの国で、さらにモラトリアム期間と揶揄される学生の分際で、日々のうのうと暮らせる君が、常に何かと戦いながら生きてきたと、そういう意識を持ちながら生活してきたのだと、自信をもって口に出来るわけ?」

 やたらと筋の通った論理展開に反論出来ずにいると、ハンプバックはさらに勢いに乗って続けてきた。

「出来ないでしょ? それでも、世界は本当に戦いを基盤にしながら回っている。言いたいこと、わかる? 私は、猫背の守護小人。ふざけた存在と思うのは勝手だけれど、こんな私ですら、世界の戦いに一枚噛んでいる。つまり、君もそうなの。漠然と、人生は戦いだと言われて納得出来ても、普段からそれを意識している人間はいないわ。それでも人生は戦いなの。これは、非常に怖いことよ。戦争で命のやり取りをしているわけでもなく、あまつさえ格闘技で殴りあうわけでもない、一般人という括りに入る人間ですら知らず知らずのうちに戦ってしまっている。誰も逃れることは出来ない」

 ハンプバックはそこまで言うと、大きく口を開けて欠伸をした。にゃむにゃむと口を動かしながら、目元を拭う。眠たいらしい。

 人生は、戦いだ。考えてみれば当然のことで、生物が他者と関わりをもつ限り、その何処かにおいて諍いが起こってしまうのは自明だ。自分と全く等しい他者などいない。その事実は、生物の根底にありながら、最も大きな齟齬を生む。何かにつけて対立の構図が完成し、どちらが正しいか、あるいはどちらがより優れているか、決着をつけるために争いが起こる。それが生きるものの宿命なのかもしれない。

「守護小人ランキングは、その全ての戦いの結果を一年ごとに集計して弾き出される序列のこと。各属性の小人は、寄生している宿主と四六時中行動を共にして、守護小人ランキング決定公認バトルが行われるたびに、宿主の勝利数と敗北数を自動的にカウントする役目を負っているというわけね」

「ん、ちょっと今さらりと本質をぶち撒けなかったか?」

「ぶち撒けたよ。理解してね」

 つまり、小人が守護する各属性の正式契約者同士が何らかの形で戦い合って、その勝敗でランキングを作っているということだろうか?

 人生は戦いだ、から連想した通りの熱い展開である。ちなみに、完全に俺の私見だが、ランキング、トーナメント、チームバトルの出てくる物語は、『バトルもの』というジャンル以外の何物でもない。俺も男だ。強いことに対する憧れもある。『バトルもの』も嫌いではない。守護小人ランキング決定公認バトルへの参加、やぶさかではない。

 ……が、俺は腕っ節はからっきし駄目だぞ? 身長は高いが、猫背で細身なのであんまり迫力も無い。腕相撲で少し前まで風花に負けていたくらいで、それが嫌で最近腕立て伏せを始めた程である。ナイフを持ったチンピラ崩れに襲われても、「悪いな、凶器を持った相手には手を抜かないことにしているんだ」とか言いながら一発で倒したりなんて、到底不可能。腹部を刺し貫かれて、「あれ、こんなはずじゃ……」とか言いながらゆっくり倒れるのが関の山だ。痛そうなのは嫌だ。……守護小人ランキング決定公認バトル、一体何で戦うんだろう? 場合によってはやはり辞退せざるを得なくなるが。

「間違いなく勘違いしてるだろうけど、一対一で殴り合いの喧嘩をしたりとか、何でもありの特別ルールで麻雀したりするわけじゃないよ。言ったでしょ。人生全てが戦いだ、って。これは何の喩えでもないって。君の日常生活の中、小さなことから大きなことまで、ありとあらゆる勝負事を拾い集めて集計するの。いや、ほんとにシビアよ。じゃんけんの勝敗を全て数えるのは当然、学生にとってはテストなんて勿論戦いだし、誰かと握手なんてしようものならその握力の強さを比べちゃう。それらが全て、守護小人ランキング決定公認バトル。負けるリスクがある、という条件さえあればその時点で、一方的に誰かとのバトルを始められるのが全ての小人の共通特性よ」

 こちらの顔をジトリと睨んでいたハンプバック。

「……うわー、それって俺の望んだ熱さゼロだな」

 平凡な人間がとんでもない事件に巻き込まれてとんでもない体験をする、なんてのは夢のまた夢なのか。まあ、別に好んでそんな体験をしたいわけでもない。むしろ、面倒事には余り巻き込まれたくない方だ。これくらい地味な方が性に合っているかもしれない。

「というか、つまり俺は今までもずっとこのバトルに参加していたわけだな。猫背の強制契約者として。小人と話す機会が無かったからそれと気付かなかっただけで」

「そそ。君の個人データ、閲覧しようと思えば出来るけど、去年の勝率とか調べて教えようか?」

「遠慮する」

 日常的に勝ち組か負け組か、そんなことを勝手にカウントされていたと思うと、ぞっとする。気にならないと言えば嘘になるが、その勝率を知りたいとは思わない……。いや、知りたい気もする。果たして守矢月鳥が、ゲットリ君と呼ばれて幼少時期を過ごした猫背の大学生が、今どれほどの人生を送っているのか、その答えが目の前にあるわけで。……せめて勝ち越したか負け越したか、その辺りだけでも教えてもらおうか。

 勇気をもって口を開く。

「……このバトル、地味過ぎてどうしようもないな」

 結局関係ない言葉が口をついて出てくる。心の弱さに負けた。乾杯。

 ハンプバックは何も知らぬげに頷くのみだ。

「私としても、こっちは結構地味なルールだなあ、って思うね。ま、それがいいんだけど。向こうにいた頃は死ぬか殺すかの死闘を勝ち上がらないと代表になれなかったし」

「そんなルールだったら、現代日本に住むこの俺が合意して首肯すると思えないがな」

「向こうみたいなルールだったら、私も君みたいな人を契約者に選ばないって」

 あはははは、と軽く笑っているハンプバックの体にうねうねと指を近づけて黙らせる。そんなに触られるのが嫌なのか、ホラー映画で殺人鬼に迫られたヒロインのように顔を強張らせながらしゃがみ込んで後退する。歯の根が合わない様子と、泣きそうな瞳を見て、一瞬狼狽したが、ようやくそれが前の宿主に叩き込まれた演技なのだろうと思い至った。嘆息。どうも俺は、何かを訴えかけるような女の子の瞳に弱いらしい。昔から。

「で、守護小人ランキング決定公認バトル――やけに長いな――で上位になったりすると、何が起こるのか教えてくれよ」

 瞬き一回で元の明るい表情に戻ると、ハンプバックは立ち上がってズボンの埃を払う。変わり身の早さを見るにつけて、こいつは詐欺師に向いている気がする。

「バトルの正式期間は、二月一日から一一月三〇日まで。この間行われた全てのバトルについて、同属性の上級小人と下級小人全ての勝利数と敗北数の合計から勝率を算出し、その値をその属性の全小人年間勝率とするわけ。で、純粋にそれが高い方から順に、一位から一〇八位まで序列を付ける。全小人年間勝率が同じだったら、上級小人のみの年間勝率の高い方が勝ち。それでも駄目なら全小人の合計勝利数。それも同じだったら、直接対決の勝率を比べて高い方。まだ駄目だったら守護小人ランキング作成委員会の投票で順位を決める」

「その委員会の会長がどこの誰なのかがやたらと気になるところだが……」

「たぶん、神とかじゃない?」

「テキトーだなあ」

 神とか。ハンプバックの身も蓋もない言い方には、潔ささえ感じられる。発言内容には真実味があってもおかしくない状況なのに、真実味の欠片も感じられない。神の存否以前に、何か別の部分に重大な問題が隠されているのではないか、と懐疑的な姿勢を余儀なくされるような、胡散臭さが急激に浮上してくる。元々が小人の発言であるので、適当な姿勢で聞くのが実は正解なのかもしれないが。

「で、ここで例の七人の小人が登場するわけよ」

 当の本人は、相変わらずというか何と言うか、小さな体に大きな夢がいっぱい詰まってます、みたいなキャッチコピーで売り出すのに適した仕草で、懸命にこちらに説明を続けていた。

「守護小人ランキング一位から七位、通称ベストセブンになると、ご褒美が与えられるのよ。これが、七人の小人システムね」

「……属性が漢字表記で、日本発祥の概念なのに、やたらと外来語が混じるのがさっきから気になるな」

「ん? 敵性言語の使用って今は禁止じゃないはずよね?」

「そういう問題じゃねえ……」

 天然ボケ、という一つの名を冠する恒星が、まさに今、ハンプバックの上に燦然と輝いた。これでもう迷う必要は何も無い。荒海の中で方角を見失っても、それさえ見つけられればきっと生きる希望が湧きあがるだろう。これが、天然ボケの星。ああ、迷える子羊をあらぬ方向へと導きたまえ。

 閃きは一瞬。答えを伝えてきた。つまりハンプバックは、もう間違いなく誰が何と言おうと天然ボケである、とそれだけを明確に。ちなみに、同じ特徴を守矢の人間は古くから受け継いできていて、俺は一つ上の世代でそれを途切れさせることを誓って生きてきた。今のところ成功しているつもりだ。

「とにかく、ベストセブンの属性の守護小人は、かの有名な世界の果ての城で豪遊生活を送る権利を一年分与えられるわけよ。尤も、その年の一二月中くらいしか世界の果ての城に行く時間ないけどね。ほら、次の年の一月からまたランキングバトルが始まっちゃうし」

「……世界の果ての城?」

 かの有名な、と言われても、とんと聞き覚えがない。これは俺の無教養のためではないと信じたい。そこそこの雑学知識は持っているはずだ。大学の仲間五人と話してもトークのネタを切らさないだけの話題も持っている。それはあまり関係ないか。

 ハンプバックは、一瞬きょとんとしてから、ああ、と納得顔になり、

「こっちの人は知らないんだっけ」

 と、気付いたように口にした。

「少なくとも、俺は知らん」

「……いわば、小人のための高級リゾートね。こっちの基準で言うと、一泊何百万もする夜景の綺麗なスイートルーム無料宿泊券一年分とか、豪華客船で巡る世界一周ツアーとか、秋葉原で気に入ったお店を一軒買占める、みたいな、一般人には到底手の出ないセレブの嗜みよ」

「なるほど。最後の例えは如何なものかと思うが、伝えたいことをしっかり伝えようとするその意思だけは伝わってきた」

 どこか投げやりにそれだけ告げる。

「光栄の極みでございます、って言えばいいの?」

「いや、何それ? 何処のルール?」

 またもわけのわからないことをのたまう猫背の小人。これがカルチャーショックというものなのか。たぶん違うが。

 ハンプバックは少し何かを思案するように首を傾げた後、何事もなかったように話を本題に戻してきた。

「世界の果ての城は、小人たちの憧れの的にゃ……もとい、憧れの的なの。一度で良いから見てみたい、入ってみたい、泊まってみたい……。夢よ、夢。真っ白な外壁を持つ荘厳な建物だって話だけど、写真とか撮れないから、想像するしかないの」

