後編
空が赤く染まる中、イヴはようやく探していた人物を見つけた。
相手は、王宮を警護する若い衛兵である。
庭園の噴水の縁に腰掛けて項垂れていた衛兵は、まずは今をときめく第一王子殿下の登場に緊張の面持ちで敬礼をしたが……
「オズ・ウィンガーさん、伝言をお預かりしています」
彼の陰からイヴが現れたとたん、目に見えて狼狽した。
そうして、彼女が再び口を開く前にくるりと背中を向けると、硬い声で言う。
「申し訳ありませんが、勤務時間中です。私用の会話はお控えください」
あからさまな拒絶である。
しかし、虎の威を借る狐ではないが、頼もしい兄役が隣にいるイヴにとっては恐るるに足りない。
彼女はぴしゃりと言い返した。
「私の記憶に間違いはありません。オズさんは今月早番ですから、勤務時間は九時から十七時……つまり、もう今日の仕事は終わっていらっしゃいます」
前置きが未然形ではないのは、イヴが己の記憶力に絶対の自信を持っているからだ。
そして、彼女の記憶に間違いがないことは、王宮では周知の事実。
ゆえに、小柄な少女を相手に、屈強な衛兵でもたじたじとなった。
「オズ・ウィンガーさん、伝言をお預かりしています」
「うっ……」
もう一度、イヴはきっぱりと告げる。
カウンターの向こうでニコニコ愛想よくしている彼女しか知らなかったオズは、さぞ戸惑ったことだろう。
言葉を失う彼に、イヴは容赦無く本題に入ろうとする。ところが……
「ニコル・ハイドンさんから……」
「き、聞きたくないっ……!!」
伝言の依頼主の名前を出したとたんだった。
オズがそれを遮るように叫んだかと思うと、そのままだっと走り出してしまったのだ。
「あっ、逃げた……」
イヴがポカンとその背を見送る一方、ニヤリと口の端を吊り上げたのはウィリアムだ。
「私に背中を向けたこと、後悔させてやろう」
そう言い終わるやいなや、彼の利き足が力強く地を蹴った。
イヴの目には、わずかな土煙りだけを残してその長身が消えたように見えたが……
「ひ、ひいっ……」
次の瞬間には、逃げ出したはずのオズの情けない悲鳴が上がる。
あっさりと追い付いたウィリアムが、目にも見えない速さで彼を確保したのだ。
さらには、往生際悪く暴れて逃れようとするのを地面に引き倒して後ろ手に拘束してしまう。
犯罪者でもないのに随分な仕打ちであるし、本来守るべき相手である王子殿下に容易く組み敷かれて、衛兵としては立つ瀬がないだろう。
しかも、庭園にいた者達が騒ぎを聞きつけて、なんだなんだと集まってきたものだから、公開処刑もいいところだ。
イヴは少しだけ申し訳ない気持ちになりながらも、地面に伏したオズの前に立った。
「やめ……やめてっ……聞きたくないっ! 何も聞きたくないっ!!」
「いいえ、聞いていただきます。その耳かっぽじってでも聞かせます」
「き、鬼畜っ……!!」
「おい、聞き捨てならんぞ。イヴのどこが鬼畜なんだ」
すかさず兄役が抗議してくれたため、イヴは鬼畜呼ばわりされたのを流すと、落ち着いた口調で言った。
「聞いておかないと、きっと後悔なさいます。――ニコルさんを、少しでも想うのなら」
「うう……ニコル……」
イヴに伝言を託したニコル・ハイドンは、王宮に勤める侍女である。
オズとは同い年の二十二歳。彼らは王立学校時代からの付き合いで、同時期に勤め出したこともあり気の置けない仲だった。
わざわざ昼休みの時間を合わせて、二人一緒にコーヒーを飲むのが日課の『カフェ・フォルコ』の常連客でもある。
ただし、どちらも奥手だったものだから、なかなか恋仲に発展することはなかった。
そんな中、保守的な家庭の出身であるニコルには、親が独断で決めた男性との結婚話が持ち上がる。
そして、本日――彼女は遠方で仕事をしている相手との顔合わせのために王都を発つ予定になっていた。
オズはその事実を受け入れられず、さりとて彼女を引き止める気概もない。
縁談の話を聞いて以降の彼はただ悄然として、現実からも、ニコル自身からも逃げるばかりだったが……
「今夜、王都に住む相手の親御さんを訪ねて、縁談をお断りしてきます。相手の男性との顔合わせにも、行きません」
「は……?」
「きっと、親から勘当されるでしょう。どうか、慰めてくれませんか――と」
「え……?」
イヴが語った伝言の内容に、オズは呆けた顔をした。
彼は、ニコルが自分に寄越すのは決別の言葉だと思い込んでいたのだ。
今までありがとう、さようなら。
あるいは、この甲斐性なし、失望した、と。
それが聞きたくなくてイヴから逃げたというのに、実際に届いた伝言は思ってもみないものだった。
ただただ言葉を失う彼に、イヴは静かに続ける。
「ニコルさんが、今日注文なさったのは……カフェオレでした」
「えっ……カフェオレ? 彼女は、ブラック一択だったのに……?」
これまで『カフェ・フォルコ』ではブラックコーヒーしか飲まなかったニコルが、この日初めて注文したのは、オズの〝いつもの〟だった。
ミルクと砂糖がたっぷりと入って甘い――彼女の好みとはかけ離れた一杯。
かつては二人で訪れていた昼休みに、一人ぽつんとしてそれを飲んでいた今日の彼女を思うと、イヴは胸がちくちくする。
同時に、亡くなった妻が好きだったカフェオレを、ゆっくり味わっていったマンチカン伯爵を思い出し、切ない気持ちになった。
「ニコル・ハイドンがどんな思いでそれを注文したのか……想像することは難しくないだろう」
「……」
