第9話

 駅前の広場で、陽太は女子高生に責められていた。何も答えられない陽太に、女は近づいて圧をかける。この女は、数か月前に陽太が学生証を盗んでしまった「白鳥美羽」だ。陽太がそのことを思い出すのにそれほど時間はかからなかった。美羽は陽太の胸元から、上目遣いで陽太を睨みつけている。

「……ま、待ってくれ。今は持っていないんだ」

 陽太はとっさに嘘をついた。本当は、学生証がどこにあるか全く覚えていないのだ。美羽は眉をひそめて、陽太から少し離れた。

「まあ、失くしていないのなら、よかったです」

 その可能性も否定できないため、陽太は頷くこともできずに、黙って美羽を見つめた。二人の間にしばらくの沈黙が流れたが、お互いに目はそらさなかった。耐え切れず、陽太はため息をついた。

「……こんなところで話すのもアレだし……。とりあえず、ホテルに行かないか」

 陽太は相当混乱していた。とにかく密室に移動したかったが、いつものようにスマートにホテルに誘うことができなかった。美羽は瞬時に顔を歪めた。

「駅前で話すことじゃないだろう」

 諭すように続けると、美羽はしぶしぶ頷いたが、陽太を睨みつける目は変わらなかった。

「大丈夫、逃げやしない。不安なら、手を繋いでいてもかまわないから」

 陽太は手を差し出したが、美羽は唇を歪め、顔全体で嫌悪を示した。それでも、陽太は手を引かなかった。美羽は諦めて、陽太の手を握った。美羽の小さくて白い手が、陽太の分厚い手に包み込まれる。陽太がホテルに向かって歩き出すと、陽太の手を強く握った。


 部屋に着いて、荷物を降ろしても、二人は無言のままだった。陽太はベッドへ、美羽はソファーに座ったまま、何かするわけでもなく時間だけが経っていった。

「……」

「…………」

「…………名前、なんていうんですか」

 沈黙を破ったのは、美羽だった。驚いて陽太が顔を上げると、美羽は口をへの字にした。

「どうせ偽名を使っているのでしょう?私だけが本名を知られているのなんて嫌なんですよ」

 美羽の言っていることは理解できたが、それでも陽太にとって、本名を明かすというのはリスクのあることだった。本名を教えてしまっては、今日盗みを働くことができない。通報されると、逃げ場がない。

「……三浦健司」

 思い付きの割には、ちょうどいい名前が出てきた。しかし、美羽はそれを信じなかった。

「身分証明書を見せて。私の学生証を見たんだから、あなたのも見せるべきじゃない?」

 偽の免許証でも作ってもらっておけばよかったと、陽太はひどく後悔した。

「……」

 このまま部屋の外に飛び出してしまおうかと考えた。しかし、その考えが読まれたのか、美羽は立ち上がってドアの前に立った。突き飛ばしてしまえば外に出られるだろうが、失敗したら状況は悪化する。陽太の心にも、女の子に乱暴すべきでないという、一端の良心があった。