「ほう、それはそれは……。まあ、俺も高級ホテルのスイートルームに一生に一度くらいは泊まってみたい、と思うし、その気持ちわからんでもないな」

「ああ、どんなに広いのかしら。きっとお堀に囲まれていて、見張りの兵隊が厳重に警備しているに違いないわ。正門から吊り橋が下りて、中庭へと馬車で招かれる私。赤、白、黄と色とりどりの可愛い花が私を歓迎してくれて、城の入り口では使用人がずらりと一列に並んで私の到着を待っているのよ。『お待ちしておりました、お嬢様』『ご苦労、セバスチャン』のお決まりのやり取りの後、執事に導かれるように清楚なドレスに身を包んだ私が静々と馬車から赤絨毯の上に降り立つわけ。あまりの美しさにどよめく使用人達。『ああ、なんとお美しい方だ』と王子様に見初められて結婚を迫られる私。『いけません、私は一介の猫背の守護小人。あなた様のような高貴な方と身分が釣り合いません』『身分など知ったことか。私は、あなたと一緒になれないなら死んだ方がましだ』『ああ、王子……。そんなに私を愛してくれる人に出会えて私は幸せです』」

「確かに幸せそうだな、色んな意味で……」

 隠しようのない頭痛。遅々として進まない本題。それは、俺が小人について未知であってなかなか話に付いていけないという理由の他に、ハンプバックの脱線癖のせいでもある。一人二役で王子と本人を演じ分けながら、誓いの口付けのシーンで動きを止めたハンプバックは、その体勢のままでこちらに顔を向けた。

「ええええい。戻れ、戻れ! お前の一人コントが見たくてこんな茶番に付き合ったわけじゃないんだ、俺は! キスをせがむな! 瞳を開けろ! 唇をほんのりと尖らせるな! 頬を上気させるな! 身長差を考えて爪先立ちとかになるな! 鼻がぶつからないように顔をわずかに傾けたりするな! どんだけ役に入り込んだんだ、お前は!」

 一気に言ってしまってから、はっと口を閉ざす。まずい。かなり大きな声を出してしまっていた。思わず本気でつっこんでいた。外まで聞こえてしまっていただろうか。両親が眠っていれば大丈夫か……。

 何が楽しいのかニヤニヤ笑っているハンプバックに、指をわきわき動かして脅しをかけてから、ドアの方に向かう。ぴたりとドアに耳をつけて、誰かが歩いてくる気配がないか探る。しばらく、そうした。

 深夜特有の静寂に安心して、ベッドまで戻ると、この短時間でマイ毛布を取り出して寝床の準備に取り掛かっていたハンプバックと目が合う。淀みなく毛布を仕舞い出すハンプバックに、よし、とだけ声をかけて顎で続きを促す。

「ベストセブンの属性の守護小人には世界の果ての城での豪遊生活一年の権利。じゃあ、君が一番気になっているところ、ベストセブンになった属性の正式契約者には、一体どんなご褒美があるのか?」

「そうそう、それだよ」

「ずばり、好きな願いを一つだけ叶えてもらえるのよ!」

 説明するのも面倒になった、片手を腰に、もう片手を真っ直ぐ突きつけるポーズでびしっと決め、一人盛り上がるハンプバック。俺は、それと反対の、むしろ白けた表情でそれを見下ろしていた。

 妙な概念で長々と引っ張った割に、人間様に与えられるのはメルヘン世界のご褒美として非常にメジャーなやつだったからだ。ここでもう一捻りあるのかと思っていたのだが。というか、むしろオチを期待していた。意外とまともな報酬であったのは喜ばしいことなのかもしれないが、漠然と、好きな願いが叶うって言われても……。それも、一つだけって言われても……。ここまで来て、あまりにもベタな展開に過ぎやしないか? 『ただし、叶える願いを増やしてくれ、という願いは無効』みたいな決まりごとまでも予測できる。

 なんだかなあ。

「む、なんか思った程喜んだりしないのね」

「いや、好きな願いを一つだけ叶えてもらえるって言われてもなあ」

「願いなんて無い、とか?」

「いや、現金を山のように戴きたい」

「……酒、女、金、権力。世俗的な人間の求めるものはそのどれかよね」

 酒はそれほど欲しくないが、その他に関してはある程度的を射ていたので、あえて触れずにおいた。

「なんつーか、最後の最後に投げっ放しになったなあ、という印象が拭えないんだよ。願いを叶えるって、何か等閑になってないか? お中元で何を贈ったら喜ばれるかわからないから商品券を贈る、みたいな。そりゃあ、悪いことじゃないんだろうが、没個性化は免れ得ないな。これだけ現実離れした概念の中で、ここに来て万人受けを狙うその姿勢は、ちょっと駄目なんじゃないか?」

「……シビアなのか何なのかよくわからない意見ね」

「大体、一つだけ願いを叶えてくれるっていうのは、定義的におかしい。一億円欲しい、と願うのと、一億五千万円欲しい、と願うのは、後者が前者の完全上位互換だろ? 一億円欲しい、と願ってしまった者は、差額の五千万円が欲しいと後から願ってもそれが叶うことは無い。それが解せない。一億五千万円最初に願えば叶えてくれるんだから、後から差額を徴収する分には誠実に応えるのが筋ってもんじゃないのか?」

 昔話では特に、叶えてくれる願いの個数に制限をつけるやつが多いが、その曖昧な定義に真っ向から戦った話を俺は知らない。叶えてくれる願いの数を増やすのは無しだ、と言うが、果たしてその理由は何なのか。アンフェアだからと言うのならば、お金などのように金額に差が出る可能性のある願いも禁止するべきではないか。さらには、『僕の願いを叶えないで欲しい』などのような不可能命題を突きつけられた場合、一体どう対応してくれるのか。『宇宙誕生という事実を無かったことにして欲しい』のような、自己完全否定系は?

 俺は、妥協しない。徹底抗戦だ。

 睨むようにハンプバックを見下ろしていると、小人はぴくっと猫耳を動かして、不思議そうにこう告げてきた。

「え、そんなの、最初に『叶えてくれる願いを増やしてください』って願えばいいんだから、無問題でしょ?」

「……は?」

 それはタブーでは無いのか?

「ああ、そんなの駄目だとか思ってた? 別に大丈夫よ。結構コストかかるけど、原則的に叶えられない願いなんて無いから」

「コスト?」

 ぽかんとする俺に対して、当然のことのようにハンプバックはすらすらと解説してきた。

「世界の果ての城での豪遊生活一日分を一キャッスルという幸福単位で数値化して現した時、七人の小人になった時に与えられる褒美は、三六五ないしは三六六キャッスルなわけよ。で、契約者は小人が得たそのキャッスルの中から幸福を引き出して一つの願いを叶えてもらうという仕組みなの。それが、コストね。つまり、契約者の願いが大きければ大きいほど、小人が世界の果ての城で豪遊出来る日数が減るの。一二月いっぱいは世界の果ての城で遊びたいから、契約者に渡せるキャッスルは最大で約三三〇キャッスル」

「シビアなのか何なのか、よくわからない設定だな」

 徹底抗戦の姿勢は、脆くも崩れた。よもやこんな詳細があろうとは……。ハンプバックは、ポケットから手帳を取り出してページをくりながら、

「年によって相場は変わるけど、大体一キャッスルは百万円相当。最大限の現金が欲しいと願った場合、三億三千万円が手に入るわね」

「おお、かなりの額だな……」

 三億三千万円……。どの程度の金額なのか、大きすぎて想像も出来ないが、慎ましやかに暮らして行こうと思えば、働かなくても一生食っていけるのではないだろうか。昔からそういう生活に憧れていた者としては、願ってもないチャンスである。いや、願っていたわけだが。なんなんだ、この日本語の妙な言い回しは。

 とにかく、これは申し分ない。この報酬は、確かに契約の十分なメリットであると言えるだろう。報酬を金額であらわされると、具体的になった分ビジョンがクリアになった。金の持つ力は絶大だ。貨幣経済が崩壊しない限り、その価値が消えることは無く、自分を裏切ることも無い。確かにそこに存在する、幸福という概念の化身。金の亡者と呼ばれても良いから言っておこう。俺は金を信じている。経済力を欲している。

「ちなみに、願い事をいくらでも叶えてもらえるようになりたい、という願いは、これも年によって相場が変わるんだけど、平均三〇〇キャッスル以上必要。それだけで、年間ベストセブンのご褒美のほとんどを食い潰すわ」

「うわ、意味ねえな……」

「まあ、そうとも言い切れないわ。小人のキャッスルは永年で持ち越し可能だし、次の年も同じ属性の正式契約者を続けてまたベストセブンになれれば、前年度の残りキャッスルとその年の分を合わせた上で、また願い事を叶えてもらうってことが出来るわけだし」

 なるほど、キャッスルは持ち越し可能、願い事も越年可能か。

「……ん、ちょっと待て。その言い方聞く限り、一つだけ願いを叶えてもらった奴が次の年も契約者になってベストセブンに入った場合は、もしかして去年一つ願いを叶えてもらっているからって理由で、何も願いが叶えられないわけか? 一つだけ願いを叶えてもらえるってのは、一生に一つだけって意味なのか?」

 おもむろに、ハンプバックが首肯する。これはオフレコでお願いね、とわけのわからんことを前置きしてから、返答を始める。

「それが、この概念の面白いところでもあるんだけどね。まず、一回ベストセブンになれたからって、もう一度ベストセブンになれるかどうかは、正直微妙でしょ。次の年はベストセブン属性へのマークが徹底して厳しくなるし。つまり、三〇〇キャッスルを使って願いをいくらでも叶えられるようにしたとして、その後ベストセブンを逃し続ければ、結果的に一つも願いを叶えられずに終わってしまうかもしれない。それを恐れて、一度に三〇〇キャッスル以上の高コストの願いを叶える契約者も多い。けどそうなると、次の年にベストセブンになっても願いは叶えられないわけで、契約者になるメリット自体がほとんど無くなる」

「そりゃ、当然だわな」

「一方、小人にとっては、同じ人に寄生し続けた方が楽なのよ。宿主にとっても小人にとっても、精神的な負担が少なくて済むし、一度ベストセブンに入った戦略をもう一度使うことも出来る。有利にことが運べるわけ」

「なるほど」

「だから、一つだけの願いを叶えた契約者に対して、次にベストセブンに入っても、もう二度と願いが叶えられることはないってことを黙っている小人が多いわ」

「…………」

 それは、詐欺じゃないのか? その契約者は、もう一度ベストセブンになればもう一つ願いが叶えてもらえると思って頑張るわけで、その姿勢につけこんで再契約を結ぶとは……。随分と性質が悪い。

「小人にとっては、宿主が何の願いも叶えなくて良いって言ってくれるほうが、自分の使えるキャッスルが多く残るから、有益なわけよ。その点、一度願いを叶え終わった契約者なんて、葱が鴨を背負って生え出て来るようなもんよ」

「……小人の言い方だと鴨と葱、主体が逆なんだ」

 今やどうでも良くなってきたカルチャーショック。

「小人が契約者に詳しい話をしない場合が多いって言ったのもその関連で、そもそもベストセブンに入ったら願いが叶うってこと自体を伝えない小人も結構いるわ。人間の夢枕に立って、夢の中で正式契約を結ばせて、寄生した後一年間一切姿を見せない上級小人もいるし。その場合、宿主の方は正式契約者になったっていう自覚すらないね。ベストセブンに入った暁には、三六五キャッスル、小人の総取りよ」

「えげつないな」

 そういう意味では、このとんでも猫耳天然娘は、随分真っ当な方なのかもしれない。時折垣間見えるあれっぽいあれと、この容姿を除けば、普通の人間に対して優しい感性をお持ちである。話の纏め方は壊滅的に下手だが、それなりに真摯に説明をしてくれているし。

