第6話
「飲もうか」
という石川さんの提案で、四人で最初で最後の酒盛りをすることにした。
「この村、酒出すところあったっけ?」
「人間の住む場所さ。ないはずがないだろう」
「でも、宗教の教義によっては、お酒ってだめなとこもあるんですよね?」
「わりと解釈でスルーしてるんだよ。たとえばビールは、お酒じゃないとかって」
「あ、むかし近所に、まったく同じことを言う、アル中のおじさんがいました! もしかしたらあの人も、敬虔ななんとか教徒だったのかもしれないですね!」
「違います」
「あたし、〇〇〇〇〇で〇〇〇人に、似たようなこと言われた。戒律で婚前交渉できないから、代わりにアナルセックスさせてくれって。それはセックスじゃないからセーフだって」
「で、したのか?」
「したんですか?」
聖なる地から戻り、早めのシャワーを済ませてから、石川さんが目ざとく見つけていたという店に行ってみることにする。
「えー、石川さん、明日出てっちゃうのー?」
たまにシャワーを浴びないで寝る、面倒くさがりの佳代が、僕らの目など気にせず下着になって着替えながら言う。タガの外れた欧米人の女性バックパッカーみたいだ。
「うん。明日、鳥葬が見れても見られなくても、昼過ぎに隣町まで行くバスに乗ることにしたよ。俺が一番長く、一ヶ月近くもここにいたんだぞ。まあ、潮時だよ」
「会ったばかりなのに。もうちょっと一緒にいたいです」
フリースの上からでもわかる、大きな胸を無意識に揺らせてにじり寄り、引き止めに入る英恵。男ならこれで半分くらいは落ちそうなものだが。
「じゃあ、行こうか」
皆で連れ立って宿を出る。明日にはもう、こういうのも終わりになる。
暮れてゆく空の下で、全てがシルエットになる夏藩の通り。宵闇を店の裸電球が、ほのかな黄色に照らして、古い時代の町並みのように浮かび上がらせている。佳代と英恵が縁日の子供のようにはしゃいでいる。聖なる地からの帰り道でも、二人はにぎやかに喋り続けており、不思議と相性はいいように見える。
「え? 何この店、ヘンなの」
通り沿いにある建物の店は、なんだか妙な雰囲気だった。入口からして、西洋のカフェっぽく、内装も中華風ではなかった。店内にチベタンの客はおらず、白人カップルのひと組だけが優雅に喋りながら、古いBGMに耳をそばだてている。
「洋風だな。いかにも欧米人向けに作ってみました、って感じ」
「ゲバラとフレディとショパンと貞子のパネルが一緒に並べてあるけど、誰か止めなかったのかしら」
「ハンバーガー売ってる。ヤクバーガーだって」
腰の沈むソファに座り、ちょっと変な英語の表記でのメニューを眺める。石川さんが説明する。
「夏藩も、規制が厳しくなる前は、口コミで欧米人のバックパッカーが、鳥葬目当てでけっこう来ていた時があって、そいつら向けに作った店。今ではこの通り閑古鳥だけど、その名残だな。向こうの連中が好みそうなものを、コンセプト無視で手当たり次第に置いているものだから、カオスになってる」
渋過ぎるブルーグラスの曲が終わると、店員がCDを変える。次に流れてきたのは、僕らに合わせてくれたのだろうが、あろうことか日本の二十年以上前のポップスの詰め合わせだった。しかもその選曲が、何かものすごいセンスで、僕も佳代もイントロのたびに水を吹きそうになったり、その時に感じていた青春の一ページを思い出して、視線が遠くなったりする。
「燕京ビールもあるけど、白酒飲んでみる?」
見るからに酒に強そうな石川さんが、中国の酒を薦めてくる。
「……何度か飲んだけれど、割らない焼酎でしょ? 匂いすごいし、苦手です」
白酒はストレートで喉を焼きながら飲むのが定番で、アルコール度数が軒並み50度以上あるというシロモノである。
「飲もう飲もう。なんでもおっけ」
佳代が言う。こいつはなんとなく、全く飲めないタイプか、やたらと強い方ではないかなと思っていたけれど、後者のようだ。
「私もいただきます」
