店長代理と世界一かわいい王子様 ~コーヒー一杯につき伝言一件承ります~
くる ひなた
第一話 そのカフェオレはどんな味?
前編
コーヒーは、化学である。
お湯の温度、注ぐ速さ、粉の量、豆の挽き方、焙煎時間など、条件によってその味は自由自在千差万別。
しかしイヴは、それを特別意識したことはない。
コーヒーはただ、物心がついた頃から側にある、彼女にとってとても馴染み深いものだった。
深煎りの豆を細かく挽いて、濃いめのコーヒーを淹れる。
ふわり、とほのかに花のような甘い香りが立ち上り、イヴの口元が自然と綻んだ。
豆は、標高が高く昼夜の寒暖差が激しい山岳地帯で採れた、苦味と酸味のバランスがよいものだ。果実のような酸味とコクのあるコーヒーになる。
これを抽出している間にかまどに小鍋をかけてミルクを温めるが、決して沸騰させてはいけない。
最後に、温めておいたカップにコーヒーとミルクを注げば完成である。
「お待たせしました。カフェオレでございます」
明るい声でそう言って、イヴはカフェオレがなみなみと注がれたカップを木製のカウンターに置いた。
微笑みで細まった彼女の瞳は、じっくりと淹れたコーヒーみたいな深い色をしており、カップから立ち上る香りとお似合いだ。
オリーブ色のワンピースの上に白いエプロンドレスを重ね、艶やかな黒髪はゆるく編んでヘッドドレスを付けている。
すると、カウンターの向こうから伸びてきた手が、カップではなくイヴの手をそっと包み込んだ。
金色のフサフサの毛に包まれた、モフモフの手である。
しかも、掌にはピンク色をした肉球まで付いており……
「どれだけ待たされようとも、まったく苦じゃないよぉ? だってその間、可愛いイヴを堂々と眺めていられるからねぇ」
極め付けは、砂糖をたっぷり溶かしたみたいな、甘い甘い猫撫で声。
カフェオレを注文したのは、金色の毛並みをした大きな猫だった。
それも、真っ白いクラバットを結び、瞳と同じ青色のジャケットとズボンを身につけた二本足で立つ猫――ネコ族の獣人である。
その背後を大勢の人々が行き交うも、誰一人彼の姿に驚く様子はない。
長いヒゲをピクピクさせた猫紳士は、イヴが差し出すカップを覗き込んで大仰に言った。
「ところで、これは熱いんじゃないかなぁ? いいや、絶対に熱いだろう。違いない」
「さて、どうでしょう。ミルクはだいたい六十五度を目安に温めておりますが……」
「あのねぇ、イヴ。ボクはねぇ、実を言うと猫舌でねぇ?」
「猫さんですものね。存じております」
笑みを深めてうんうんと愛想よく相槌を打つイヴの顔を、猫紳士は青い目をうるうるにして覗き込む。
彼らは、ちょうど同じくらいの背丈だ。
「ねえ、イヴ。お願いだよぉ。君のこの可愛らしい唇で、ふーふーしてくれないかなぁ?」
ところがここで、イヴの唇に触れようとしたモフモフの手を、横からガッと掴むものがあった。
こちらは、大きくて筋張った男の手である。
「――任せろ。私が代わりに、ふーふーしてやろうではないか」
ドスのきいた声でそう言って、カウンターと猫紳士の間に割り込んだ手の主は、一際上背のある若い男だった。
銀髪の隙間から覗く金色の瞳は鋭いが、猫紳士に負けず劣らず洗練された装いをしている。
イヴは、自分を庇って立った広い背中を見上げて、コーヒー色の両目をぱちくりさせた。
「ウィリアム様……?」
「イヴ、必要以上に客の戯言に付き合うものではないぞ。こいつのように、すぐに付け上がるからな」
ウィリアムと呼ばれた男が顔だけイヴの方に向けてそう言うと、んにゃあ! と一鳴きした猫紳士が彼の手を振り払った。
「ウィリアム! 相変わらず、無粋なこわっぱだにゃあ!」
「無粋はどっちだ。イヴの仕事の邪魔をするな――おい、そこの子猫! お探しのじじいはここだぞ! さっさと連れていけ!」
すると、廊下の向こうから一人の少年があわあわと駆けてくる。イヴと同じ年頃だろうか。