「まあ、仕方のない部分もあるんだけどね。私なんかは、猫背の守護小人だから良いけど、例えば絶望の小人なんて、宿主と契約する時に、『願いが叶うかもしれない』なんて教えたら、それは希望に繋がるでしょ? 絶望の適格者が希望なんて持ったら、不適格者になってしまうわけで、契約が成立しなくなる、と。そんな不思議な話があるわけ。だから説明出来ない。あと、侵食の正式契約者は精神を徐々に侵食されていくから、『よーし、願いを叶えるために頑張るぞー』みたいなテンションで活動されると、侵食が早まって契約期間中に最悪死亡されたりするケースが考えられるの。競技期間中に正式契約者が死んだり、或いは不適格者になったなどの理由で上級小人の寄生先が消えたら、その時点でその属性は失格。そんなわけで、正式契約者を大事に扱わないといけないって理由から、人格基礎一〇八属性の説明すら出来ないって小人もいる。この話は、本当の意味で契約者の生き方を変え得る要素を孕んでいるわけよ」

 ハンプバックは、まだ時折ちらちらと手帳を見ている。凄まじく小さな字でびっしりと何かが書いてある。視力には自信があったが、さすがに覗き込んでも読むことは出来なかった。時折赤線が引いてあったり、黒く塗りつぶされていたりする。

「で、当のベストセブンについてだけど、昨年度守護小人ランキング七位の全小人年間勝率が、およそ七割四分。例年、七割付近にボーダーラインがあるみたい。世界規模で勝敗を競っているから、バトルの数が莫大になる分、一人当たりの勝率の意味が小さくなる。全世界に存在する全ての強制契約者の勝率を平均すれば大体五割になるわけだから、ほとんどの属性は勝率五割付近に集中しているわ」

 ハンプバックがこちらに見えるように手帳の一ページを開いた。小さいが、かろうじて見える。どうやら、横軸に勝率、縦軸に小人の人数をとった折れ線グラフらしい。勝率四割から六割までの間で、凄まじい標高の山が形成されており、それ以上、それ以下の勝率をほこる者の少なさと相まって、針のような様相を呈していた。顔を近付け、目を凝らして見ると、勝率八割台のつわものがいるようだ。また逆に、勝率零割台も何人かいるように見える。肉眼では限界だ。立体顕微鏡が欲しい。

「お前が、最初に言った年間勝率七五パーセントってのは、七人の小人になるのを目指すって意味だったんだな。ようやく話が見えてきたぜ」

「そう、そのための戦略も既に考えてあるの。今年は、勝ちに行くわ」

「猫背って属性がベストセブンになるのは相当きつそうな気がするんだが……」

 他にどんな属性があるのかは知らないが、どう考えても、猫背という特性が人間の人格を表現する上で好評を得ることはないはずだ。ベストセブンに入るということは、相当の勝ち組側にいなければならないわけで、それを猫背という属性を持った人間の集団で実現出来るかといわれれば、首を傾げざるを得ない。というか、首を横に振った方が早い。無理だ。絶対無理だ。

「大体、去年のお前はランキング何位だったんだよ?人格基礎一〇八属性七七番とか言ってたから、七七位か?」

 ハンプバックは、手帳で頭を掻きつつ、ぺろりと小さく舌を出した。誤魔化すようにへへへと笑う。少し可愛い。少しだ。勘違いするな。

「その番号は、肩書きの一つだから、順位じゃないよ。去年の猫背は、勝率四六・五五六二パーセントで六五位。誇れる成績でもないけどね」

「おいおいおい、そっからベストセブン狙うってのは、大博打と言わざるを得ないんじゃないか?」

「勝算は、あるわ」

 勝ち誇ったような顔のハンプバック。俺は、何となくまたロクでもない話になるような予感がしていたので、津波に備えて高台に登るような心地で次の言葉を待った。壁に掛かったアナログ時計の指し示す時刻に多少の驚きを覚える。

「ずばり――」

「いや、『ずばり』はもう良いから。金輪際使う必要ないから」

「――今年は、下級小人を一切使わずにいくつもりなの」

 ……内容を理解するのに、多少の時間が必要だった。何しろ、まだまだこの概念を聞いてから足掛け二日しか経っていないド素人である。将棋の世界で言えば、やっと全駒の動き方を覚えた、くらいのものである。戦略の一つをご教授されたところで、理解はすぐに追いついて来ない。

「ちょっと待て。下級小人ってのは、あれだよな、自分と同じ属性の全世界の適格者に強制契約を結ぶ奴だろ? それを一切使わないってことは、全小人年間勝率の合計がすなわち上級小人の年間勝率と完全に一致するってことで……」

「つまり、契約者一人だけの力で世界に立ち向かおうってことよ」

 常軌を逸する、という言葉が頭の中でぐるぐると回った。既に様々な意味で常軌を逸してしまった俺に対して、常軌を逸した存在は常軌を逸したセリフを吐いた。

 契約者一人だけの力?

 ……それが、俺?

「さっきも少し言ったように、強制契約者が多ければ多いほど、平均化が進んで勝率は五割に近付いていく。世界中の猫背の人に下級小人をばら撒いたところで、勝率七五パーセントは望むべくも無いわ。君、人生の勝ち組の中に猫背の人なんて見たことある? あんまりいないでしょ。猫背なんてそんなもんよ」

「……喧嘩売ってるのか?」

「あ、ごめん。つい本音が」

「守護小人というからには猫背の肩を持て」

「いや、でも、ほら、こんな風に思っている守護小人も実際少なくないのよ」

 焦りを表情から隠しきれていない憐れな小人は、失言を誤魔化すのに必死になっていた。実に滑稽である。

「皆自分の属性に自信なんてないから、一〇八属性の内で、ベストセブンをまともに狙ってるのなんて、三割くらい。後は、妙に保守的になっていて、一〇八属性内残留さえ確保できればそれでいいと思ってる。だからこそ、世界中の適格者に小人を寄生させて、数の暴力でアベレージラインの五〇パーセントを維持しようとしかしないわけ。そこにこそ、付け入る隙があるってもんでしょ」

「……俺の聞き間違いでなければ」

「うん」

「一〇八属性内残留って言ったな? 降格する例もあるのか?」

 うにゃ、と何だかよくわからん声を上げて、ハンプバックは顔を強張らせた。傍目に見て明らかなほどに目を泳がせる。

「し、知らないにゃ。何のことにゃ? 聞き間違いに違いないにゃ」

「語尾語尾」

 あたふたと慌てるその様子はコミカル過ぎて、見ている者を逆にほのぼのさせる特殊なオーラを纏っていた。俺には確かにそんなようなものが見えた気がした。末期症状か。

「……そんなに慌てる理由がわからんな。隠しておく必要のある事柄とも思えんし」

「いやいやいや。デメリットについては、契約をとるまで出来得る限り黙っておいた方がお互いのためでしょ?」

「純白の心で生きろ。それは間違いなくお前のためにしかなっとらん。可及的速やかに情報の開示を要求する」

「お断りよ!」

「じゃ、俺も契約しない」

「……ウソデス、スミマセン、話スカラ許シテ下サイ」

「抑揚を忘れてるぞ……」

 ハンプバックは、わざとらしく大きな溜息を吐いた。うな垂れた姿勢には、背中の丸い彼女の体型がまさにうってつけだった。このために生まれてきたのではないか、と疑いたくなるほどの落胆ぶりには、思わず対抗したくなる。

 背中を丸めたまま器用に下向きに伸びをして、ハンプバックは欠伸を一つ噛み殺した。

「人格基礎一〇八属性は、毎年入れ替わりがあるの。一〇八属性以外の小人は、滝の下の国って所で生活している。簡単に言えば、これは二軍よ。毎年、一〇八属性内の守護小人ランキング下位の七人は、次の年から二軍落ちして、滝の下の国で行われる七代表決定統一競技会の勝者七人が、その代わりとして次の年から一〇八属性に加わるの」

「そんな男心をくすぐる熱いバトルが、これまでもずっと俺の預かり知らぬところで秘密裏に行われていたかと思うと、世界の不条理を感じずにはいられないな」

「ちなみに、この二軍落ちのことをこっちの専門用語では『地獄送り』って言うんだけど――」

「随分と思い切った専門用語だな」

「地獄送りになった属性の正式契約者は、文字通り地獄送りになったりするわ」

 …………。

 もしかしたら、俺は頭が悪いのかもしれない。おつむの回転の良さには多少なりとも自信があったんだが、ここまで来ると、少し揺らいできた。

 ハンプバックがさらりと言った言葉の内容が、理解できない。

「ええと、I beg your pardon?」

 思わず外来語で聞き返した。腰に手を当ててぷりぷりと不機嫌そうな表情で、だーかーらー、と念を押すようにハンプバックが見上げてくる。

「ランキングでワーストセブンになった属性の正式契約者は、罰として、死ぬかそれに次ぐくらいの大惨事に見舞われるってことよ」

 隙間風が通り抜けていったのかと思った。足元から襲って来たその悪寒はしかし、自らの内因性のものでしかない。そのまま背筋を駆け上がり、全身に鳥肌が立つ。

この小人は、一体――

「……何考えてるんだ!お前、それ言わずに俺に契約させようとしてたのか! 大体――」

 人差し指を立てられる。静かに、と目線で合図を送ってくるハンプバックのお陰で、俺は声を荒らげていたことを悟り、ぐっと押し黙る。一瞬の後、抑えた声で、しかし止め処もなく文句は口を付いて出てきた。

「大体、何で正式契約者が罰を受けなくちゃならんのだ! 元々、お前達小人のランキングを決めるための戦いであるわけだろう? 何故、そんな不条理なものに巻き込まれて命を落とすリスクを負わねばならん!」

 そして、突然だった。

「――都合のいいこと言わないで、猫背野郎」

 ひくっと思わず喉が引き攣った。底冷えのするようなその声には、それまでのハンプバックを感じさせるものは一切残っていなかった。尻尾が毛羽立って太さを増し、ぴんと張り詰めている。猫でいうところの、戦闘体勢か。やけに鋭い猫のような眼差しに、デフォルメされた丸っこさや可愛らしさは皆無だ。

 たかだかぬいぐるみサイズの女の子の、だがその剣幕は本物だった。『猫背野郎』というフレーズには色々な意味で引っ掛かりを覚えたが、そんなことに口を出せる雰囲気ではなかった。ハンプバックは、こちらから目を逸らさず、ただ口を開く。