英恵も何の躊躇もなく言う。いけるクチっぽい。僕は覚悟を決めさせられる。
「かんぱーい」
皆で白酒で乾杯し、顔をしかめる僕。石川さんは何のリアクションもなく、安いグラスを飲み干してしまう。
「うん。美味しくはない」
無表情で、そっけなく言う佳代。
「わりといけますね」
笑顔で本当に美味しそうに、ふうと息をつく英恵。
次に流れてきたBGMは、こっちでよく耳にする、いわゆるチベタンポップスとでも呼ぶやつで、早い話が日本の古い歌謡曲を適当にパクったのを、こっちの別に歌が上手いわけではない普通のおっさんが、目いっぱいエコーを効かせて気持ちよく歌っているのを録音しただけのものである。
ふざけた内装の店内で、ふざけた選曲の音楽を流され、癖のある強い酒を飲んでいるせいだろうか、あっという間に酔いは回ってきた。
「あぎさんせめてヒゲくらい生やしなよ~。最初年上だって聞いてビビったわ」
ソファに両腕を広げて、ご機嫌そうな佳代が言う。
「私もビビりました~。あ、石川さんって、おいくつなんですか?」
頬をほんのり、少女のように色づかせて英恵が聞く。
「三十代も、もう後半になるな」
かなり飲んでいるはずなのに、顔色も声色も変わらない石川さんが答える。
「あはは。石川さんも、実はおっさんおっさん~」
飲みにくい白酒を、英恵が水やお茶で割ってくれるのだが、混ぜてはいけないものを強引に混ぜたような物凄い味の何かになっており、なんだか暗い悪意でわざとやってるのではないかという気さえしてくる。
「英恵ちゃんさ、その、聞きそびれてたんだけど……」
石川さんが少し改まって言う。はいなんですかと英恵が応える。
「目が、その、見えてないって、本当なんだろうか」
酔いがすっと、少しだけ醒める。聞くものをバカにしたようなチベタンポップスが、頭の上をわらかすように流れてゆく。
「うん、そうですよ。左目はもう、ほとんど見えないんです。右目は、どこまで見えなくなるか、まだわからないんです。全く見えなくなるか、色と光をなんとか感じられるくらいまでになるか、これ以上落ちないケースもあるかもって」
「そうだったのか。むやみに聞いていいこととは思えないけれど」
「いいですよ。だって皆さん、私の最初で最後の旅仲間だもん。遠慮ナシですよ」
あまりにも重い話のために、それに触れないままでいたけれど、しょっちゅうコケるし体をぶつけていたので、そのたびに心配にはなっていた。
「それは、病気でかい?」
「いいえ、事故です。いや、事件かな」
小柄なわりに、地声の大きな英恵が、告白を始める。
「私ずっと、学生の時からロックバンドを組んでたんです。女の子だけの和テイストな、ちょっとおどろしい感じのやつで。変なのだけど、楽しかった」
小さな顔の中の、大きな口元をほころばせて、楽しかった、と言う英恵。
「固定ファンもけっこうついてくれて、地元のハコはわりと埋められたんです。メジャーのお誘いはなかなかこなかったけれど、私たち、日本よりも海外の方が評価されるよって、よく言われたものだから、その気になって、アメリカでツアーしたこともあるんです。あっちでもそこそこのライブができて、テレビの取材なんかも来て、さあこれからだって時に、やられちゃったんです」
「やられたって、何を?」
これ、と目を指差して、英恵が続ける。
「アメリカから戻って、最初に地元でやったライブの帰り道に、いきなりすごい衝撃を頭に受けて、そのまま意識がなくなったんです。気がついたら、病院のベッドの上でした。頭がひどく痛くて、気を失ってから結構時間が経ってて。おそらく待ち伏せされて、バットか何かで頭を殴られたのだろうって。夜の暗がりで、背後からだったから何も見ていないし、誰にやられたのかもわからなかった。傷害事件として、一応捜査はされたけれど、手がかりなし目撃者なしで、犯人は捕まってません。通り魔だったのかもしれないって」
それが一年ちょっと前のことですと、英恵は言う。
