第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その566


―――演目のあいだを縫うように、男は人魚の手を引いた。

舞台裏へとこっそり駆け込むと、自分のプランを語り始める。

知識がこのときも役立った、天才アーティストたちが残した言葉を覚えていたから。

彼自身にはその才能はないけれど、才能ある者にはその言葉が通じてしまう……。




「そのときどきの、美しさがあるんだ。星や月が、すがたを変えるように。状況に応じようとすることで、芸の切れというものは上がっていく。君は、感じ取るんだ。それだけで、いい」

「ああ、なるほど。分かります」

「わ、分かっちゃうんだね。そうだと、信じていたよ!」

「ええ。なんとなくですが、それで十分そうです」




―――天才たちの言葉は、男にとってはあまりにも難しい。

意味が分からないから、必死に勉強を重ねてみたわけだが。

感覚的な価値観を、感じ取れるほどの素養が自分に足りていないのも理解する。

だが、天才たちは違うらしい……。




―――人魚は二百年前のサーカス・アーティストの言葉を、即座に理解した。

サーカスの知識もないけれど、その言葉の意味を自然と理解してしまう。

それはあまりにもうらやましいことだったが、男は嫉妬などしない。

むしろありがたいとしか、思わなかった……。




「サーカスの神さまが、ボクたちに幸運をくれたんだ。トラブルを、挽回できる」

「その子が、あなたのとっておき?」

「そ、そうだよ。彼女なら、君の代役をやれる」

「……ふーん。嫉妬したくなるわ。若いのに……」




「ええ。でも分からないことが多いの。貴方の代わりをするためにも、ちょっと聞いてみたい。どうして、それだけの鍛練をしたの?どうして、それだけの傷を負って、まだこの場にいようとするの?痛くて、苦しいはずです」

「サーカスの芸人ってのは、痛くて苦しいが普通なのよ」

「答えには、なりませんね」

「人生哲学を語っているヒマはない。お酒を酌み交わしながら、何週間もしてあげる余裕はないの。芸人はね、考えない。分析する仕事じゃないの。実行し、成し遂げるのが仕事なの」




―――人魚が聞きたかった答えは、その言葉と態度に含まれていた。

彼女は自分の仕事に、愛情とプライドを持っている。

演技を完成させなければ、彼女は満たされないのだ。

だからあぶら汗をかきながらだって、この場所から離れられない……。




「抱きしめて、はなしたくないモノってのが、誰しもそれぞれあるでしょう。私にとって、それはここだっただけ。小娘さん。才能が、この天幕の下に、貴方を導いたというのなら、私の仕事を完成させて欲しい。今夜が、舞台に立てる最後かもしれないから。背骨を、かなり痛めているからね。それに……」

「あちこち、貴方は痛めてしまっている。体中に、古い傷が。相当の鍛練の結果だし、おそらくは仕事の、後遺症。命を、削るものなのね」

「まさに、その通り。ここは、生贄を捧げる、恐ろしい場所よ」

「ちょ、ちょっと、怖がらせないで!ド新人のレイチェルに、変な緊張感をあたえるのは……っ」




「大丈夫よ。女を見る目が、まだまだね。この子は、そんな言葉で怯むような子じゃない。むしろ、その逆だわ」

「そうですね。気に入りました。ヒトが命を捧げるほどの仕事。人生を、生贄にして、貴方はあの場所で飛んだのですね」

「こ、怖くないの?」

「もちろん。むしろ、そういう仕事であればこそ、引き継ぐ価値があります」




「ほうらね。言ったでしょ。生粋の、アーティスト気質なんだよ。今こそ、天幕の下での常套句を使おう。『この子は、若い頃の私にそっくりなんだ』!」



―――女芸人は、どこかさみしさと共に悟りを得る。

自分の時代の終焉がやってきた、花盛りの時間は少ないものだ。

とくに花形のそれは、残酷なほどに短い。

痛みを上げる自分の体を、褒めてやるべきときが来た……。




―――古びて舞台に立てなくなった、ベテランのように。

壊れてしまった人形みたいに、静かに人目から遠ざかる。

愛される時間は終わり、人々から羨望の視線を浴びる時間は終わり。

新しい花が、このサーカスの主役となるのだろう……。




「困ったことに、悔しくはないのよ。今はね。あんたに賭けてあげているから。でも、外れたりしないでね。私、気分屋だから。自分の期待が外れたときは、なかなか厄介な毒蛇になっちゃうの」

「分かります。それほど、貴方は、ここに捧げたのでしょうから」

「ええ。まさに、私たちは生贄。命以上に価値あるものを探して、この天幕の下に立つ。私が伝えるべきは、その歴史であり、哲学ね。生き様を、感じて。それを、受け止めるの。本物の天才には、それだけで伝承の儀式は十分。細かな技巧だとか、知識はまた別の機会に、じっくりと時間をかけるべきだけど。今夜は、それだけでいい」

「そ、そうなんだ。さすがは、天才と、天才……うらやましいけど、やっぱり、ありがたい!お客さんたちを、ガッカリさせずに済みそうだもん!」




―――天才が継ぐべきは、歴史と哲学。

人魚はその言葉が、いたく自分にピッタリだと感じている。

人魚の伝統よりも、おだやかな流れよりも。

生贄たちが無数の世紀を超えながら、血ではなく魂で伝えた芸に価値を感じた……。




「やってみせましょう。期待を裏切ったことは、人生で一度もございませんので、ご安心を」



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