「ふざけないでよ。やっぱり、そんなもんなわけね? 君の、戦いに対する覚悟ってのは、そんなもんなわけね? ご褒美なら喜んで貰うけど、死ぬリスクを同時に負うことになるなら願い下げってわけ? それが、戦いだなんて言えるの? 勝負だなんて言えるの? プライバシーが無くなる生活を一年間続けて、それだけで三億円のチャンスが得られるとでも思ったの? 甘ったれないで。こっちだっていい加減な気持ちでやってるわけじゃないの。君の言う通り、これは私達のランキングバトル。必死なの。一〇八属性から落ちることを地獄送りって言う理由、想像つかないの? 本当に、地獄なの。滝の下の国は、生きるか死ぬか、死ぬか殺すか、そんな殺伐とした世界なのよ。一〇八属性から地獄送りにされた小人なんて、格好の標的。七代表決定統一競技会で目障りなライバルになること間違いなしだから、徹底的に狙われるわ。わかる!? こっちもね、命かけてんのよ! 私も、死に物狂いでこっちに来たの! 猫背だからってだけで馬鹿にされて……、君に、生まれた時からそういう運命だった私の気持ちがわかるの? 特技もない、能力もない、誇れるものなんて何もなかった私が、七代表決定統一競技会で、殺意とか狂気とか、わけのわからない属性の奴と一対一で戦わされて、意地だけで勝ち残り、生き残ってこっちに来た、その覚悟が、君にはわからないでしょ。こっちで戦えることの幸せ、君の言う地味な戦いであることの幸せ、それでも保守に走らず果敢にベストセブンを狙いに行くと誓った私の思い、知らんぷりしていたかったでしょ? 願い事一つだけ叶えられますよーとだけ言われてほいほいお祭り騒ぎに乗っかっていられれば、幸せだったでしょ? ……中途半端な、好奇心だけしかなかったんでしょ? ……だから、言いたくなかったのよ! 手の内を全部明かして、尻込みする相手に失望して、激怒して、こんな風に、わけわかんなくなって……目に見えていたもん。そりゃ、我が身は可愛いわよね? 死ぬリスクがあるなんて言われたら、誰だって嫌になるわよね。でも、私に言わせたらそれでも全然生温い。死ぬのは、一〇八人中たったの七人。同じ確率で願いを叶えられるんだから、上等なもんよ。恵まれ過ぎているくらい。もう一度、聞いてくれる? この世界を支えている概念は、戦いなのよ? 誰も、逃れられないの。小人の戦いに巻き込まれて死ぬのが不条理だと思うなら、世界中、もっともっと不条理な死を迎える人間はいっぱいいるわ。君は、その全員に対してこれまで何を思ってきたというの? 何を思って平和な社会で飽食の時代を謳歌してきたというの! 世界の真実を目の当たりにしただけで、正義感に衝き動かされたように的外れなこと言い出して、何様のつもり? 戦いの本質すら理解していない分際で、舐めた口きかないで。君みたいな猫背との契約なんて、こっちから願い下げだわ」

 絶句するしかない。

 その雰囲気、その言葉の一つ一つ、その表情で、ハンプバックは人間性を剥き出しにしていく。怒り、その本質。自らの心を曝け出してぶつかっていく。感情の塊を全力投球する。魔球が飛ぶ。言葉のキャッチボールの往路でキャッチング不可能のボールが乱発する。

 ミットにおさめられなくても、体で止めなくてはならない。前に落とさなくてはならない。後逸は、許されない。それは、相手の話を何も聞いていないのと同じだから。

 好きだ。

 発作的に叫びたくなるような昂揚。

 しおしおと弱々しく萎れていくハンプバックの姿がある。ぺたんとその場に崩れるように尻餅をつき、肩で息をしている。猫耳も元気が無く、折れ曲がっている。尻尾も心なしか縮んでいるようだった。顔をそむけるために、体ごと背を向けた。見られたくなかったのだろうが、俺は見ていた。ハンプバックは泣いていた。ぼろぼろと涙を流していた。それは一体、何に対してのものだろうか。激情に流されただけか、それとも俺に対する抗議の意図か。

 女の涙には、弱い。昔から。

 あの日の風花を、思い出した。

 泣きながらこの部屋から出て行った、小さな背中を思い出した。追いかけることも出来ずに、無力感に苛まれて拳を強く握り締め、ただ運命を呪い続けた。

 似ても似つかない状況だった。感傷的になるには、あまりに馬鹿げていた。

「ごめん」

 それが俺の声ではなかったことが、残酷だった。ハンプバックが、背中で謝ってきた。

「突然押し掛けて、こんなわけのわからないこと言って、キレて怒鳴り散らして、君の都合なんて全然考えてなかったね。駄目だね、私。虫が良すぎたっていうか、問題外だったっていうか、言い訳のしようもないや。ほんと、ごめん。契約とか、もういいから。寝て起きたら、私のこととか全部忘れるようにしておくから」

 ハンプバックは、こっちを向かなかった。ふうっと、何かの冗談の様にその体から色が抜けていき、徐々に透明になっていった。

「それじゃ、さよなら」

「……待てよ」

 何かを伝えなければならない、と思った。咄嗟に口を突いて出てきたのは、制止の言葉だったが、本当に待ってくれるとは思わなかった。ハンプバックの体の透明化が止まり、シーツを透かした半透明の状態で、少し顔の向きを変えた。こちらを振り返ろうとはしなかった。自分から何を言おうともしなかった。

 未知とのファーストコンタクトを、こんな形で終わらせるわけにはいかなかった。

「もう、俺、何て言えばいいのか、よくわかんないけどな」

 思ったことをそのまま口に出した。衝動的な言葉だった。何も考えていない言葉だった。ディベートで必ず負けるタイプの発言だった。

「悪かった、と思う」

 断定は避けていた。謝罪の言葉を今更口にするのは憚られた。

「でも、何ていうか、逆に、わかった気がする。俺、最初からお前と契約するつもりだった。最初からってのはたぶん嘘だろうけど、願いが叶う、とかその辺りで」

 ハンプバックの耳が、ぴくりと動いた。

「なんつーか、嬉しかった。俺がわからない未知の部分を、全部どうにかして説明しようとしてくれたところとか。正直、話術としては、どうしようもない感じだったけど、一所懸命に説明してくれてるんだってのが、ありがたかったし、面白かった。何もわからずに状況に放り込むんじゃなくて、納得した上で契約できるっていう形にしてくれたのが、お前の人柄を表してる気がする。まだ契約もしてない俺に、戦略まで教えてくれようとした時に、俺は絶対にこいつと契約するだろうな、と思った」

 半透明だったハンプバックの体に、色が戻ってきた。

「だからこそ、ワーストセブンになったら死ぬって言われた時はショックだったけど、お前の言葉聞いたら、どうでもよくなった。俺も、必死にやってもいいかなって思った。ちょっと感動した。いや、ほんのちょっとだ。勘違いするな。あー、なんて言えばいいのか知らんし、こんな恥ずかしい思いに襲われるとは思わんかったが――」

 ハンプバックが、立ち上がって、ゆっくりこちらを向くのが見えた。スローモーションのような、という表現の通り、やけに緩やかに時が流れていくのが感じられるのかと思ったが、どうも意図的にハンプバックがそのように動いているだけらしかった。

「契約してやるよ、ハンプバック」

 その言葉と同時、ぞっとするほど冷たい光が一瞬だけハンプバックを包んだ。恒星のように自ら光を発していたその刹那を経て、ハンプバックはこちらに向き直った。まだ泣いていて、目の下も赤く腫れていたが、右手はVサインを示していた。そして、ぐずぐずと袖で顔面を拭うと、とんでもない跳躍力でこちらに向かって大きく飛んだ。部屋着の胸の辺りに、本当に小さな重みがかかった。手を添えると、触れることの出来ないはずの小人が、確かにそこにいた。実際に触れる分には、嫌がらなかった。温もりというには体温の低すぎる、小動物として成り立つにしても体温の低すぎる、そんな温さだった。

 ベッドに腰掛けたまま、何の特殊性も見出せない発作的ともいえる一言で、どうやら儀式は完了してしまったらしい。契約は、あっさりと成された。いまや、虚像でも何でもなく、確かに感知できる実像と化したハンプバックが、俺の右手の上に降り立った。不思議な感じだった。まるで人形のように大人しく、ハンプバックはそこから俺を見上げた。

 泣き腫らした瞳が、緩く細められた。純粋で美しい笑みだ、と考えた瞬間、

「純粋で美しい笑みだ、か。詩人だねえ、ご主人様」

 ハンプバックの表情が、にやにやと意地の悪いものに変わった。

 詰めを誤った、と俺は悟った。いや、そもそも戦局を見誤っていた、というのが正しいのかもしれない。情報を鵜呑みにして、最後の最後まで敗戦を悟れなかった我らのご先祖様のように。あるいは、何が何だかわからないまま千尋の谷底に突き落とされ、そこで初めて自らが獅子の子であることに気付いた、みたいな感じだった。

 咄嗟に考えたのは、ハンプバックの与えた情報が何もかも嘘で、俺は悪魔であるとか、そういった取り返しのつかないものと契約したのではないか、ということだった。

 何も言えなくなった俺に対して、ハンプバックは首を振ってきた。こちらの考えは丸わかりだ、と言わんばかりの態度だった。

「安心して。別に、今までの話に嘘は無いから。ただ、デメリットになることは話してなかったってだけで」

 またそれか、とげんなりした。

「ええと、一つ一つ整理して行こうか」

 契約前と後で、変わったことはそれほど多くなかった。しかし、何か決定的なまでに奇妙な違和感が付き纏っている。

「どうぞ」

「お前は、人格基礎一〇八属性七七番『猫背』担当上級守護小人ハンプバック、だな?」

「だから、そんなところに嘘はないんだってば。ご主人様は、さっきの瞬間から、猫背適格正式契約者、通称『猫背の主』あるいは『猫背王』。私の宿主ってことね」

「あー……、その呼称、ご主人様、はデフォルト?」

「いや、前の宿主が是非にでもそう呼べ、と。それが主に対するマナーであり、男心をくすぐるのである、というような旨のことを言ってたから」

「ふむ、即刻やめろ」

「それは宿主としての命令? それとも猫背王の意地?」

「もっと適格な二択を提示してくれ。あと、その二つ名で俺をあらわすな」

「だって、いつまでも、君、とか呼んでるわけにもいかないでしょ?」

「名前で呼んでくれて結構」

「ゲットリ君、だっけ?」

「殺すぞ、てかお前にそんな話をした覚えはないはずだが……」

「たった今、君……ツキトの心に浮かび上がったのを読んだの」

 勝ち誇るような、あるいはこちらに答えを示す年長者のような、不思議な顔だった。

「……心が、読まれてるんだな、俺のナイーブな心が」

「ナイーブかどうかにはあえて触れないけど、ご明察。ツキトが頭の中で考えていることは、大体私に伝わって来てるの。ほら、小人の姿って一般の人には見えないし、声も聞こえないから、契約者が小人と会話しようとすると、街中でぶつぶつ独り言を言うみたくなるでしょ? この力があれば、その心配がなくなるから、便利なのよ。後はまあ、宿主の精神状態をモニターすることによって、宿主が不適格者にならないように細心の注意を払ったりとか、そういうのに使う感じ」

 それが、デメリット、か。四六時中付き纏われるという以上に、頭の中まで覗かれてしまうという、決定的なまでのプライバシーの侵害。……正直、これはしんどい。

「……ええと、これはもうごくごく一般的なお願い事になると思うんだが――」

「うん」

「お前はこれから四六時中、俺と一緒にいるわけだよな? 今後、俺の頭の中で、どんな発想が飛び交っていようが、あたかもそれが聞こえていない風を装っていてくれないだろうか。ストレスで胃に穴を開ける姿が目に見えるようなんだが……」

「うん、わかったから、落ち着いた方がいいよ。卑猥な思想を追い出そうとするために思わず考えてしまって泥沼化してるのが手にとるようにわかるから」

 殺すぞ、と恫喝しようとして、本当に殺意を覚えてしまったらしく、慌ててハンプバックが逃げ出すのが見えた。指摘された通り、何故今このタイミングでこんなことを考えているのか、というような一面肌色のビジョンが頭を埋め尽くしている。無意識を意識した瞬間、それは無意識ではなくなる。落ち着け。追い出そうとして思念を思い描くのは全くの逆効果だ。何か、全く別のことを思い浮かべれば良いのだ。

 もずく。もずく。もずく。もずく。もずく!