子猫と呼ばれた通り、その金色の頭には三角の猫耳が付いていた。
「じーちゃん! もううっ! 目を離すとすーぐにいなくなるんだからっ!」
「徘徊じじいみたいに言わんでくれよぉ。まあったく……ウィリアムといい、孫といい、最近の若いもんは情緒というものが足りんにゃあ」
「年寄りは、すぐそうやって上から目線で語りたがる。世の人間全てが自分に合わせるべきだと思い込んでいるのは老害というものだ」
とかなんとか、カウンターの前で男三人が言い合う。
ここは、人通りの多い場所にあるコーヒー専門店『カフェ・フォルコ』。
フォルコはイヴの家名で、彼女はここの店長代理を務めていた。
カウンターの奥には、こぢんまりとしたかまどと流し台がある。
店の横幅は大人が二人並ぶのがやっとくらいだが、奥行きは十分にのようだ。
ずっと向こうまで続く壁には一面に棚が作り付けられており、コーヒー豆が詰まったビンが整然と並ぶ。
「じーちゃん、もう帰るよ! 遅くなるとみんな心配するだろっ!」
「やだやだー! まだ帰りたくないんだもんっ!」
「もん、てなんだ。じじいがかわいこぶるんじゃない」
男達のやりとりを、イヴは微笑みを浮かべて眺めていた。
しかし、ふいに自分の手元に残っていたカフェオレのカップに視線を落とすと、あの、と口を挟む。
「お取り込み中、申し訳ありませんが――マンチカン伯爵閣下。飲み頃です。これ以上冷めると、おいしくないです」
「はあーい。――おい、ジュニア。せっかくだから君も何か注文しろい。じーちゃんは、可愛い可愛いイヴが淹れてくれたカフェオレをじっくり味わって飲みたいのですぅ!」
「ええー……もう、しょうがないなぁ。イヴさん、俺、前に頼んだのと同じやつもらえますか?」
「かしこまりました」
猫紳士の名は、ルードリッヒ・マンチカン。イヴが口にした通り、彼は伯爵の地位にある。じじいもじじい――御年五百歳を超える筋金入りの猫又だ。
猫耳が付いた少年ジュニアはその孫……ではなく、ひ孫のひ孫のそのまたひ孫の……と系譜上ではずっとずっと下にあるものの、面倒なので孫呼びされている。
彼は若草色のジャケットの胸ポケットを探って銀貨を一枚取り出すと、カウンターの上に置かれた料金箱に入れた。
『カフェ・フォルコ』のコーヒーは一律銀貨一枚。これは、紅茶一杯と同等の値段である。
常連のマンチカン伯爵とは違い、ジュニアが最後にコーヒーを注文したのはもう何週間も前のことだが、イヴは記憶を手繰るそぶりもなく早速カップを手にとった。
しかしふと、カウンターの前に立っている頼もしい背中を見上げて口を開く。
「ウィリアム様も、何かお召し上がりになりますか?」
「そうだな――私も、いつものを頼む」
そう言って頷いたウィリアムも、ズボンのポケットから取り出した銀貨を料金箱に落とした。
こちらは、マンチカン伯爵以上の常連だ。何しろ、多い日だと二度三度と、イヴが淹れたコーヒーを飲みにくるのだから。
そもそも、店の場所が場所である。
イヴが切り盛りするコーヒー専門店『カフェ・フォルコ』は、大陸の西に位置するアンドルフ王国――その王都に聳える王宮の、一階大階段脇に店を構えている。
そして、ウィリアムはというと、王宮の主の長男――つまり、アンドルフ王国第一王子という地位にあった。
ただし、『カフェ・フォルコ』には、ある特殊な事情により王家の権力が及ばない。
商品を提供するのは、相手の地位にかかわらず注文順で、王子ウィリアムもそれに異を唱えることはなかった。
先に注文を受けたジュニアの飲み物に取り掛かるイヴを、マンチカン伯爵家の二人が猫耳をピクピクさせながら眺める。
「ジュニア、君は何を頼んだんだい?」
「名前は忘れたけど……チョコの味がする、なんだか甘くておいしいやつ」
ジュニアが以前飲んだのは、 コーヒーにホイップクリームとチョコレートを加えたカフェモカである。