幸い脳などに異常はなく、短期間で退院することができたので、すぐに練習を再開し、それまでと変わらない生活を取り戻したはずなのに、半年ほどしたある日突然、左の視力が落ち始めたのだという。
「本当に、いきなりでした。頭を殴られた後遺症だったんです。正確には眉毛の外側、視束管損傷といって、脳と眼を繋ぐ器官に傷ができちゃって。手術も含めて色々と治療しましたけど、左目の視力はほとんどなくなって、近い将来右目も、重度弱視レベルになる可能性があるって言われました」
その診断が、三ヵ月前のことだったという。
「しばらく何もできなくなるくらいに落ち込みました。でも、受け入れなければいけないことだったから、私、まだ目が見えている今のうちに、やりたいことをやっておこうと、そう考えたんです」
「それが、チベットへの旅行なんだ」
石川さんにはいと答え、白酒の残りを飲み干し、とても美味しそうに息をつく英恵。ためしに僕も、もうひと口飲んでみる。寒気がするほどクソまずい。
「消去法で、やりたいこと、見ておきたいことを、あれこれ選んだ末に、ここ、チベット旅行にしたんです。私ずっと、一人旅にあこがれてたんです。アメリカをメンバーと回った時も楽しかったけれど、あそこは何か違ってた。それに、やっぱり私、一人で世界を感じてみたかったんです。時間もお金もないから、場所もどこかに絞らないといけない中で、私の見ておきたかったものは、一番きれいな空だったんです。南の島とか、オーロラを見ることなんかも考えましたけれど、旅慣れた人に、世界で一番奇麗な空はどこで見られますか? って聞くと、ほとんどが、チベットだって言うんです。それも、うんと高い場所がいいって」
僕も石川さんも、うんうんと頷く。間違ってはいないぞと。
「チベットという場所を調べていた中で、ここの鳥葬を見つけたんです。なんだか私、不思議とそれに、すごく惹かれちゃって、ここが目的地になりました。まだ右目はけっこう見えるし、空の色だってちゃんとわかるから、ここまでもすごく楽しかったけれど、今日のあの、不思議な町を眺め下ろしてた時の空の色は、今までで一番奇麗だった。一生忘れないと思います。ご一緒させてもらえて、皆さんには本当に、感謝しています」
丁寧な言葉で頭を下げられ、酔っ払いどもはぎこちなく恐縮してしまう。しかしその時流れてきたポンチャックがあまりにもひどく、佳代などは店員をにらみつける。
「……英恵ちゃんはすごいな。辛いことがあっても前向きでいて、今できることを精一杯しようとしてる。お役に立てたら、なによりだ」
石川さんが感慨深げに言い、佳代がうんうんと頷く。
「ほんと、英恵ちゃん立派だよね。ねえ、この先帰るまで大丈夫なの? 旅の途中で、見えなくなったりはしないの?」
きっと大丈夫ですし、そうなったらそうなったですよと答える英恵に、佳代が息をついて続ける。
「それにしても、ひどい話だよねー。あたしなんかと違って、ひとに恨まれようもなさそうな英恵ちゃんに、なんだってそんな真似したのかしらね」
僕もそれは同感だった。こいつや石川さんならさもありなんとも思えるけれど。
「でも……その、実はちょっと、身に覚えが、ないこともないんです」
その言葉に、僕らは驚く。目を見て話していた英恵が、輪にしてからませた指に目をやりながら言う。
「バンドを始めてから、私、ものすごく遊んでたんです。誰彼かまわずセックスしてたし。それも、一度きりが多くて。よく病気にならなかったと思うくらい、無茶してました」
聞こえないくらいに小さい声で僕は、マジ? とつぶやいていた。
「その中には、私のことを、本気で真面目に好きになってくれた人もいました。私、そういう感情を利用してたし、そういうのを楽しんでいたと思う。面倒になればすぐに、切って捨ててました。……ちょっと私、壊れてるんです。色々あって」
僕も英恵は、そういった奔放さとは縁のない女性に思えていた。けれどもそう告白されると、性に嫌悪のないエロティックな存在に感じられてくるし、薄い唇の大きな口元が、ひどく艶かしく見えてきた。