 駄目だ。あまりにも馬鹿馬鹿しい、やめよう。

「何で、もずくなの?」

「だから、そういう干渉をするな、と。知らないふりをしてくれと言っただろうが」

「いや、でも、もずくって……」

 腑に落ちない様子のハンプバックは、俺の腿の上で頬を掻いた。その仕草を見て、違和感の正体に気付く。

「……お前、つい今までキレて泣いてたんだよな?」

「ん?」

「立ち直り、早すぎないか?」

 契約が取れたという喜びがあったにしても、あまりにもあっさりし過ぎというか。いや、小人の立ち直りの早さのスタンダードなぞ、俺には知る由も無いわけだが、人間心理に当てはめると、少し妙な感じがした。バツの悪さを何一つ残さずに和解出来るような怒り方ではなかったように見えたからだ。それがいつの間にか、猫耳は元気よく元通りになっているし、尻尾も絶好調で柔らかく揺れている。表情にも暗い影一つ残っておらず、目元が腫れていなければ、泣いたこと自体が嘘だったのではないかと思えるほどになっていた。

「…………」

 ハンプバックは、何も言わずに俺の手に飛び乗り、そこから肩までを一気に駆け上った。耳元に近寄ってきて、耳朶に手を添える。これは秘密なんだけど、とシークレット率〇パーセントの前置きをしてから、小さく、告げてきた。

「あれ、全部演技」

 暴れた。

 大きな音を出すわけにはいかなかったので、音の出ない物に当たり散らした。叫びたい衝動に駆られたが、口を大きく開け、まるでサイレント映画のようにそれで叫びを表現するに留めた。両親に気付かれる、ということはもとより、そもそも高級住宅地において深夜騒ぐことは、交番に強盗に入るよりも無謀なことなのだった。ハンプバックに直接攻撃を仕掛けたら緑の液体をぶち撒けさせるまで痛めつけかねなかったので、それだけは止めておいた。対象は主に枕と毛布で、布をびりびりに引き裂いて中身をばらばらにしてやろうかという勢いはあったが、何を隠そう昔から品良く育てられた人間なので、理性は後先を考えることに慣れていた。なので、ばたばたと枕を毛布に投げつけてみたり、ばさばさと毛布を広げて宙に投げあげてから殴りつけてみたり、それだけだった。埃が人体に与える影響を調べている途中です、と誰かに言ったら信じてもらえるような状況を部屋に招くまで俺の暴走は続いた。怒りというより、恥ずかしさが一番強かった。何に対する恥ずかしさかは、よくわからなかった。

 俺の肩に必死で掴まっていたハンプバックは、絶叫マシンもかくや、というスリルを存分に味わったらしいぐったりとした様子でうつ伏せに伸びている。

「……き、気は済んだ?」

「いや、全然。よもや、あそこでとんだペテンに引っ掛かるとは思わなかった。立派だよ、お前は。思わず乗せられて契約した形になったもんな、俺も」

「前の宿主に習ったの。一方的に怒り出して泣き出すだけで、男は困って優しくなる」

「……お前の前の契約者に嵌められたという事実が一番腹立たしいな」

「でも、私は別に、嘘は言ってない」

 急に、真剣な声になった。思わずその顔を窺おうとしたが、肩の上にいるために近すぎてよく見えなかった。

「滝の下の国は、本当に殺伐としていて、私は何度も死にかけた。その都度、助けてくれる人がいたり、乾坤一擲の妙手が偶然そこにあったから、運良く生き延びてこられたけれど。純粋な善意なんてほとんど存在してなかった。ライバルが一人でも減れば、七代表になってこっちに来られる可能性が上がる。敵を前もってどれだけ潰しておくか、あるいはどれだけ大きな組織的な力を手に入れるか、それだけが勝負だった。私は、そんな中を何年間も生き抜いて、騙せる者を騙し、裏切れる者を裏切り、踏み台に出来る者を踏み台にして、一昨年ようやく一〇八属性の仲間入りを果たした」

「……え、お前、一〇八属性になってから二年しか経ってないの?」

「何か問題でも?」

 キャリア浅すぎじゃねえか、と言いそうになったが、そんなのはド素人の自分に言えた義理でないため、止めておいた。が、頭の中の考えは覗かれてしまっている。ハンプバックが目に見えてむっとした。

「言っとくけど、ルーキーだろうと何だろうと、一〇八属性になってしまえばスタートラインはおんなじ。誰にでも七人の小人になるチャンスはあるんだから。現に、去年の守護小人ランキング二位の毒舌は、ルーキーイヤーから三年連続でベストセブンに入り続けてるもの。私にだってチャンスがないわけじゃないわ」

「……ちょっと待ってくれ」

 偏頭痛に襲われた。何か、悪い予感がする。妙なことになりそうな予感がする。決定的なまでにおかしいことがある気がする。そういえば、そうだと思った。一〇八属性、というあまりの数の多さに感覚が麻痺していたが、その一つ一つに何らかの名前があるはずだった。猫背、であったり、絶望、であったりするような。そしてその一つが、

「毒舌?」

「何か問題でも?」

 先ほどとそっくり同じ調子で言ってきた。

「ええと、もしかして、人格基礎一〇八属性って、普通の人が聞いたら、おい、これのどこが人格の基礎を成してるんだよ、って思わずつっこむような代物なの?」

 流れ的に、気がついておくべきだった。猫背、が存在している時点で。

「うーん、まあ、これまでの宿主は、みんな半笑いでそんなことを呟いた気はするけど」

 案の定、耳元で聞こえるその声は肯定を示した。

「……とりあえず、去年のベストセブンを教えてもらえないか?」

「ええと、一位から順に言うと……」

 ぱらぱらと、手帳を捲る音が聞こえた。ハンプバックは、ベッドの縁に腰掛けている俺の、その肩の縁に腰を落ち着けている。

「一気に言っても覚えられる?」

「七つくらいならたぶん」

「んじゃ、遠慮なく。行くよ、せーの――」

 あたかも早口言葉のようだった。ギゼン、ドクゼツ、ゾウオ、カタナキズ、ゴウマン、ザセツ、メンヨウ、イジョウ、という音だけが立て続けに耳に入って来た。

 俺は挙げられた単語の数を数え、

「最後のは、異常じゃなくて以上だよな」

「うん、そこで終わりってこと」

「……ま、当然のように全部は覚えられなかったわけだが、綿羊ってのは何だ? 人格も何も、ヒツジだよね、こいつはあからさまに」

 ハンプバックの不審そうな気配があって、

「違う違う、面妖だってば。ええと、そうか、発音同じか。シープじゃなくて、ミステリアスの方。オーケー?」

「ああ、そっちか。むしろそいつがベストセブンに入るのもどうかって気がしないでもないが、納得はした」

「ご主人様……もとい、ツキトが納得するしないに関わらず、この事実は変わらないからね。面妖は、なかなか強いよ。守護小人のミステリアスは、結構なベテランで、なかなかのやり手だって評判」

「ほう……。面妖と称されるほど不可解な奴になれば、人生の勝ち組になり得るってことか……」

「ま、一概にそうとも言えなくてね。属性ごとにバラバラに指定されている特殊勝利条件ってのがあって、面妖はそれを使って勝ちを拾いやすいのよ」

「おいおい、そんなシステムは初耳だぞ。猫背の特殊勝利条件は何なんだ?」

「あ、猫背には無いわ。それが逆に極めて特殊なんだけど」

「不利なこと極まりないな」

 状況はよろしくない。世界は不平等である、というのはわかっていたつもりだったが、いざ自分が虐げられる側に回ると、そんなのんびりしたことを言っていられなくなるものなのかもしれなかった。口だけでは状況は何も変わらず、自ら何か行動しなければ活路は見出せないのだから。

「ベストセブンに入ってる属性は、大体その特殊勝利条件で勝ちやすくなっていたり、あるいは逆に、他の属性の特殊勝利条件に巻き込まれにくくて、負けにくくなっていたり、そういう特性があるわね」

「……俺達は、そういうの一切なしで勝負なわけだろ? 大丈夫なのか?」

「特殊勝利条件ってのは、同時に特殊敗北条件でもある。一気に何勝も稼げる可能性もあるけど、同時に何敗も喫する可能性もある。例えば、面妖の特殊勝利条件は、非常にシンプル。他人に面妖な奴だと思われること。公認バトルの開始を小人が宣言した時点から、半径何メートルか以内の人間を対象に、その全員との勝負が同時平行的に進む。どれだけ奇天烈なことをして、他人に面妖だと思わせるかが勝負になるわけだけど、全くそれに興味を示さずに通り過ぎていった通行人とかには完膚なきまでに敗北するわけ」

「……あー、俺、面妖じゃなくてよかったなーって心から思った、今」

「ツキトが面妖だったら、私が契約者に選んでないって」

「……そこまで言うのもどうかと思うが」

「ああ、いやいや、別に面妖だからってわけじゃなくて」

 焦ったようにハンプバックが説明する。

「私が、ツキトを選んだ理由ってのがあって、一〇八属性の内で、猫背にしか適性を持ってないのよ、君は」

「…………は?」

 言っていることの意味を把握するまでのしばらくの間があって、俺は思わず猫背の守護小人に顔を向けた。焦点を結べないほどの至近距離にある。首を目一杯捻り、視線を横に向けて、かろうじて目を合わせようとする。

「つまり、君は純正な猫背っ子なわけ」

「いや、そんな妙なレトリックで俺を表現しろとは言ってない」

「一〇八属性のうち、他の属性と重複しない純正な適格者ってのは、とても貴重なの。ほとんど存在しないと言われている数的な希少性という意味だけじゃなくて、重要な役割を担うことが出来るという意味で、貴重。例えば、薄情で愚鈍で邪悪な人ってのは、その三属性と強制契約しうるわけ。その人の一勝は、薄情と愚鈍と邪悪の一勝であり、その人の一敗は、薄情と愚鈍と邪悪の一敗でもある。これがどういうことかわかる?」

「……一連托生、ということか?」

 ハンプバックは、こちらを見て頷いた。距離が近すぎる。どうも、会話し難い。お互いの顔を見ての会話を望まないほうが良さそうだ。俺は諦めて前を向いた。

「そう。それが、下級小人を一切使わないで、上級小人だけの勝率で勝負するような戦略の大きなネックになる。簡単に言えば、例えば君が猫背で面妖だったとすると、面妖の下級小人の強制契約を受け付けてしまう、これはわかる?」

「ああ。つまりあれだろ、俺が勝率七五パーセントを稼いでも、猫背だけじゃなくて面妖にもそれが加算されてしまうってことだろ」

「むしろ、逆ね。君が、一〇勝〇敗の成績を修めていると仮定する。この時点で、私、猫背の勝率は十割。ダントツの一位よ。一方で、面妖は、ツキト以外にも契約者がいっぱいいるから、一〇一〇勝一〇〇〇敗で、ほぼ五割だとする。ここで、面妖の下級小人が、猫背の妨害のために、わざと負けるようなところで特殊勝利条件による公認バトルを発生させたとする。ツキトは怒涛の九〇連敗、さて、どうなる?」

 そうか。俺は身震いしそうになった。純粋に、すごいと思った。これほどまでに戦略性が高いとは思わなかった。

「猫背の勝率は一〇勝九〇敗で一割まで下がり、ダントツの最下位になる。だが、面妖の勝率は一〇一〇勝一〇九〇敗で、まだまだ五割近辺にいられる」

「ザッツライト」

「いきなりの西洋かぶれ発言か」

「分母が小さければ小さいほど、勝率における一勝、一敗の価値が大きくなる。そのため、純正の適格者でなければ、少数精鋭での勝負が出来ないの。独自の調査の結果、純正適格者に対する正式契約一つだけでベストセブンに入った例は、過去三例だけ存在するわ。挑戦した小人はその十倍以上いるのだけど、途中で、純正適格者が他の属性の適格者になっちゃって強制契約され、その妨害を受けたり、思ったよりも勝率が伸びず、途中で方針を換えて結局世界中に下級小人を放って五割近辺に落ち着いたりしているみたい」

