第四章 ~『リーシャの訪れ』~
クラリスの日常は順風満帆だった。統合したフーリエ領の運営も順調で、スラムも聖堂教会の活躍で救われた。
治安のよくなった領地では怪我人が減り、そのおかげで診療所での治療時間も減った。おかげでアルトと一緒にいられる時間を増やすことができた。
談話室で書物に目を通すアルトの横顔を一瞥する。芸術品のように整っている顔立ちは、見ているだけで目の保養になる。
「私の方をジッと見ていたようだが、どうかしたのか?」
「い、いえ、ただアルト様は美しいなと」
「何を言う。クラリスの美貌と比べれば、私は路傍の石ころ同然だ」
呪いが解けても、アルトは自分の容姿に自信がなかった。どれだけ褒めても、お世辞だと思いあがることがない。
「それに異性に好かれたいわけでもない。私はクラリスさえいれば十分だからな」
「アルト様……」
「だからいつまでも傍にいてくれ」
「は、はいっ」
言葉の節々から愛情を感じ、心の底から愛されていると実感することができた。
「失礼します。公爵様」
談話室に顔を出したのは白髭の老人、グランだ。元々は王家に雇われていた彼だが、現在はアルト公爵邸の使用人となっている。
「どうかしたか?」
「お客様が参られました……ですが、その……」
「思いがけない客のようだな。いったい誰だ?」
「リーシャ様です……」
「なんだとっ!」
驚きで思わず声が出る。だがアルトより強い反応を示した者がいた。クラリスだ。ガクガクと手を震わせて、顔が青ざめていた。
「リーシャに会うのが怖いのか?」
「あ、あの、それは……」
「なら会うのを止めて、帰ってもらおう」
ハラルドを妹のリーシャに奪われたことが原因で婚約を破棄している。その時のトラウマを克服できぬままに再会するのは危険だと判断したのだ。
しかし彼女は精神的に成長していた。ゆっくりと深呼吸して、手の震えを止める。
「会いましょう」
「いいのか?」
「はい。婚約を破棄された時はショックでしたが、随分と前の話ですから。それにリーシャは大切な妹です。アルト様に紹介させてください」
「ならそうしよう」
グランに客人を通すように伝えると、リーシャが顔を出す。クラリスと同じ黄金を溶かしたような金髪と、海のように澄んだ青い瞳。顔の造りもそっくりだが、クラリスと比べて、気の強さが反映されていた。
「お姉様、お久しぶりぃ」
「――――あ、あの……今日は何の用で?」
「お姉様に謝りたくて。酷い事をしちゃったと後悔していたのぉ」
朗らかに笑うリーシャの態度から謝罪の意思は感じられない。それでもクラリスは妹が謝りたいと口にしてくれたことが嬉しかった。
意識しないままに、目尻から涙が零れる。談話室に嗚咽が響いた。
「お姉様!?」
「……ぐすっ……ち、違うのです。これは嬉し涙で……わ、私、リーシャのことが好きですから。仲直りできたことに感動してしまって……」
幼少時代、家族から無視されながら育ったクラリスにとって、リーシャは唯一人の話し相手だった。心の底では和解を望んでいたのだ。
さすがのリーシャも空気を読んでか、クラリスが泣き終わるのを待つ。談話室が静まると、アルトが声をかけた。
「クラリスの夫のアルトだ」
「知ってますよぉ。お金持ちなんですよねぇ?」
「は?」
「私、裕福な男性が好きでぇ、顔もいいし、背も高い。うん、合格です」
「は、はぁ」
初対面にも関わらず失礼な態度に呆れてしまう。だが相手はクラリスの妹だ。友好的な笑みを崩さない。
「合格とはクラリスの夫としてということかな?」
「半分正解です」
「半分?」
「答え合わせをする前にお知らせがあります。えいっ♪」
リーシャはアルトの胸に飛び込むと、ギュッと抱きしめた。
不意の行動に驚くも、アルトは咄嗟にリーシャを払いのける。絨毯の上に倒れ込んだ彼女は、非難がましい目を向ける。
「アルト様ったら、ひっどーい」
「君が抱き着いてくるからだ」
「それの何がいけないんですかぁ? 私たちは婚約者なんですよぉ」
「はぁ?」
「王子様から聞かされていませんか?」