 しばらく二人は睨み合っていたが、陽太が折れた。大きくため息をついて、鞄の中から免許証を取り出した。

「篠原陽太だ」

 美羽は速足で陽太に近づくと、免許証をちらっと見た。

「……ふぅん、二十七歳なんだ」

 そうつぶやくと、美羽は踵を返して再びソファーに腰かけた。

「……なんで、私の小銭入れなんか盗ったの?」

「……」

 再び沈黙が訪れた。もう陽太には嘘をつく気力も残っていなかった。今日の盗みは、ほとんど諦めていた。とにかく、ここを穏便に切り抜けることが大事だった。

「そうしないと生きていけないからだよ」

 ため息交じりにそう言うと、美羽が眉を上げた。

「どういうこと?盗んだお金で生活しているの?」

「……俺が金を盗んでくると、喜ぶ連中がいるんだよ。そいつらからお給料をもらって生きているだけだ」

 「頼むからそれ以上詮索してこないでくれ」と、陽太は心の中で願った。

「……ふぅん。趣味の悪いお仕事ね」

 陽太の願いが通じたのか、美羽もそれ以上訊いてこなかった。

「……学生証は返せると思うが、あの小銭入れは返ってこない。……すまない」

 美羽は部屋の扉から離れ、ソファーに座っている陽太に近づいた。そして、冷たい表情で陽太を下ろした。

「学生証は必ず返してほしい。もう再発行してもらったけど、悪用されたら困るからね。……小銭入れはもういいわよ。でも、入っていたお金は返してほしい」

 陽太は顔をしかめた。入っていた金は五百円で、陽太にとっては諦めてしまってもいい金額だった。

「五百円しか入ってなかったぞ。」

 そう言うと、美羽は堂々と頷いた。

「そうね。でも、五百円あればご飯が食べられるわ。ノートだって買える。学生の私にとっては、結構な金額よ」

 そう言って美羽は、陽太の前で手を出した。陽太はため息をつくと、鞄から財布を取り出して、美羽の手に千円札を乗せた。

「……半分は詫びだ」

「そう。五百円で詫びだなんて、可愛いわね」

 美羽は自分の鞄に戻って、千円札を財布にしまった。陽太は少し苛立ったが、こんな小娘相手に怒るのも癪だった。そのうえ、悪いのは自分であること自覚もあった。陽太は美羽の生意気な発言を、黙って受け止めた。しかし、美羽の背中を見つめていると、このまま自分だけ責められるのも癪だった。

「……そもそも、高校生がなんてこんなことしてんだよ。未成年が大人と性行為するのは、法律的に危ないだろ」

 陽太がそう言うと、美羽は大声で笑った。

「あなたが法律を語るの?」

 ぐうの音もでず、陽太はたじろいだ。美羽は陽太に背中を向けたまま、振り返って微笑んだ。

「私の勝ち」

 笑顔でそう言うと、陽太の隣に座った。長い黒髪がふわっとゆれて、杏子のような甘酸っぱい匂いがした。

「あなたの言葉を借りて言うと『そうしないと生きていけないから』よ」

「どういうことだ?」

 美羽は笑顔のまま、顔をしかめている陽太を見上げた。

「大人と性行為をして、お金をもらっているの」

 援助交際ということだ。陽太は美羽を厳しい表情で見下ろした。

「『趣味の悪いお仕事』だな」

 陽太の言葉に、美羽は唇をぎゅっと結んだ。

「一緒にしないで。私は学校に行きながら、ちゃんと他のアルバイトもしているわ。それでも足りないから、こんなことしているだけよ」

 なるほど、と陽太は思った。ここで「そんなに生活が苦しいのか」と訊いてしまっては、完全に美羽のペースにのせられる。おそらく、今までもこういう話をして、相手からお金を貢がれてきたのであろう。

「一緒にしないでと言ったけどよ。俺だって『そう』である可能性はあるんじゃないか」

「え?」

 美羽はぽかんと口を開けた。陽太は微笑んだ。

「俺だって、昼はきちんと働いていて、それでもままならないから、こんな仕事をしている。そうである可能性はあるんじゃないか。俺は仕事がこれだけだとは言っていないぞ」

 美羽ははっとして、陽太から目をそらした。

「……」

 美羽は申し訳なさそうにも、悔しそうにも見える表情でうつむいた。

「……法律を語れないのは、お互い様だな」

 陽太は、目を合わせてくれない美羽の頭をなでた。すっかり忘れていたが、このホテルは『ベット』と提携しているホテルで、この様子はカメラで撮られている。どうにかして性行為はしなければならない。そのうえ、美羽に金を渡している姿が、しっかりカメラがとらえている。行為に至るまでの部分は、おおむねカットされるから、客にこの場面を見られることはないが、動画の編集担当者に何か言われる可能性はある。これからどうしようかと、考えながら美羽の頭を撫でていた。

 しばらく二人はそうしていたが、やがて美羽はゆっくりと陽太にもたれかかった。陽太はそれを感じながら、口を開いた。

「ロクでもないのはお互い様だ。せっかくホテルまで来たんだから、楽しもうよ」

 美羽はまんざらでもなさそうだったが、首をたてには振らなかった。陽太は美羽の耳に顔を近づけた。

「金は払う」

 そう言うと、陽太は美羽の腰に手を回した。美羽が抱きついてきたので、陽太も思いっきり美羽の身体を抱きしめた。陽太はあまりやる気がなかったので、適当に済ませて終わらせようと思っていた。しかし、美羽の首筋に顔をうずめて、匂いを嗅ぐと、体の奥がうずき、何かに火が付いたように体が熱くなってきた。

 美羽が、陽太の熱くなり始めた部分に手を伸ばした。そっとなでると、陽太はうめき声に近いような声を出した。美羽は驚いて一瞬手を引いた。驚いたのは美羽だけでなく、陽太も無意識に出た自分の声に驚いていた。