「もしかしたら、私に関わっていた誰かが、私が軽い気持ちで言った重い言葉や、軽い気持ちで反故にした深い約束に、ひどく傷ついて、私のことを許せなくなって……、なんて風にも思うんです。私、ここではとても言えないようなこともしてましたから」
自分への卑下ではなく、誰かの痛みを慮っている、という表情でもなかった。仕方ないことと同じくらい仕方ない自分への諦念を、英恵は指先に浮かべていた。
「バンドも解散したし、音楽も諦めました。光を失ってからでも、歌は続けられるよなんて言ってもらえますけど、まだそんな気にはなれなくて。これから私は、闇の世界の住人になるかもしれないけれど、それまでに、一番近くて青い空を、壁紙みたいに心に焼き付けておけば、誰かも自分も恨まずに、楽しいことを見つけて生きていけるかなと思って。あとはもう、ここまでは気合と、初志貫徹でつっ走って来ました」
石川さんが腕を組み、ひとつふたつ頷いて言う。
「……ここまで来るのだって、旅慣れた男性でもどれだけ大変か。ましてやバックパック旅行も初めての英恵ちゃんが、どれほどの不安の中でやって来たのか、俺には想像もつかないけれど、もしかしたらエベレストに登頂するよりも、勇気が必要なことだったかもしれないな」
そこまで大げさではないですよと笑う英恵に、石川さんが余計なことを思いついてしまう。
「よし! あぎさん、英恵ちゃんのここまでの勇気と、これからの幸運を祈って、野郎二人でこいつを一気だ! ほらほら、立って立って」
「……え、これ?」
目の前には、八宝茶で割った例の白酒だけが、気高く誇らしげに鎮座ましていた。
「あの、ビールとかにしませ……」
「さあ、行くぞほら」
言うが早いか、麦茶のように杯を空にしてしまう石川さん。無責任な佳代は楽しそうな顔つきで、英恵は輝く瞳で僕を見ている。この目はやがて、光を失うかもしれないのだ。そんな風に思うと、なんだかもう断れなくなってくる。覚悟を決めて白酒を飲み干す。腰にきた。
「英恵ちゃん、バンドって、どんなのやってたの? パートは? あたしもちょっとかじってたよ。真面目にやらなかったけどね」
かすれそうな意識の向こうから、英恵と佳代の声が聞こえてくる。意識が少し飛んでいたようだ。
「一応ギターと、ボーカルなんです。ジャンルは、そうですね……」
ソファで潰れた僕に、石川さんが水を飲ませてくれる。朦朧とした視界の中で、石川さんが持ってきたギターを、英恵が手に取っているのが見える。
「お礼に、歌いますよ」
やってやってと手を叩く石川さんも佳代。奥にいた白人カップルも、BGMを落としたチベタンの店員も、期待を込めてこちらを見ている。英恵が嬉しそうに、弦の浮きを確かめ、軽くハーモニクスでチューニングし、いい感じ、と言う。
それじゃ、とピックを走らせる。ブレスと一緒に、内に何かを受け入れたように、すっと表情が変わり、英恵が歌い出す。
……え?
その途端、店内全員の笑顔が消えた。
英恵が叫び始めたからだ。
いや、歌なのだった。それは叫びではなく、歌だった。絶叫と思わせるほどに、英恵の歌声はでかく、力強かった。
なんだこれ? 浪曲?
低いのに張りのある声は、店内に魔物が浮遊するかのごとくうねり、どこか和風なテイストのメロディラインは、スリリングと言うよりもおどろおどろしい。ギターを武器に何かと対峙しているような英恵の姿は、魔物が憑依し、人格を豹変させたかのように、異様だった。
恋心の変節を、古い日本の言葉で綴った歌は、独特の節回しをつけた唱法で唄い上げられ、それは美しく、ひどく危うい魅力があった。あまりにも未完成でいながら、恐ろしいまでに確立していた。笑顔で迎え入れたはずの店内の誰もが圧倒され始めていた。艶かしくエロティックな、魔性を知っている女だけに奏でられる唄声によって。
英恵の声はさらに張り上げられ、背中がびりびりと震えてくる。
……マイク、入れてないよな……?