「兄上からは何も」
「ではこれを。王子さまから手紙です」
渡されたのは一枚の封筒だ。封蠟を外し、封入されていた手紙を確認する。
ハラルドの筆跡で埋められた文面にはあまりにも非常識な内容が記されていた。アルトは手紙を破り捨てる。
「兄上は悪魔のような男だっ!」
「何かあったのですか?」
「クラリスとの婚約が継続中だと伝えてきたのだ。兄上は、君に婚約破棄を突きつけた事実をなかったことにするつもりなだ」
「そ、そんなことできるはずがありません」
「いいや、可能だ。正式に婚約を破棄するためには妃の親族に了承を得る必要がある。つまりバーレン男爵が婚約の破棄を認めていないと主張すれば、婚約関係は続いていることになる」
「で、ですが、私が婚約破棄された事実は王宮の誰もが知る事実です」
「それでも、事実と契約は違う。正当性を盾にして、クラリスを私から奪うつもりなのだ」
今更ながらに卓袱台をひっくり返してきたハラルドに怒りが湧く。クラリスが婚約破棄でどれほど傷ついたかを知っているからこそ、それを理由にした姑息な手に感情が昂る。
「クラリスを奪われないためにも、私たちの正当性を主張しなければならない」
「それなら、私をアルト様に嫁がせたことを理由にしては如何ですか?」
「なるほど。本当に婚約が継続しているなら、妻となるべき人物を辺境に送るはずがない」
「駄目ですよぉ、王子様は対策済みですからぁ」
リーシャの甘ったるい声が否定する。どういうことかと問い詰めると、予想外の言葉がってくる。
「アルト様の婚約者は私だったんですぅ」
「は?」
「つまりぃ、王子様はお姉様ではなく、私をアルト様に嫁がせるつもりだったんですよぉ。でも双子じゃないですか。だから手違いで、お姉様が嫁ぐことになったんですぅ」
「そんな子供の戯言が通じるとでも!?」
「怒らないでくださいよぉ。私は事実を伝えているだけなんですからぁ」
「うぐっ……」
「それにアルト様に選択肢はありませんよぉ。王子の婚約者を横取りしたとなれば、内戦に発展するかもしれませんからぁ」
王家は伝統と誇りを重んじる。だからこそ正当な理由なしに婚約者を奪われたとなれば、秩序のために王国兵を送りこんでくることも考えられる。
戦争は大勢の命を奪う。何としても回避しなければならない。
だがアルトのクラリスに対する愛は本物だ。彼の中で答えは出ていた。
「私は領主失格だ。領民のために君を兄上に返すのが正解だと分かっていながら、離れるつもりがないのだからな」
「私もです。アルト様と一緒にいたい……」
二人は絆を確かめ合うように手を繋ぐ。絡め合った指先から、勇気が流れ込んできた。
「お姉様。アルト様はもう私のモノなのぉ。手を放して頂戴」
「リーシャの頼みでも、アルト様だけは渡せません」
「でも戦争になるわよぉ」
「そ、それは、愛の力で回避してみせます!」
クラリスの瞳には強い意志が込められていた。リーシャは説得の難しさを感じ取り、小さく溜息を零した。
「アルト様もお姉様も愛し合っているのね」
「ああ。私はクラリスを愛している」
「私もです。アルト様のことが大好きです」
「どうやら二人の愛が崩れることはなさそうね」
リーシャも愛のない結婚をしたいと願ってはいない。横恋慕をするのなら、アルトの好意を自分へと向けさせなければ意味がないのだ。
「提案ですが、二人でお父様に直談判するのはどうかしらぁ」
「なるほど。婚約破棄は父親が認めることで承認される。ハラルドとの婚約破棄を過去に認めていたと証言させれば!」
「平和的に問題を解決できますねぇ」
リーシャの提案はこれしかないと思える妙手だ。アルトはクラリスの肩を掴んで、視線を交差させる。
「クラリス、共にバーレン男爵を説得しに行こう!」
「はい、アルト様!」
二人はバーレンの元を訪れることを決意する。だが彼らは失念していた。その提案がクラリスから王子を奪った悪女によってなされたということを。
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