「ええと、つまり、あれか? お前が自信満々に、勝算はあるって言ってたのは、俺はいかなる他の属性の適格者にもならないだろうし、思ったより勝率が伸びないなんてこともないだろうという、その二点に根拠があるっていうことだな?」

「ザッツライト」

「だから、それは何の真似だ」

 苦笑しながら、溜息をついた。そこへ、ワンテンポ遅れるように、ショックがぶり返してきた。

 猫背以外の何者でもない。これは衝撃的だった。人格基礎一〇八属性というのが、どの辺りまでを網羅した属性であるのかはまだわからないが、猫背以外該当しないとはどういうことなのか。自分では少し短気であるとか、正義感があるとか、色々性格的に思いつくキーワードはあるというのに、俺を端的に表す単語は猫背でしかないという。

 ふざけるな、と思う。そんな話があっていいのか。しかも、俺はいかなる他の属性の適格者にならないという根拠があるらしい。愕然とした。

「世界中に、猫背の純正適格者は、ツキトを含めて四人くらいしかいない。四人もいる、というべきかもしれないけど。その中で、私がまず君のところに来た理由の一つに、君が大学生だってことがあげられる。何度も言ったわね。モラトリアム期間、と。まさにその通り。社会にまだ出ていなくて、酸いも甘いも噛み締めてないのに、知ったかぶることの出来る時期。意外と身近に、心理的に重くのしかかるような出来事なんてないでしょ? 結構気楽に生きていくことが出来る。そういう環境においては、一過的に他の属性の適格を持つ瞬間はあるかもしれないけど、常駐されるようなことは、まず起こらないわ」

「……根拠があるのか無いのか、わかるようでわからんな」

 まあ、確かに受験期に比べれば俺もだいぶ落ち着いたと思う。あの頃の俺は、まず間違いなく挫折の適格者であったろうし、絶望とか、そういう暗い言葉ばかりを考えて暮らしていたからだ。そこから抜け出せて、猫背だけになったと思えば、気も楽か。

「そして、きっと七割勝てるだろうという根拠は、私が『猫背』で、ツキトがちゃんと説明を聞いてくれる人だってこと」

「…………」

「簡単に言えば、指示が出せるってこと。さっきも言ったけど、小人が宿主を煽ることで、宿主の精神崩壊が進むような属性もある。でも、私は猫背だからそれが無いし、じっくりと時間をかけて説明した上で契約しているから、宿主側にも私を受け入れる土台が出来ている。どのタイミングでどんな勝負を仕掛けることが出来るか、あるいはどんな勝負が他人から仕掛けられたか、逐一教えながら、日々暮らすことが出来る。小人と契約者の間で密なコミュニケーションが取れる。誰もが意識しない『戦い』を、意識的にこなすことが出来る。ね、いかにも勝てそうでしょ」

「いや、なんかやけに息が詰まりそうな生活に聞こえるんだが……」

 ただでさえ、四六時中観察されていて、かつ思考まで読まれているのに、さらに『戦い』を認識しながら生きなければならない、というわけか。胃に幾つ穴を開ければ済むというのだろう。

「とりあえず、注意すべきはさっきも言った昨年度のベストセブン。偽善、毒舌、憎悪、刀疵、傲慢、挫折、面妖。特に、刀疵を持っている人には本当に注意して」

「いや、身近にいねえよ、そんな奴」

「守護小人ソードカットが、尋常じゃないの。実力行使も辞さない性格でね。正式契約者は居合の達人とかの真っ当な人を選ぶんだけど、強制契約者として明らかに堅気じゃない人を何人も選ぶわけ。それでまあ、何ていうの、鉄砲玉というか、そういう風に上手く操って、他の属性の正式契約者を叩き切ったりするのね。正式契約者を失った上級小人は失格だから、その時点での最下位に転落する。そうやって邪魔な属性を除けたりするわけ」

「……正式契約者の名前とかって、小人同士の間で情報流れないんだよな?」

 冷や汗が噴き出す。四六時中見張られようが、頭の中を覗かれようが、毎日が戦いになろうが、そんなことまでは許せる。極道の方々に命を狙われるような、Vシネマ的危険満載でお送りする生活は、さすがにご遠慮願いたい。

「基本的にはね。上級小人は、道行く人に寄生してる全小人の属性が見ただけでわかるし、近くに他の属性の上級小人がいればそれを察知出来るけど、宿主の名前まではわからない。あと、下級小人の情報を検索して、他の上級小人が一緒に寄生している人間を探すことは出来るけど、純正猫背のツキトの場合、安心でしょ。全ての下級小人に、『近くに上級小人がいたら伝えろ』みたいな命令をしておいて、全属性の正式契約者のデータを集めようとする小人もいるらしいって噂はあるけど、あくまでも噂かな。ソードカットがどんな風に他の正式契約者を見つけるかはわからないけど、上級小人同士のニアミスを除くと、私が下級小人に視認されないように気をつけて隠れてさえいれば、まず見つかる心配はないと思う。上級小人同士のニアミスに関しても、全世界で一〇八人しかいないんだから、偶然出会うことは、まずありえないと思った方がいいわ」

「なるほど。とりあえず安心したぜ」

「とはいえ、特例として、一定のキャッスルを消費することで、全世界の人格基礎一〇八属性データベースにアクセス出来るから、もしそれを使われたらまずいことになるわね」

「え……」

 おいおい。データベースというからには、全てのデータが乗っかっているんだろう。そんなものを調べられたら、明らかに大変なことになりそうだ。身元から何から何まで暴露しそうな匂いがする

「ま、そうなったらなったで、その小人が一体何を調べたかを逆アクセスで知る権利が与えられるから、危なくなったら逃げればいいでしょ」

「ああ……、まあ、それなら安心といえるかもしれんが」

 つくづく深い世界である。

 感嘆したついでに、どうにか把握したベストセブンを、反芻する。

 偽善。毒舌。憎悪。刀疵。傲慢。挫折。面妖。

 …………。

 プラス方向の属性は、一つも無いのか?

「去年に関しては、そうなっちゃってるわね」

 頭の中の声に返事があって、俺はぎろりとハンプバックを睨んだ。ハンプバックは手帳を捲りつつ、飄々としている。

「まあ、何ていうの、憎まれっ子世に蔓延る、みたいな」

「意味合いとしては近いが、蔓延られても困る」

「大体のところ、一〇八属性のうちのほとんどが陰陽で言えば陰の方だからね。猫背、みたいなニュートラルを含めても、陽の方が圧倒的に少ないよ」

「……その、一〇八属性を全部教えてくれってのは、虫が良すぎるか?さすがにその辺りの詳細は、徐々に明らかにしていきたい、とか思ってる?」

 ただでさえ、出会って数時間でありえない程に人格基礎一〇八属性についての詳細を教えてもらっている身である。肩身の狭い思いでそんなことを言ってみた。純粋な興味からだった。一〇八の属性にどれほど無茶苦茶な落ちが待っているのか、と半ばどんなつっこみを入れるかの勝負である気がした。

 予想に反して、ハンプバックはこんなことを言って来た。

「え、当然のことながら、今年度の一〇八属性は、早いうちに正確に覚えてもらうつもりだよ。その守護小人の名前とか、性格傾向を含めて。明日辺りから始めようと思ってたけど、今知りたい?」

「あ、ああ、是非」

 うれしい誤算である。いまだかつて、これ程までに詳細な設定を前晴らしにされた未知との遭遇はあっただろうか。あろうはずもない。徐々に慣れていかなければ、普通は未知を受け入れることなど出来はしないからだ。一〇八もの属性を一遍に言われても覚えられないだろうから、そんなものを全て暴露してくる者はまずいないだろう。何かに書きつけてもらうか、と考えていると、

「乗り物酔いしやすいタイプ?」

 と、わけのわからん質問が飛んできた。

「え、いや、大丈夫だが。それが何か関係あるのか?」

 少しうろたえていると、ぺたぺたと、頬を触る感触があった。

「おい、なんだ、やめんか」

「動いちゃ駄目。出来るだけ脳に近い方がお互いに負担が少ないんだけど、このくらいの距離からやることが現実的には一番多いだろうから、ここからやるね」

「ちょっと待て。何をやる気だ。きちんと説明しろ。お前にはその義務があるはず」

 ハンプバックが苦笑する雰囲気が伝わってきた。

「いや、そんな義務はないけど。簡単に言えば、投影というか、視覚のハッキングというか、そんな類。今からツキトに、私のイメージを送りつけるから、視覚野の処理のほとんどをそっちに回してもらうことになる。つまり、今見えてる景色が見えなくなって、私の送りつけたイメージが見えてくるわけね。場合によっては、乗り物酔いみたいになって気持ち悪くなることがあるから、そうなったら私に言って。以上説明終わり」

「よし、結構。始めてくれ」

 鷹揚に頷いていると、一点、二点、顎の骨の付け根辺りに小さな感触が触れた。ハンプバックの両手であろうと思われるが、顔を動かせないので、確認は出来ない。そして、三つ目。両手の丁度真ん中辺りに、少し硬い触感。さらさらとした繊維質のものがいくつもその付近に触れたことで、額を当てているのだとわかった。平熱が低いらしく、おでこは冷たかった。そして、えもいわれぬ妙な感触が、そこを中心に広がってきた。波紋のように、しかし首から下を一切無視するように、それは奇妙な指向性をもって進んだ。冷たくもなく、温かくもなく、一直線でもなければ同心円でもなく、全てが曖昧だった。曖昧に、だが顔の表面を走ったそれは、息継ぎを終えたイルカが潜水を始めるかのように、俺のこめかみから頭の深奥を目指し始めていた。何が一番気になるかといえば、俺がそれを、そのように明確に把握してしまえること自体だった。現実離れした事象なのだから、電波のようにもっと瞬間的な干渉を行えればいいのに、ハンプバックによる投影の波紋は、指でなぞるほどのスピードでのろのろと移動しているのだった。

「……もっとがーっと出来ないのか?」

「無理。脳神経焼き切れるよ?」

「……そんな力があるという時点で、小人の存在を決して認めてはいけないという気分にさせられるわけなんだが」

「出来るだけ喋んないで。脳が活性化してればしてるほど、煽りを受けやすくなるし」

 黙りこんだ。脳の中を移動していた波動は、後頭部の方へとゆるゆる回り込み、ある一点に近づくにつれて全体的な揺らぎが重なって収束していくのがわかった。極めて狭い場所に、一つの波が集まり、そしてその瞬間が来た。視界に、うっすらと影が写りこんだ。強い光を受けて目を閉じてもその残像が瞼の裏にちらつくように、しかし色合いとしてはその逆で、壁に貼ってあるホッキョクグマのポスターを中心に、黒いぶつぶつがじわじわと濃く現れてきた。その影は、焦点を結べないままに大きく広がり、あたかも自分に向かって近づいてくるようだった。目を凝らしても、目を閉じても、不思議なことにその影の様子は変わらない。それは影などではなく、白地に黒い文字がびっしりと書かれた、明確な映像であったのだ。気づけば、目を開けても部屋の様子が見えない。視界を全て埋めているのは、その文字列と、背景である何のくすみも無い一面の白だった。首を動かしても視界はぴたりと変わらず、文字列は一緒になって着いてきた。首が動いたという感覚だけがそこにあり、視覚と平衡覚の誤差が不気味で、繰り返していけば確かに酔いそうだった。一二列九行。びっしりと並んだそれは、一〇八の属性の名前だった。


