夜光列車

雨地草太郎

夜光列車〈1〉

     1


 黄昏と夜の境界線上に、街は存在しているようだ。

 目が開かないので、詳しい時刻はわからない。なんとなく、そんな時間だと思っただけ。今のわたしにわかるのは、数人がわたしのベッドを取り囲んで、ざわついていることのみ。

 わたしの生命が、電子音に変換されて室内に響いている。音の間隔は長く、今にも止まってしまいそうだ。

 わかっている。

 わたしはもうすぐ死ぬ。

 蝋燭の火が風に吹かれて消えかかっている、ありふれたイメージが浮かぶ。

 医師が必死で手を尽くそうとしてくれているのだろうけど、それが無駄なことくらい、わたしが一番よく理解している。

 目前に死が迫っていても、あまり怖さは感じなかった。

 一度、向こう側の世界を見ているからかもしれない。

 ……向こう側?

 頭の片隅に引っかかっていた言葉、そして風景。

 そうだ、忘れかけていた。

 八年前の夏の日、わたしは彼と出会った。

 彼はなんの前触れもなくわたしの前に現れたのだ。

 あの、白い光を纏った列車とともに。


     2


 八歳の時だ。

 わたしは生まれつき体が弱く、ちょっとした気候の変化ですぐに体調を崩すような手のかかる娘だった。

 幼い頃から入退院を繰り返していたわたしは、まともに学校に通うことすらできなかった。数少ない楽しみといえば、読書と、お見舞いに来てくれるクラスメイトから、学校であった面白い出来事を聞かせてもらうくらいだった。


 次々と記憶が蘇ってくる。


 八歳の八月。

 持病が悪化してしまい、何度目になるかわからない入院生活を送っていた。呼吸がまともにできなかったため、酸素マスクをつけられていた。


 夜の十一時を回った頃だっただろうか。

 どこからともなく、ピイッという汽笛のような音が聞こえた。

 室内からではない。

 わたしは視線だけで音の出所を探ろうとしたが、わからなかった。


 もう一度、同じ音が聞こえた。

 今度は最初の音よりも少し長い間、鳴り続ける。

 その時、急に全身が軽くなった。

 ぼんやりしていた意識が一気に覚醒し、ベッドから跳ね起きていた。すぐに周囲を見渡して、驚愕した。

 わたしの体はうっすらとした色になり、存在感が薄くなっていたのだ。

 ハッとして振り返ると、苦しそうに呼吸をしているわたしが、ベッドに横たわっている。


 もしかしてこれは、幽体離脱というやつだろうか?


 ほとんど取り乱さなかったのは、いま思い返せば不思議なことだった。

 ともかくわたしは、抜け出した自分の体など無視して、窓に駆け寄った。

 病室の窓は中途半端にしか開かないようになっていたので、しゃがみ込んで夜空を見ようとした。

 妙に空が澄んでいたことを覚えている。

 無数の星が、存在を訴えるように輝いていた。その中に一際強く光る星がある――と思ったら、その星が流れた。

 わたしは驚いて尻餅をついた。

 流星はまっすぐこちらに流れてきたのだ。

 近づくにつれて輝きが強力になっていき、やがてそれが、本で見たことのあるような列車の形をしていることに気づいた。


 列車が空を飛んでいる!


 わたしはショックを受けた。

 列車は地面を走るものではないのか。あんな列車の存在は誰も教えてくれなかった。

 こっちに向かって飛んでくることには、さほど危機感を抱かなかった。

 空から現れた列車は、スピードを落としながら舞い降りてきた。すぐそこまで接近すると、ぴたりと空中で停車し、まっすぐ降下して地面に落ち着いた。静かに、音もなく。

 リアリティという言葉を破壊するような光景から、目が離せなくなっていた。

 地面に降り立った列車の、運転席のドアが開く。

 黒い人影が現れた。右手になにかを持っている。


「あー、あー」


 ノイズの混じった、こもった声が周囲一帯に響き渡った。


「この近辺でこの放送が聞こえる方ー、列車が到着いたしましたー。集合した上でご乗車くださいませー」


 緊張感のない、間延びした声。男の人だ。

 男の人は列車の周りをうろつきながらもう一度いった。


 ――列車が到着しております、ご乗車の方はいらっしゃいませんかー。


 わたしは、即座に放送の内容を吟味した。

 この放送が聞こえる人は――と声は言っていた。わたしには放送が聞こえる。つまり、わたしは列車に乗ってもいいということになるのでは? 短絡的な発想だ。それでも、その判断は間違っていないような気がした。ずっと家か病院に閉じこもり、ろくに外出もできず、ときたまの登下校も車で……。


 これまで、まともに外の世界を見たことがなかった。列車だって、テレビや本以外で目にするのはこれが初めてなのだ。加えて、自分の判断で行動したこともない。

 この列車はわたしを試している。そんな気がした。


「行ってやる」


 決意を固めると、ドアを開けて病室を飛び出した。自分の体はすり抜けるくせに、壁やドアはすり抜けられないのが理不尽に思えた。


 四階から一階まで一息に駆け下りると、病院の向かいにある公園まで風のように突っ走った。わたしは自分の体力に感動した。病弱な体を抜け出すと、これだけの力を発揮できるのだ。人生の中で全力疾走したのは、結局あの時だけだったということになる。


 すぐ近くに、列車の運転士と思われる男の人が立っていた。

 勇気を出して近づいていくと、相手の姿がはっきりわかるようになってきた。運転士は茹で蛸になりそうな熱帯夜の中、ブラックのトレンチコートを着てキャップをかぶっている。

 列車の運転士はこんな格好をしていただろうか?

