英里衣編~時越えの扉~

英里衣編①:槇村英里衣の日常

 どこか遠くへ行きたかった。自分が自分から逃れられるくらい、遠くへ。

 それでも、どうしても、自分が自分に追いついてしまう。自分は周りに置いて行かれているというのに。



 念入りな検討と話し合いの結果、僕は槇村さんと一緒に会報の作成に向けた作業をすることになった。僕らは彼女のお目当てである『時越えの扉』について調査すべく、これからペアとして頑張っていくことになった。


 今後の活動について決まった次の朝、僕は泣きながら目を覚ました。とても悲しい夢を見た気がしたからだ。ただ、夢の内容を思い出すことはできないまま学校に行き、葉那と咲也とお昼を食べ、放課後の部室に顔を出した。それなりに良い一日だったので、会長さんの顔を見るころにはそんな夢を見たことも忘れていた。


 そういえば今日の休み時間にこんなことがあった。


「お話中ごめんなさい、ちょーっとお願いがあるんだけど……」


 クラスメイトが数名、調査について話していた僕と槇村さんのところにやってきた。その中心にいるのは坂井姫乃さかいひめのさんという、名前の通りちょっと姫っぽい女の子だ。坂井さんはいきなり顔の前で手を合わせて、拝むようにしながら声を張り上げた。


「お願い! 私の王子様になって!」

「……は?」


 クラスが一気にざわつくのが判った。教室にいたみんなが僕たちのいるあたりに注目している。戸惑いと好奇の視線を背中いっぱいに受けながら、坂井さんご指名の『王子様』は言った。


「あたしに王子様って……どういうこと?」


 坂井さんの王子様――彼女に懇願された槇村さんは、ただただ困惑の色を浮かべるのだった。


「えーっと、実は……」


 彼女たちの話を要約するとこういうことだった。


 僕らのクラスでは有志を募って文化祭で劇をやることになっていて(そういえばそんな話があった気がする)、主役は坂井さん演じるお姫様、そして、学年でもそこそこかっこいいことで知られている白崎しろさきくんの王子様になることが決まっていた。ところが肝心の白崎くんが急な留学に行ってしまって、王子様が不在になった。演目替えや脚本の変更、代役などさまざまな手段でその穴を埋めようと苦心していたところに、坂井さんにとって理想の王子様――槇村英里衣が現れたのだとかなんとか。


「ちなみに演目は?」


 純粋な好奇心から僕が尋ねると、坂井さんの後ろに控えていた文芸部の日岡ひおかくんは自信たっぷりに答えた。たぶん彼が脚本担当なんだろう。


「異説白雪姫~漆黒鮮血の約束編~」

「中身がまったく想像できないんだけど、それ文化祭で上演できる内容なの?」


 嫌な予感しかしなかった。タイトルの意味不明さやB級感がものすごい。鮮血なのに漆黒ってどういう感じなんだろう。

 ついでだと思って僕はもうひとつ聞いてみることにする。


「……王子様っぽいというか、たとえば背が高くて見栄えのする男子なら白崎くん以外にもいると思うけど、女子の槇村さんでよかったの?」


 すると今度は坂井さんが満面の笑みを見せながら言った。


「六十点から七十五点の男子と百二十点の女子がいたら、後者を取るのは当然のことだと思わない?」


 選考基準に筋が通り過ぎていて怖い。そのいまいちな点数をつけられた男子たちの中に自分が含まれていないことを願おう。他人事でもこれだけ胸が痛いのに、万が一自分のことだったらきっと僕には耐えられない……。


「とにかく、そういうわけなの。英里衣ちゃん、ちょっと考えてみてもらえないかな? お礼はするから!」


 白雪姫――坂井さんは王子様、もとい槇村さんの手を握った。その目はうるうると揺らぐように光っており、彼女のものすごい熱意を感じさせた。槇村さんはしばらく視線を泳がせていたが、やがて小さな声で彼女に告げた。


