紫香とけやき
汐海有真(白木犀)
紫香とけやき 前編
今から遠い、遠い昔のお話です――
武蔵野の台地に、数多の自然が広がっていた頃。並び立つ広葉樹は、昼間は木漏れ日を地面に降らし、夜間は
そんな世界で、
烏の濡れ羽色の長髪と、神秘的な
紫香は十代後半ほどの少女の姿をしていましたが、実際には何百年もの時を生きていました。幾多の場所を旅し、そうして訪れた武蔵野の地に、紫香は魅せられました。
広大な自然の中に一人佇みながら、深い紺色の夜空に浮かぶ月を眺めているとき。それは紫香にとって、とても大切な時間でした。そうしているだけで、紫香の心は幸福に染まっていくのでした。
死神の本来の使命は、人間の魂を肉体から刈り取ることでした。亡くなった人間の魂は、死神の助けがなければ冥界に赴くことができません。地球には多くの死神がいて、現世と冥界の橋渡しをしていました。彼等の持っている鎌は特殊で、人間に使えば魂を剥ぐことができ、人間以外の物に使えば斬ることができました。
けれど紫香は、その使命を疎んでいました。死を迎えた人間から、銀に
他の死神は、そんな紫香のことを臆病者だと罵り、嘲笑しました。悪意ある言葉に心を削られながら、やがて紫香は孤独を選ぶようになりました。死神達と関わることをやめ、武蔵野の自然に心を打たれながら、放浪し続けました。
ある雨の夜。紫香は森林の中に座り込みながら、ぼうっと考え事をしていました。
――どうして私は死神なのに、魂を刈ることができないのでしょうか?
夜の昏さは紫香の心に入り込んで、後ろ向きの思考を膨らませていきます。ざあざあと降る雨は草木を濡らして、冷たく物寂しい香りを漂わせていました。
――きっと、怖いのです。肉体と離れずにいたいと切望している魂を無理矢理剥がし、こちらの世界に連れてくることが、そしてそれが正しいとされていることが、どうしようもなく怖いのです……
紫香は俯いて、薄藍の瞳からぼろぼろと涙を零しました。涙の雫は降り落ちる雨と混ざり合って、消えていきます。
「どうして泣いているんだい?」
前方から、声がしました。低くてしゃがれていて、でもどうしてか聞いているだけで、安心してしまいそうになる響きでした。
紫香は顔を上げました。目の前には、大きなけやきの木が佇んでいました。
「……貴方は?」
「わたくしは、けやきだよ。お前さんは何という名だい?」
「私は……紫香と申します。色彩の紫に、香りと書いて、紫香」
「おやおや、素敵な名前じゃないか。それで、どうして泣いているんだい?」
紫香は手で涙を拭うと、自嘲するように微かに笑いました。
「私は死神です。死神は、死んだ人間の魂を刈らなくてはいけない。でも私には、それができません。だから、悲しくて泣いていたのです。きっと私は……欠陥品なのでしょう」
風が吹いて、けやきはがさがさと揺られます。幾つかの葉が木から離れて、雨と共に世界へと落ちました。
「わたくしは、そうは思わないよ。紫香、あなたはきっと、とても優しいんだ。何かを奪うことを恐ろしく思うのは、決しておかしいことではない。むしろ、それが正常なんだよ」
けやきの言葉に、紫香は目を見開きました。
それからまた、大粒の涙を溢れさせます。嗚咽を漏らしながら、紫香は微笑みました。
嬉しかったのです。臆病者だと蔑まれ、憎まれることばかりだった紫香は、こうしてけやきに温かな言葉をかけてもらえたことが、嬉しくて堪らなかったのです。
紫香は沢山泣いて、そうしてけやきに笑顔を向けました。
「ありがとうございます。少し、楽になりました」
「それならよかった。紫香、よかったらわたくしと友人になってくれないかい? 今までずっとひとりでいたから、寂しくてね……」
けやきの提案に、紫香は驚いたような表情を浮かべてから、すぐに力強く頷きました。
「私などでよければ、ぜひ」
――こうして紫香とけやきは、友人となりました。
日中は愛しい武蔵野を旅し、夜中は空を見ながらけやきとお喋りをする――紫香は、そんな日々を送るようになりました。
このまま幸福な時間が続くと、紫香はそう信じて疑わずにいました。
しかしその思い込みは、呆気なく崩れ去ることになります。
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