マンチカン伯爵のカフェオレよりもさらに濃いめのコーヒーを抽出している間に、イヴは生クリームを泡立てる。温めたカップにチョコレートシロップ、コーヒー、カップ全体を覆うようにホイップクリームを乗せ、最後にナイフで削ったチョコレートを飾れば完成だ。
カウンターに頬杖を突いて彼女を見守るウィリアムを、ようやくカフェオレのカップに口を近づけながらマンチカン伯爵が鼻で笑った。
「ふん……こわっぱのくせに、おとーちゃんみたいな顔しやがって」
しかし、カフェオレを口に含んだとたん――青い瞳はキラキラ、ヒゲはピンピン。
「うーん、うまぁい! おいしいよぉ、イヴ! 親父さんに負けないくらい、おいしく淹れられるようになったねぇ!」
「恐れ入ります」
仕事を褒められ、まろやかな頬を色付かせて殊更嬉しそうな顔をするイヴに、彼女を見守るウィリアムの眼差しが蕩けた。
『カフェ・フォルコ』は、イヴの父が始めた店だ。
壁際に並んだビンの中には、三百年続くフォルコ家代々の当主が大陸中から集めてきたありとあらゆる種類のコーヒー豆が詰まっている。
かつては個人で楽しむか親しい者に請われて豆を譲るくらいだったが、イヴがまだ赤ん坊の頃に、父ロバート・フォルコがこうしてカウンターを設置してカフェにした。
ウィリアム王子もマンチカン伯爵も、そんな開店当初からの客である。
カフェとはいっても座席はなく、カウンターの脇に立ち飲み用の小さな机が一つ置かれているだけだ。
客は立ったままコーヒーを飲み、カップをカウンターに返して帰るのがルールになっている。
もちろんそれは、一国の王子殿下とて例外ではない。
「イヴ、私にはどういった豆で淹れてくれるんだ?」
「今回は、父が見つけた比較的新しい品種の豆にしようと思います。発見当初は樹高が高くて栽培が難しいと敬遠されましたが、昨今では柑橘系のさわやかな酸味とワインのような深みのある芳醇な味わいで注目されているそうですよ」
ウィリアムの〝いつもの〟は、ブラックコーヒーだ。
豆自体にこだわりはなく、季節やその日の温度などを考慮した上で彼が好む風味のものをイヴが選別している。
深煎りの豆を丁寧に挽いて粉にし、香りを楽しみながらドリップする。
一切の手間を惜しまず、じっくり丁寧に拵えるイヴを眺めるウィリアムの眼差しは、それこそマンチカン伯爵家のジュニアがちびちび飲んでいる――こちらも猫舌である――カフェモカくらい、甘くなっていた。
その横顔を生温かい目で眺め、マンチカン伯爵が口を開く。
なお、王子に対する横柄な態度が許されるのは、彼が初代国王の親友で、その黎明期を支えた忠臣でもあったからだろう。
「それで、おとーちゃん? オリバーは今どこで何をしているんだい?」
「誰がおとーちゃんだ……オリバーの現況など、私も知らん」
「はぁん、まったく……最近の若者は薄情だにゃあ。君達、幼馴染みで親友じゃなかったのかい。それにしても、オリバーも困ったやつだよ。こーんな可愛い妹一人に働かせて、自分は自由気ままに大陸中を遊び呆けて回っているなんてさ!」
「兄は遊んでいるんじゃなくて、豆の買い付けに行っているんですよ」
ブラックコーヒーをウィリアムに手渡しながら、イヴは苦笑いを浮かべた。
彼女には兄が一人いる。
母を知らず、王立学校の中等科に上がる前に父が亡くなって以降は、六歳離れた兄オリバーがイヴの親代わりだった。
彼こそが、『カフェ・フォルコ』の店長である。
そんなオリバーも、イヴが高等科を卒業した一年前、店を彼女に委ねて新たなコーヒー豆を求める旅に出た。
時折ふらりと戻ったかと思ったら、またすぐに出かけて行ってしまうのだが……
「オリバーが不在の間は、私があいつの代わりをする。なんら問題はない――イヴ、コーヒーうまいよ」
「恐れ入ります」