「……ああ、うん。検討はさせてもらう……」

「ありがとう! お返事、待ってるからね~!」


 坂井さんはぱっと目を輝かせると、日岡くんや数名のクラスメイト(おそらく全員スタッフなのだろう)を引き連れて自分の席に戻っていった。

 ……お人好し。僕は槇村さんに聞こえないように口を動かした。彼女はそれからしばらく、困ったようなまんざらでもないような、なんとも言えない表情を浮かべていたのだった。ただ、決して嫌そうではなかったことがやけに印象に残っていた……。


 ――と、そんなことがあってからの放課後、今度は魔女研での出来事だ。


「英里衣先輩、これから猫カフェに行きましょう!」


 全員での簡単な打ち合わせが終わり、みんなで部室でなんとなく過ごしていると、葉那が僕の隣に座る槇村さんに熱っぽく語りかけた。槇村さんはぽかんと口を開けたまま、僕と葉那を交互に見ながら言った。


「いや、あの……あたし、これから渡瀬と記事の話をしようと思ってて」

「今日はもう時間が遅いです! というか話なら猫ちゃんと遊びながらでもできます! わたし、曜日限定の割引クーポンをもらったので、ぜひ今日行きたいんです! かわいい生き物をお得に眺め放題ですよ!」


「いや、そんなに遅い時間じゃないし。まだ明るいし」


 僕は思わず葉那にツッコミを入れた。というか触るんじゃなくて眺めるのか。


「よかったら吉田先輩も一緒にどうですか? なんと一グループ五名まで有効なクーポンなんですよ!」


 葉那はクーポンをひらひらさせながら、部室で相変わらずゲームに興じる吉田さんにも呼びかけていた。吉田さんはちょっと不機嫌そうに顔を上げると、しばらく顔をしかめたまま葉那を見ていた。


「……花邑、そのお店オニオンコンソメある?」

「うーん……」


 しかめっ面のまま口を開いた吉田さんに、葉那はしばらく考え込んだ挙げ句こう答えた。


「知りませんが、吉田さんが信じていれば可能性はゼロではないかと!」


 なぜか親指を立ててウインクする葉那。とても楽しそうだ。それに対して吉田さんは呆れたようにため息をつきつつ……。


「うん、行く」

「行くのかよ!!」


 わざわざ葉那の横に移動して、同じように親指を立ててウインクする吉田さん。ちなみにこの人、ウインクがまったくできてない。


「ははは……」


 もうやだなあこの同好会。そう思っているところに槇村さんの控えめな笑い声が響いた。


「わかったわかった、一緒に行こうか。調査の話はそっちでする――それでいいよね、渡瀬」

「ああ、うん。そうしようか」


 この流れで断れるわけがない。ちょっと予定になかったイベントだが、こうして僕たち四人は揃って猫カフェとやらに向かうことになったのだった。ところで名前が挙がらなかった会長さんだが、残念ながら彼女は活動が終わった後すぐに下校してしまったためこの場にはいない。何かと忙しい人のようだし、少し寂しいが仕方のないことだ。


「じゃ、行こう。花邑、案内してよ」

「わかりました英里衣先輩、この多機能ナビゲーター葉那ちゃんにお任せください!」


 葉那がびしっと敬礼して張り切っていると、吉田さんがその手元から華麗な手つきでクーポンをふんだくった。彼女は券面を確認すると、スマホの地図アプリを立ち上げて店名を入力し始めた。


「ん、駅前。英里衣ちゃんと一緒に行った本屋のとなり……」

「こらー! 仕事奪っちゃだめー!」


 葉那と吉田さんがじゃれ合っているのを横目に、槇村さんは荷物をまとめていた。彼女はヒートアップするふたりをなだめると、それぞれの背中を両手で押しながらドアのほうに誘導した。


「英里衣先輩って、なんか……年上の彼氏って感じですよね!」

「たぶんこれ、英里衣ちゃんルート確定イベント……」


 背中を押されているふたりはどこかうれしそうに笑う。それを見た槇村さんは、苦笑いしながらも喜びをにじませた声で言った。


「あーはいはい。ほんとに遅くなるから、早くデートに行くよー」


 そう。このとおり、僕の会報制作のパートナーである槇村英里衣は背が高くて面倒見がよくて、女性を中心にめちゃくちゃモテる人なのだ。

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