「すごい反応……。久しぶりなの?」

 陽太は美羽の首筋から顔を離して、美羽のからかうような笑みを見つめた。そして、強がるように口角を上げた。

「いや、そうでもないよ」

 陽太は美羽に対抗するように、美羽の唇に自分の唇を絡ませた。


「ほら」

 陽太はやっと起き上がった美羽に水の入った紙コップを渡した。

「ありがとう」

 美羽は表情も声もヘロヘロだった。水を飲むと、コップをベッドサイドテーブルにおいて、そのまま倒れこむようにベッドに戻ってしまった。陽太はその隣に座って、美羽の綺麗な背中や尻を見つめていた。

「……どうしよう。このあとバイトなのに……」

 陽太も寝そべると、枕に顔をうずめている美羽の髪を撫でた。

「そんなによかったか」

 陽太がそう訊くと、美羽は枕から半分顔を上げて、陽太を見つめた。

「悔しいけど……そうかもね」

 再び枕で顔を隠してしまった美羽を、陽太は抱きしめた。

「俺もすごくよかったよ」

 適当に済ませるつもりだったのに、結局いつも以上に盛り上がってしまった。乱れてシーツが、性行為の激しさを物語っていた。

美羽を抱きしめながら、陽太はこの後のことを考えていた。身分証を見られた以上、盗みを行うわけにはいかなかった。そのうえ、アルバイトに重ねて、援助交際もしなければやっていけない少女から金を盗るのは、陽太のなけなしの良心も痛んだ。しかし、このまま一銭も盗らずに帰れば、いよいよ客からの信頼が落ちる。以前の失敗があるため、ますます手ぶらでは帰れない状況であった。盗みの巧さで評判を得ている自分が、二度も盗みに失敗したとなると、橘はどれほど失望するだろうか、どれほど怒り狂うだろうか。陽太は身震いしそうになり、考えることをやめた。何とかして、平和に解決する道を探す必要がある。

「美羽、起きてくれ」

 美羽を背中から抱きしめながら、優しく太ももを叩いた。そして、ゆっくり美羽から体を離し、上体を起こすと、美羽もゆっくり体を起こした。

 陽太はまだ意識がぼんやりしている美羽の耳元に顔を近づけた。

「俺はこれから、お前から金を盗まなければならない」

 近くで「え」と声が聞こえた。

「ねぇ……私の話覚えていないの?お金に困っているのよ?そんな子からお金を盗るっていうの?」

 美羽は不安そうに陽太の顔を見た。さすがに陽太も、その表情には心が痛んだ。

「わかっている。でもな、俺も今回の仕事は失敗できないんだ」

 陽太の言葉に、美羽は暗い表情を浮かべてうつむいた。

「大丈夫。学生証と一緒に、盗んだ金は返す」

 そう言うと、美羽は顔を上げた。納得したのか、静かに頷いた。陽太は美羽の頭を撫でると、再び耳元に顔を近づけた。

「美羽が、この後アルバイトに行ったり、帰ったりするのに困らない程度のお金を残したら、いくらになる?」

「……三千円くらいかな」

「わかった。二千円盗むぞ」

 陽太がそう言うと、美羽は驚いた。

「そんな額でいいの?」

 疑いの目を向ける美羽に、陽太は優しく微笑んだ。

「ああ、盗んできたという事実さえあればいいからな」

「陽太のお金を、私から盗んできたお金ってことにはできないの?」

 必死そうな美羽に、陽太はますます心が痛んだ。

「すまないが、それはできない」

 これ以上、この話を深堀りしてほしくなかった。陽太は美羽を抱きしめながら、ベッドから鞄が置いてあるソファーに移動した。美羽の腰に手をまわしたまま、片手で鞄の中から紙とペンを取り出した。

「次はいつ空いている?学生証を返す日取りを決めておきたいんだ」

 陽太は話しながら、。

「来週の土曜日。午後一時から空いているわ」

「わかった。待ち合わせ場所は、今日と同じ駅でいい?」

「うん」

「じゃあ、来週の土曜日の一時に、鮒尾駅で」

 そう言うと、陽太は紙を美羽に渡した。

「これ、俺の電話番号。予定が変わったら、連絡してくれ」

 美羽は紙を受け取ると、静かに頷いた。陽太は美羽の肩を撫でて、ささやいた。

「じゃあ、シャワー浴びておいで」

「陽太は浴びないの?」

「俺は……あとから行くよ」

 その理由を察したのか、美羽はすぐに立ち上がって風呂場へと向かった。

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