この通り、ウィリアムが兄役を買ってくれているため、イヴは生活面での不自由も、寂しい思いもせずに毎日を過ごせている。
そうこうしているうちに、時刻は間もなく十七時になろうとしていた。
「やっば、もうこんな時間! じーちゃん、帰るよ。もう飲んだ? 飲んだね? はいカップ、お返しします! ごちそうさま!」
慌ててカフェモカを飲み干したジュニアが、空になった二つのカップをカウンターに返す。
そして、性懲りも無くイヴに絡もうとしていたマンチカン伯爵の首根っこを掴んで帰宅を促した。
んにゃあ……と鳴いて孫に引っ張られていく相手を、イヴは慌てて呼び止める。
「閣下、お帰りの前に一つよろしいですか? 実は、伝言をお預かりしております」
「んんー? 伝言? 誰からかにゃ? その可愛い声でボクの耳に囁いてちょうだいよ」
とたん、マンチカン伯爵はジュニアを引き摺ってカウンターに戻ってくると、イヴの手を握って顔を近づけようとする。
眉を跳ね上げたウィリアムが、カップ片手にその狭い額を掴んで阻んだ。
「午前中にロートシルト侯爵家の先代様が見えて、ご一緒に釣りをしましょうと仰せでしたよ。明日の朝五時、ケンル川沿いの物見小屋に現地集合とのことです」
「へえ、ロートシルトの坊やから誘ってくれるなんて珍しいなぁ。明日の朝、五時ね。了解!」
アンドルフ王国の名門ロートシルト侯爵家のご隠居はすでに八十近いのだが、五百年以上生きてきた猫又にとってはいつまでも坊やらしい。二人は長年の釣り仲間でもあった。
イヴから伝言を聞いて、マンチカン伯爵はとたんにウキウキし始める。
「ウィリアムも一緒にどうだい? 穴場を教えてやらんこともないぞ?」
「遠慮しておく。こちとら現役で仕事をしているもんでな。平日の早朝から隠居じじいどもと遊んでいる余裕はない」
一方、ジュニアは苦虫を噛み潰したような顔をしたかと思ったら、イヴに恨めしそうな目を向けた。
「うっわー……これ、俺は問答無用で同行させられるヤツじゃん。早起き苦手なのに……余計な伝言、しないでほしいんですけどー」
「申し訳ありません。コーヒーをご注文していただいた方からの伝言は、できる限る承るようにしておりますので……」
コーヒー一杯に付き、伝言一件。
これは、知る人ぞ知る『カフェ・フォルコ』のサービスだった。
ただし、当日の営業時間内――九時から十七時までの間に、伝える相手が店を訪れたり側を通りかかって、なおかつイヴが会話可能な状況であった場合に限る。
伝言はあくまでおまけであり、銀貨一枚の対価は最高のコーヒーを提供することのみ、というのが暗黙の了解の上で成り立つサービスである。
そのため、伝言を頼む客達の多くは、伝わったらいいな、くらいの感覚で利用している。
しかし、今回の前ロートシルト侯爵の場合は、マンチカン伯爵が本日王宮を訪れることを把握しており、必ず『カフェ・フォルコ』に立ち寄ると知っていたがために、確信を持って伝言を託したのだろう。
「腕が鳴るねぇ! 大きい鱒を釣ってきて、イヴにご馳走するにゃ!」
「はい。楽しみにしていますね」
うんざり顔の孫と肩を組み、マンチカン伯爵はスキップでもしそうなくらいご機嫌になってようやく帰途についた。
そうして、彼らが王宮の玄関を潜るのを見届けてから、ウィリアムが密かにため息を吐き出す。
「思ったより、元気そうだったな」
「はい……でも、最初いらした時は、おヒゲが少ししょんぼりなさっていました……」
御年五百歳のマンチカン伯爵――彼は一月前、五十年連れ添った十人目の妻を亡くしたばかりだった。
イヴはそっと唇を噛み締めて、空になったカップに視線を落とす。
喪が明けて初めて登城したこの日、『カフェ・フォルコ』でマンチカン伯爵が注文したカフェオレは、彼の亡き妻がいつも好んで飲んでいたものだった。
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