 勇猛 高慢 聡明 憎悪 侵食 混乱 崇高 策士 侮蔑 混沌 矛盾 悲哀

 偽善 嫌悪 呪縛 失言 偏見 不信 神童 苦痛 面妖 絶望 挫折 悪夢

 憑依 老練 衰退 薄情 抑圧 弊害 疾病 堕落 魔人 腐敗 実直 帰依

 解脱 博愛 慈悲 元凶 愚鈍 浅慮 暴走 憂鬱 道化 錯乱 正義 汚染

 贖罪 自戒 酔狂 怠惰 明快 上戸 下戸 凶悪 卑怯 性悪 仇敵 美形

 小物 大物 新顔 刀疵 白眉 赤鬼 元首 義賊 温和 芸者 忍耐 孤独

 腹黒 邪悪 聖人 石頭 猫背 冷酷 残酷 非道 慎重 短気 気長 傲慢

 豪傑 右翼 左翼 凡夫 虚像 空虚 寡黙 丁寧 流血 潔癖 腕白 健気

 薄幸 頑強 偏屈 無知 苦悩 紳士 無能 熱血 無謀 毒舌 汚点 瀕死


 圧巻だった。もはや、それ以外にこれを言い表す言葉はこの世の中に存在しないだろうと思わせた。文字を一つずつ追い、その意味を取るよりも先に、視覚的に迫ってくるその一〇八語、二一六字の漢字に対し、不覚にも俺は感動をおぼえてしまった。一文字の乱れもなく、綺麗に整頓されたその並びには、秩序と調和が満ち満ちていた。漢字の持つ美しさは、羅列した時に初めて明るみに出るのかもしれない。一つ足りとも欠けることの許されない、それは一〇八にして一、一にして一〇八だった。

「す……凄いな、これは」

 圧倒されるあまり、思わずそう漏らしていた。そうして改めて、文字の意味を一つずつ追っていった。半笑いで。

「凄いな、これは……」

 酷いな、と言い換えても良かった。何となく、この行列は漢字など読めない言語圏の人の方が、格好よく見えるのだろうと思った。意味内容がわからない方が良いことも、この世には数え切れない程あるのだよ。

「ちなみに、これって何順?」

「知らない。最初は何かの法則に則って並んでたのかも知れないけど。毎年七組が脱落して、空いたところに昇格組が入り込んで、それを何年も繰り返すうちに、こんな風な並びになったみたい。勇猛が一番で、瀕死が一〇八番ね」

「何年もって、正確には何年なんだ?」

「その辺が曖昧でね。当時のことを知る小人があんまりいないせいもあるんだけど、この概念が出来てから五〇年くらい経ってるって言うから、たぶん五〇回くらいじゃないかな」

 適当にも程がある。これだけ地球に対して無責任な人類にだって、自分達の過去を知る努力を惜しまない者がいるというのに。小人界では、そういうブームは無いのか。自らのルーツを探ることをしないというのか。考古学者や、歴史家や、小人類学者的な存在はいないのか。発掘された小人文明の遺跡はないのか。遺跡は。そう、吉野ヶ里のような素敵な遺跡は! 遺跡、遺跡、遺跡は!

「やかましい! 脳神経焼き切りたくなかったらちょっと黙れ、猫背野郎」

「すみません」

 目の前の文字列が一瞬だけ二重にぶれて見えたので、俺は慌てて黙った。黙ったといっても、元より何か喋っていたわけではなかったが、俺の脳の中のニュアンスで言えば大体それに該当する行動を取ったという意味では、黙ったのだった。脳に余計な負担をかけて、こんなどうでも良いサブイベントで廃人になるのはまっぴらごめんだった。

 雑念を振り払い、出来る限り集中して、文字列を追いかけていく。

 ……上戸、下戸、凶悪、卑怯、性悪、仇敵、美形、小物、大物……

 と、黙ってしまった俺に対して、ハンプバックは居心地の悪さを覚えたらしく、

「嘘嘘、冗談だって。別に大丈夫だから、そんなに警戒せずに質問とかあったらどうぞ」

 今更、あれだけの剣幕で罵倒された後に猫撫で声でフォローされても、信じることなど出来ようはずも無い。ちょくちょくハンプバックに対して、「あー、こいつ、キャラ掴み辛いな」と思うことがあったが、本人も言っていた「語尾に『にゃ』をつける猫被り」が長かったせいで、どんな自分を取り繕えばいいのかわからなくなっているのだろう。これまでは、語尾だけ変えればどれだけ適当な態度を取っていても、一貫した猫キャラで通せていたものが、化けの皮が剥がれたせいで、謎が多く多感気味でテンションのおかしな女性という人格にしか見えないという寸法だ。

 あ、こんなこと考えると、聞こえるんだっけか。

 頬に、小さな痛みが走った。詳細はわかりたくもないが、頭と両手をついているハンプバックが、爪を立てているらしい。猫手ではなかったはずだから、純粋に人型の手で、爪を伸ばしているというわけか。何はともあれ女性である。

 突き立てられた爪が、皮膚を切り裂いたまま下方へ引き下ろされようとするのを感じて、視界が妙な風にぶれた。文字が捻れ、風を受けてはためく国旗のように全体がたわむ。

「待て、ストップだ、ストップ。ハンプバック、質問、質問、いい?」

 人間の知覚の大部分は視覚に由来する。視界の全体がゆらゆらと揺れているように見えるだけで、相当気持ちが悪い。目を閉じても消えてくれない歪みの中で、俺は相手の返事も待たずに質問した。というか、質問の形をとったつっこみであった。

「明らかに人格とは思えない単語が混ざってるけど、これはどういう故あってのことなわけ? 弊害とか、衰退とか、汚染とか」

 返事は無いかもしれない、と半ば覚悟していたが、意外にもハンプバックは律儀に答えて来た。爪は頬肉に食い込んだままである。痛い。辛い。基本的に暴力沙汰とは無縁の世界の人間なので痛みに極端に弱い。

「こういうと語弊があるかもしれないけど、基本的に漢字二文字の言葉であれば、守護小人の存在が許されるわけ。滝の下の国には、落雷とか夕飯とか、もっとわけわかんない属性の守護小人がいっぱいいる。それが人格基礎属性と見なされるかどうかは、ただもう滝の下の国で行われる七代表決定統一競技会で勝ち残れるか否かって部分にかかって来るから、正直、どうしようもない属性も上がって来れちゃうわけね。一応、ある程度の規制はあるんだけどね」

「……赤鬼とか、虚像とかはそういう類か」

「そう。彼らは今年のルーキー。こっちの世界に適格者がいるかどうか知らないけど、とりあえず七代表に選ばれちゃった口ね」

「断言してもいいが、赤鬼はいない」

 だって、鬼だぞ? 全身赤くて、角生えてるんだよ? 少なくとも俺が生きてきた二一年間、そんな奴はお目にかかったことがない。直でないのは当然のこと、この情報化の進んだメディア社会において実写映像で見たことすらない。二次元イラストでならかろうじてある、が、それは勿論除外だ。泣いた赤鬼は、感動的な童話ではあったが、赤鬼の実在を保証する材料には残念ながらなり得ない。なり得ない。

「弊害、衰退、汚染の三属性については、こっちの世界に上がってから、適格者を獲得するためにだいぶ言葉の持つ意味合いを甘くして、四苦八苦しながらランキングバトルを勝ち抜いている口ね」

「……滝の下の国が殺伐とし過ぎたせいで、みんな必死に脱出しようとしてしまい、妙な属性の小人も統一競技会とやらに参加したがる。本来人格の基礎を表すはずの一〇八属性がその煽りをくって無茶苦茶になってるって構図があるわけだな?」

 ひゅーと、口笛を真似て口で言う音が聞こえた。頬に、僅かに空気の流れを感じる。

「それ、分析の守護小人アナリシスによる分析結果とおんなじだ。すごいねツキト」

「いや、凄いのかどうかよく知らんが」

「アナリシスだよ? 出す本出す本がベストセラーになる、滝の下の風雲児だよ?」

「知らねえって。そいつ自身、どんだけ分析してても七代表になれてないって時点で、底が見えてる気がするがその辺はどうよ」

 ひゅーと、再び口笛もどき。

「それ、酷評の守護小人クリティシズムによる酷評文句とおんなじだ。すごいねツキト」

「いや、凄いのかどうかよく知らんが」

「クリティシズムだよ? ボディーガードを常に三〇人以上付けていないといつ死んでもおかしくないと言われ続けてる、滝の下の問題児だよ?」

「知らねえって。酷評って奴がそんな殺伐とした世界で生きていけるってのは確かに凄そうだが、決して褒められた生き方ではないぞ」

「ちなみに私は、七代表決定統一競技会のベスト四〇に残った段階で、『酷評するだけの価値すら見出せない』って褒められたよ」

「いや、それは……お前もしかして、わざと言ってる?」

 夢を壊すことは俺の仕事ではなかったので、あえて真実は伝えないことにした。サンタクロースの正体を知った時人は大人への階段を一歩上るのだという素敵な学説があるが、今回のケースをそれと一緒にしてはならないだろうから。さすが俺。ハンプバックの介入を防ぐために、もずくのことで頭をいっぱいにする。無理だ。よし、ここは次の質問をしよう。そうしよう。そうやって誤魔化そう。

「冷酷と残酷とか、傲慢と高慢とか、性悪と腹黒とか、似たような意味の属性があるんだが、これってどうやって区別してんだ? 重複するだろ、適格者が」

 そうやって誤魔化そう、という思考まで丸聞こえだったはずだが、ありがたいことにハンプバックは質問に答えることを優先し、真意を尋ねることはしなかった。

「よくこんな短時間で見つけたね。そういうバイトとかしてんの?」

「どんなバイトだよ」

「とりあえず、この辺は、ニュアンスの問題としか言いようがないわ。高慢と傲慢の境目なんて、私にだってわかんないよ。かなりの部分で重複するのは事実だし。まあ一番違うのはやっぱり、守護小人自体の外見と性格かな」

「外見はまだわかるが、性格も違うのか……?」

「勿論。冷酷の守護小人ハートレスは、番号隣だから何度か話す機会があったんだけど、結構良い奴よ。手料理ご馳走してもらっちゃった」

「ちょっと待て。そいつのどこが冷酷だ……?」

 呻く。イメージ通りにことが進まないにもほどがある。猫背の守護小人に猫耳、猫尻尾まで付いてくるという時点で、予想しておくべきだったのだろうか。冷酷の守護小人は手料理を振る舞ってくれる。いや、無理無理。それは無茶というものだよ。だってハートレスだぞ? 名は体を表すわけだから、心が無いが如く冷たい奴なんじゃないのか。それはつまり、鋭く澄んだ瞳で他者に依存せずにいつも我が道を行き、情け容赦という言葉を欠片も感じさせず、不要なものを躊躇無く切り捨てるタイプの人間を言うのではないのか。

「まあ、それも勝手な思い込みが多分に含まれてるけど。守護小人なんて、本質は人間と一緒なんだから。生き方一つで性格は幾らでも変わるって。高慢の守護小人が高慢の適格者と正式に契約する時に、高慢な態度で話し掛けたら、絶対に契約なんて取れないでしょ? 臨機応変な対応が不可欠だから、属性に縛られてもいられないってわけ。まあ、外見は属性名に拠るところが多いんだけどね。ハートレスは、ツキトの言う通り、鋭い目つきと澄んだ瞳、短い黒髪が印象的な怜悧な感じの美人さんだよ」