ウィリアムが諭すように言う。
抵抗をやめたオズは、ぐっと唇を噛み締めて地面に視線を落とした。
自分がこの日淹れた二杯のカフェオレは、いったいどんな味がしたのだろう。
そう、イヴは思いを巡らせる。
「ニコルさんは、覚悟を決めていらっしゃいました。私に伝言を託したのは、逃げ場をなくしてご自分を鼓舞するためだったのでしょう」
「ニコル……」
「伝言があなたに届かなくても、もしもあなたがそれを聞き流したとしても……今夜、縁談を断るおつもりだと思います」
「お、俺は甲斐性なしだから……彼女の親が認めたような立派な相手には敵わないと思ったんだ……」
保守的な家庭で生まれ育ったニコルが親に逆らうというのは、並大抵の覚悟ではできないだろう。勘当される、というのも大袈裟ではないかもしれない。
それなのに、この期に及んで煮え切らないオズの態度に、ウィリアムは呆れた顔をする。
イヴは、いっそ残酷なほど淡々とした調子で続けた。
「ではこのまま、オズ・ウィンガーは甲斐性なし、と私に記憶されてもいいのですか?」
「えっ……」
情けない顔をする相手に、イヴは畳みかける。
「ニコルさんも、十七時で仕事を終えています。帰り支度をして、そろそろ王宮を出るのではないでしょうか。――彼女に一人で縁談を断りに行かせて、本当にいいのですか?」
「――よ、よくないっ!!」
ばっと顔を上げて、オズが叫んだ。
やっと光が戻ったその目を見下ろし、イヴは大真面目な顔をして頷く。
「私も、よくないです。ニコルさんに最後にお出ししたのが好みからかけ離れた一杯だなんて――カフェ・フォルコの沽券に関わります」
とたん、オズはウィリアムを跳ね除ける勢いで飛び起きた。
自分を取り押さえていたのが恐れ多い相手であることなど、この時の彼は忘れ去っていただろう。
オズはそのまま駆け出したものの、少し行った所でふいにイヴを振り返って叫んだ。
「伝言、ありがとう! ――鬼畜って言って、ごめんよっ!」
「次言ったらぶっ飛ばすぞ」
またも兄役が代わりに答えてしまったため、イヴはただヒラヒラと手を振るに留めた。
オズの姿は、さっきイヴから逃げようとした時とは比べ物にならないほどの速さで遠ざかっていき、瞬く間に視界から消えた。
それを見送るイヴの隣に立って、ウィリアムが苦笑いを浮かべる。
「やれやれ、世話の焼ける……任務完了、ということでいいか? イヴ」
「はい、ウィリアム様。手伝っていただきありがとうございました」
一件落着といった二人の雰囲気に、遠巻きに見守っていた人々もほっとした様子で解散しかけた。
ところが、この直後のことである。
イヴの口から転がり出た言葉が、彼らをその場に引き止めることになった。
「ところで、ウィリアム様――モフモフしていいですか?」
深く淹れたコーヒーみたいな色合いのイヴの瞳が、夕闇が迫る中でもキラキラと輝いている。
彼女の目は、ウィリアムの頭の上――そこににょきっと生えた、モフモフの獣の耳に釘付けになっていた。
アンドルフ王家の先祖は、かつて食物連鎖の頂点に立っていたオオカミ族である。
地殻変動以降は、ヒト族を皮切りにさまざまな種族の血が入ったものの、時折オオカミ族の特徴を強く持つ先祖返りが生まれた。
ウィリアムが、そうだ。
普段はヒト族と似通った、ごく一般的な人間の姿をしているが、先ほどオズを捕まえた時のように獣人由来の飛び抜けた身体能力を発揮したとたん、その姿もかつてのオオカミ族――銀色の毛に包まれた三角形の耳と尻尾が生えた状態になってしまうのである。
マンチカン伯爵家のジュニアのように、常に獣人の特徴が出ている先祖返りよりも実は希少で、一説では生粋の獣人よりも身体能力で勝るという。
「はあ、かわいい……」
「……」
普段から愛想がよくニコニコしていることが多いイヴだが、この姿のウィリアムを前にした時ほどの笑顔を見せることはなかなかない。
それを知っているからこそ、ウィリアムは一瞬天を仰いだものの、結局は膝を折るのだった。
「かわいい……ウィリアム様、世界で一番かわいいです」
「私は……喜ぶべきなのか……」
「あっ、耳……へにゃってしました! かわいい!!」
「うぬぅ……」
いずれ国王となるであろう第一王子が、王家の遠縁とはいえ爵位もない家の娘の前に跪いて、さらには大人しく頭を差し出している。
モフモフの耳だけに留まらず、結局頭まで撫で回されている。
かわいいかわいい、されている。
完全に――大きなワンコ。
普通なら、遠巻きに見ている人々がざわつきそうな光景だが……
「いっやー……殿下、うっれしそうだなぁー……」
誰かが思わずそう呟いてしまったように、ウィリアムのフサフサの尻尾がブンブンと、それはもう喜びを隠しきれない様子で振られているのを見ると、人々は自然と笑顔になるのだった。
代々のフォルコ家当主がコーヒー狂であること。
イヴの記憶力が抜きん出ていること。
それから、『カフェ・フォルコ』のコーヒーがおいしいということ。
これらの事実が広く知れ渡っているのと同様に――
「ウィリアム様、世界一かわいい」
「……そうか」
やがて第三十五代アンドルフ国王となるであろう第一王子ウィリアムが、『カフェ・フォルコ』の店長代理の前では〝世界一かわいい王子様〟になることを――この王宮で知らない者はいなかった。
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