 首をかしげつつも、男の人の正面に立ち、挨拶してみる。


「こんばんは」


 男の人がわたしを見つめてきた。

 その顔は日本人らしくなく、かといってどこの国の人かと聞かれると返答に詰まるような、曖昧な顔立ちをしていた。どこか物憂げで、覇気のない瞳が印象に残っている。


「ああ、こんばんは……」


 戸惑った声だった。


「君、今の放送が聞こえたのかな」

「そうだよ」

「列車や僕が見えるのかな」

「うん」

「……」


 なぜか疑わしげな目で見られる。


「わたし、なにか変なこと言った?」

「いや、まあ変と言えば変だけど……」


 男の人はコートのポケットから丸いものを取り出した。それをわたしの胸の前にかざし、動きを止める。

 二つの針がついたコンパスのようなものだったが、針はどちらもくるくる回っているだけだ。


「やっぱりね。おかしいと思ったんだ」

「ねえ、なにがおかしいの?」

「どうも君は、天笛てんてきを聞いて自分が死んでしまったと勘違いしているようなんだ」

「てんてき? お薬のことじゃなくて?」

「それは点滴だね。さっき聞こえなかった? ピイッていう音」

「あ、聞こえた」

「それはねえ、生を終えた人に、今から迎えに行きますよって伝えるための合図なんだ」

「ふーん」

「でもね、君は例外だよ。このコンパスは死者を指し示すものなんだけど、君を指さないから。あくまでも君自身が勘違いしているだけだからね。さあ、わかったら部屋に戻るといい」

「お兄さんはこれからなにをやるの?」


 わたしは無視して訊いた。


「僕はあちこちでたくさんの人を乗せて、空に帰るんだ」

「ついてっちゃだめ?」


 考えて言ったわけではない。思いつきのようなものだった。


「なんだい、君は死にたいのかい?」

「ううん。ただ、いろんな景色を見たいだけ」

「ははあ、小旅行したいと」

「動ける時に見ておきたいの」


 うーん、そうだねえ……と男の人は唸ったが、すぐに腕組みを解くとわたしの目を見て、

「いいよ、助手席に乗って」

 と言ってくれた。


 わたしは「やった!」と、思わずジャンプした。自分で望んだ選択を否定されなかったのが、なによりも嬉しかった。


 男の人が助手席のドアを開いてくれたので、わたしは素早く飛び込んだ。

 車内はそれほど広くなかった。

 正面にたくさんの計器類が設置されている。ダイヤルに表示されているのはわたしの知らない文字だったが、それが異世界に踏み込んだような雰囲気を盛り上げてくれた。ただ、想像していたようなハンドルやレバーといったものは一つもない。


 夏だというのにひんやりとしていた。

 壁やイスは淡いグリーンで統一されていて高級感を漂わせていたが、座席は硬くてゴツゴツしていた。


 右側――運転席に乗り込んだ男の人は、キャップのツバをいじりながら言った。


「この付近は大丈夫そうだね。じゃあまず、君の名前を教えてもらおう」

「わたしはつむぎって言うの。お兄さんは?」

「紬君か。そうだね、僕にはちゃんとした名前がないんだ。運転士兼車掌……言いやすいだろうから、車掌と呼んでくれればいいよ」

「しゃしょー」

「うん、それでいい。じゃ、行くよ」


 淡々と言って、車掌は右手を前に伸ばす。

 がくっと車体が揺れて、ゆっくりと前進を始めた。正面には病院がたたずんでいる。


「あ、あ、ぶつかっちゃうよ」


 わたしが焦ると、車掌は「大丈夫だよ」と軽く笑った。

 列車が病院の壁と接触した時、思わず悲鳴をあげて目を閉じた。しかし、予想した衝撃がいつまでたっても訪れないので、おそるおそる目を開いてみると、列車は何事もなかったかのように病院を通り抜けていた。


「どうやったの?」

「この列車はね、物にはぶつからないんだよ」


 やはり、普通の列車ではないのだ。


 車掌は中央の計器を見つめ、

「次はこっちか。それほど遠くはないみたいだね」

 独り言をこぼしながら、右手の肘から先を動かしている。


 列車は静かに加速し、上昇を始めた。どんどん高度を上げ、民家より高く、やがて十階建てのビルよりも高い位置まで上がった。

 わたしは窓に張りついて、外の景色を眺めた。


 ――色の洪水。


 夜の街を見て、そんな表現が浮かんだ。

 赤、青、緑、黄色、紫。色とりどりの光が、街を埋め尽くしている。

 綺麗だと思った。

 一方で、切なさのようなものも感じた。

 空から、夜が寂しそうに地上を見下ろしているように感じられたのだ。


「近づいてきたよ。せっかくだから、紬君も僕の仕事を手伝ってくれるかな?」

「うん!」


 気分が高揚していたわたしは、力いっぱいに答えた。

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