「いや、そこまで明確なビジョンはなかったが。つーか、そもそもそいつが女であったことに驚きを隠せないくらいだ」

 何せ、こちらとしては羅列された二文字の漢字しか情報を与えられていないのである。その属性の守護小人の性別まで類推しろと言われても難しい。というか、無理に決まっている。女性名詞と男性名詞で別れているわけでもあるまいし。

「ま、バトルが始まる二月の頭までには、小人の性別なんか属性聞いただけでわかるくらいになっててもらうつもりだから、その辺よろしく」

 言って、許可も無くハンプバックの両手と額が 頬から離れる。突き刺さっていた爪が肉から引き抜かれる感触が確かにあって、ぞくりと怖気が走った。一〇八属性を羅列した表は、額が離れてから徐々に薄れ始め、ホッキョクグマのポスターが視界に戻りつつある。少しくらくらするが、軽度の立ちくらみであると思えば耐えられるという程度の代物であった。

「んじゃ、正式契約者登録とか、諸手続きのために一旦夢の淵の本部に行かなきゃなんないから、とっとと寝てくれない?」

「……俺、やっぱりお前らの領域の話は良くわからんわ」

 何度目かの突然の意味不明発言。ハンプバックは、肩の上から俺のすぐ横に跳び下りて、びしっと枕の方を指差した。本当に、早く寝ろと言いたいらしい。ハンプバックに引っ掻かれた頬に触れ、出血していないけれども、少し傷痕が残っていることを確認する。両親に訊かれたら何の傷だと答えれば良いのだろうか。

「ま、わかりやすく説明するとね」

 素直に寝ようとしない俺に業を煮やしたのか、ハンプバックが口を開く。内ポケット近くの不思議空間からマイ毛布を取り出して肩から羽織っているのは、別に寒いからではあるまい。自分は寝る準備万端というわけである。

「ランキングバトルの統轄・運営を行っている守護小人ランキング作成委員会の本部が、夢の淵にあるの。夢の淵ってのは、まあ、人間には理解出来ないかもしれないけれど、夢の淵の部分で、ええと、こう、崖になった夢一丁目の角地の部分と、集合無意識通りのアーケード部分がねじれの位置で交差してるわけだけど、一箇所だけ接地しててさ、まさにそこ。事務所の入り口が、小さいながらもあるわけなのよ」

「もっと何かあるだろ、説明のしようが」

「端的に言えば、ツキトは寝てるだけで大丈夫。夢の中の意識だけを私がエスコートしてあげるから。明日の朝になれば、きっと忘れてる。所詮夢、されど夢。そんな素敵体験ね」

 要領を得ない。何がわからないのか、それすらもはやよくわからないが、枕もとでスタンバイしているハンプバックの様子を見るにつけ、どうも本当にただ寝れば良いらしい。俺は一度だけ時間を確認した。午前二時に迫ろうとしている。いつの間にそんな時間が経ったのだろうか。休日は三時四時に就寝することも当たり前の俺であるが、だからといって二時という時間が、寝るのに早過ぎるということもない。ゲームの続きも気になるところだったが、今から始めると完全に徹夜コースになるし、そもそもレディからの誘いを無下に断るのも無作法だ。そんな甘やかな代物ではなさそうであるが、正式契約者のやり口として、小人の意見には素直に従っておいた方が利口そうではある。

 俺は立ち上がって歩き、蛍光灯の紐を二回引っ張って豆電球だけにした。夜は雨戸を完全に閉めているので、電灯を完全に消すと俺の部屋は真っ暗闇になってしまう。それだと何だかやけに不安になってしまうため、俺は豆電球を付けたままで眠ることにしている。

「おー、私とおんなじだ。やっぱ、いざという時のために、最低限の灯りは必要よね」

「まあ、具体的にどんな時に必要なのかはいささか疑問だがな」

「ほら、深夜に起きた時、真っ暗だと時計が読めなくて何時かわからないじゃない」

「……小人の口からそんなこと聞くと、ファンタジーってやっぱり妄想なんだな、としみじみ思うね」

 羽毛布団とシーツの間に体を潜り込ませる。寝相が良いほうではないため、軽い羽毛布団を跳ね除けないために重さを増す目的で被せている二枚の毛布をさらに被って、頭を枕に埋めた。ちなみにこの枕は、姿勢よく眠れるため疲労が溜まらないメディカルピロウとやらだが、元より猫背で姿勢の悪い俺にその効果は薄い。ハンプバックの位置を確認し、彼女を潰さないように注意することを忘れない。緑色の体液をぶち撒けられても困る。

「いや、そんな色してないから。万が一私の血の色が緑だったら、たぶん、肌の色とかが、もっと気持ちの悪い感じになるはずでしょ? 唇とか特に、血液の色に依存してるわけだし」

「小人の口からそんなこと聞くと、ファンタジーって妄想なんだな、としみじみ思うね」

 横になった俺の目の前に、毛布に包まったハンプバックの姿があった。何が嬉しいのか、ニコニコしながらこちらを眺めている。

「何だよ」

「いや、この枕、寝心地良いなー、と思って。大きさも、私とツキト二人で寝るのに申し分ないし」

「小人に喜んでもらえるなんて、枕職人は光栄だな」

 軽口を叩いてから、目を閉じる。何となく落ち着かない。気が昂ぶっている理由など、考えるまでもなかったが。

「暖房、消さなくて良いの? 乾燥するよ」

「自動的に切れるようになってる」

 溜息のように、息を長く吐き出した。呼吸を、深く、ゆっくりしたものに変えていく。瞼を通して感じられる薄明かりの中で、そこに確かに在る気配。

「ねえ」

「何」

「…………」

「何だよ」

「……お休みのキス、しよっか」

「殺すぞ、あるいはそれに準ずるぞ」

「おかしいな。前の宿主によると、これでたいていの男はイチコロのはずなのに」

「その知識のことより何より、お前が俺をイチコロにしてどうするつもりなのか、その先が知りたいのだが」

「何も考えてないに決まってるじゃん」

「熟考しろ」

 ハンプバックが身じろぎする、衣擦れの音がかすかに聞こえた。後は、自分の呼吸の音と、耳を済ませば心臓の鼓動。耳元で、拍動に合わせて血管の収縮する感覚がある。

「なあ、ハンプバック」

「何」

「…………」

「何なのよ」

「やるからには、勝つぞ」

 返事は、しばらく無かった。答えを躊躇っているような、あるいは考え込んでいるような、そんな間があった。

「……当然。世界の果ての城は、私のものよ」

 小さく、口の中だけで呟くような声が聞こえてきた。

 小人の世界のことについて、俺にはやっぱりよくわからない。未知の領域が全て既知に変わることはおそらくあり得ないから、きっとこのやりきれなさや、心の片隅にひっかかる違和感が消えることは最後までないのだろう。

 だから、俺には、ハンプバックが本当のところどんな気持ちで今ここにいるのか、それを知る術はない。その覚悟も、気負いも。全てを測り知るには、根本的な部分で互いを分かつ溝が深すぎる気がする。小人と、人間と。種族も違えば何もかも違う。

 それでも俺は、正式契約者の道を選んだのだから。その責任と、俺自身の意地がある。猫背であることを唯一の頼みとする一介の大学生が、圧倒的な勝ち組になる必要がある。そういう、ことだ。やるからには、勝つ。願いを叶えてくれるという、非常にわかりやすい餌につられて。


「一年間、よろしくな、ハンプバック」


 一瞬だった。ほんの一瞬だけ、唇に何か小さく、柔らかな感触が触れた。

 思わず目を開けると、わざとらしいくらいに安らかな寝息を立てている、猫耳の小人が毛布に包まっていた。

 気のせいだ。きっとそうだ。

 姿勢を変える。ハンプバックに背を向けるように、反対側を向いてから、瞼を下ろす。何だか、ようやく眠れそうな気がした。場違いなほどの、いや、寝台の上では当然の、穏やかな心地に包まれて、俺は安堵の息をつく。

 最後の一言は決まっていた。

「おやすみ、ハンプバック」

 返事は、また、妙な間の後に返って来る。そうに決まっている。

 迷いと躊躇いの後の、妙な間の後に。


「……おやすみ」


 別段、どうということもなく。新年最初の俺の一日が終わり、眼が覚めれば俺の感覚的な日付けがカレンダーに追いつくという、それだけの儀式。寝るだけだ。

 そして、そのための挨拶をした。本当に、それだけのこと。

 それだけのこと。




 そして、自分の悲鳴で目を覚ますというドラマのような目覚め方で朝を迎えた俺は、その原因であろう夢の内容を、何一つ覚えていなかった。ただ、早鐘のように鳴り続ける心臓と、不気味なほどびっしょりとかいた冷や汗と、夢が夢であったことの安堵と。俺の頭は混乱の中にあった。肩で息をつきながら、もう一度仰向けに枕に倒れ込む。夢の余韻に浸り、その記憶の一端を取り戻そうとする。

「ま、夢は夢だから」

 耳元で、囁くような声が聞こえてぞっとする。一瞬の後に、自分に寄生する一人の小人の存在を思い出して、そちらに顔を向けてみる。毛布から、顔と尻尾だけが飛び出していた。短めに纏まっていた栗色の髪が、ぼさぼさに乱れていた。大きな瞳は依然閉じられたまま、しかし寝言というにははっきりし過ぎの口調で、

「別に、罪悪感を感じるようなことでもないから、忘れておいた方がいいんじゃない?」

 と、不可解な発言を残してから寝返りをうった。

 …………。

 何があった? 夢の淵の本部とやらで、一体何が?

「大丈夫だって。別に、この夢が後々展開に大きく関わってくることになるとか、そんなことはたぶんないから」

 俺の興味とはだいぶズレたことを言う小人を、叩き起こして吐かせようかとも思ったが、何となく寝足り無かったので、もう一度目を閉じることにした。

 動悸は治まっていた。どんな夢だったのか、印象が何も残っていない。悪夢を見た後、とも何となく違う。漠然と怖かった、というような感情だけが残る代物ですらなく、夢のことを何一つ覚えていないのに、悪夢を見た後のようになっている自分自身への混乱が一番大きい。何かを思い出そうとしても、元から何も知らないのであるかのように、断片的な記憶さえ出てこない。ただ、夢から醒めた後の薄気味悪さを味わうことしか出来ていなかった。

 ……何があった?

 何も思い出せないまま、意識がまどろみの中に引き戻されていく。

 ……何があった?

 というか、さっきちらっと見た限り、もう午前一一時だったんだが、また寝ていいのか?

 ……何があった?

 寝正月か、俺らしいなあ、全く。

 何があった?


 何でもいいや、と言える心境になるまで一通り思考が巡った後、ようやく俺は二度寝した。眠ることが出来た。

 今度の夢は、今やっているゲームのキャラクターが、何だか知らんが俺の家を訪ねてくる、みたいな荒唐無稽な内容だったことを把握できた。温かい飲み物を所望するその剣士に、「あ、じゃあもずく酢でいいですか?」と提案して冷蔵庫を開ける自分がいて、大き目の家庭用冷蔵庫にぎっしりとパック入りのもずく酢が詰まっていた。そして剣士と二人で食べた。箸を起用に使いながらそれを食べる異国の剣士は、傍から見ても滑稽であったが、黙っていた。「カップの底にアタリって書いてあったら、もう一つ食べられます」と不思議なことを言う俺。別にハズレでも勝手に食えばいいじゃん、あんなに余ってるんだから。

 ……限りなくどうでもいいや。

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