白人男性が顔をこわばらせ、女性は口を押さえている。
サビの部分までさしかかると、低いと思っていた英恵の声は、悲鳴のような高みにまで達し、店全体を震わせる。僕の背筋もさらに震える。
全員の肌を粟立たせてから、最後は静かに、そっと、曲は終わった。
英恵が顔を上げ、素に戻ったようにえへと笑うと、誰かにつられ、全員から割れるような拍手が上がる。
「すごい、すごいよ英恵ちゃん!」
「あーたーし鳥肌立ってるー」
白人男性がソウ・クールと指笛を吹き、女性が首を振って目をまばたかせている。
僕も何か、感想というかリアクションを返したいのだけれど、酔ってる頭にでかい声の歌を浴びたせいで、目がぐわんぐわん回り、それどころではない。誰か水をくれ。
「驚いたよ。最初本当に、英恵ちゃんが歌ってるのかと思った。どうやったらあんな声が出せるんだい?」
「それだけが、取り得ですから」
ギターを抱きしめ、ネックに頬を寄せて首をかしげる可憐な姿からは、もののけが憑いたようなさっきの様子は、とても想像できなかった。
「すごいけど、……でも、ごめんねえ、なんて言うのかな、メジャーデビューとかそういうのはさ、無理というか、難しいだろうな、とは思う」
佳代の言葉に、英恵はそうなんですよと笑って答える。
「ダメなんですよね、残念ながら。子供なんか、泣いちゃうんです」
「でも、あたし、すごく好き」
佳代が言うと、ありがとうと英恵がしがみつく。こいつらもだいぶ酔っている。
「石川さんも、聞かせて下さいよ」
英恵が石川さんにせがむ。石川さんは頭を掻きながら言う。
「そのために、ギター持ってきたんだけれど、あんなすごい歌を聞かされた後じゃ、なんだかやり辛いことこの上ないな」
お願いしますと英恵に押し切られ、石川さんもギターを構える。白人カップルと店員と僕らの注目が、またひとりに集まる。
「俺のは古臭いフォークだぞ。オリジナルじゃないし、英恵ちゃんみたいにかっこよくなんか歌えないぞ」
笑顔のまま前置きもなしに、そのままの表情で、そのままの空気を変えずに、石川さんはいつものように歌い出した。
……これなんだよな。この声、反則だ……。
かすむ意識の中に、少しハスキーな、柔らかく温かい、石川さんの声が聞こえてくる。最初に聞かせてもらった時、そのまま何度もリクエストをせがんだことを思い出す。
……あ、まただ。
この人の歌を聞いていると、胸が苦しく、切なくなってくる。美也子との旅の景色がよみがえってくる。
東欧の田舎で、石の敷かれた道の上で、雨に降られ、白い空が暮れてゆくのを、手を繋ぎながらじっと見ていた夕刻。
トルコの遺跡の片隅で、陽射しをよけてアーチの下で風にゆられて胸を満たした、美也子の香り。
インドの祭りの町で、旅に病み動けなくなった僕のために、毎日美也子が剥いてくれたマンゴーの味。
初めてのチベットの荒野を、休憩中のトラックの助手席から降りて眺め、何ものも生まれてこない世界を見つめて、美也子が言った言葉。ここには、全てがあるの。全てのものが、ここにあるの。
佳代の頬が一筋の光で濡れていた。白人女性は祈るようなポーズで石川さんを見つめていた。チベタンの店員はカウンターから身を乗り出していた。すぐ隣の英恵はじっとうつむき目を閉じていた。
伏し目がちの笑顔をふっと残し、曲は終わった。
石川さんが静かに顔を上げ、ぺこりとお辞儀をすると、僕らは再び、歌うたいに惜しみない拍手を捧げる。
「やばいです……。ぐっときました。声が素敵すぎて」
英恵が鼻をこすり、佳代がうつむいたまま拍手をしながら言う。
「ね、すごいでしょ、石川さん。声ズルいよね」
ギター貸してと手に取る佳代に、英恵がじゃれつくようにうなだれる。佳代が頭を抱くと、そのまま英恵は動かなくなる。目は開いているけれど、どこも見ていない。
「英恵ちゃーん。戻ってこ~い」
「あ、まずいなこりゃ。水持ってきて」
完璧に出来上がっている。僕も隣のでかい体に、無意識に寄りかかる。
「あぎさん? あれ、こっちもか」
心地の良さにとろんとしていると、すぐに本物の無意識がやってきた。
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